第17 天の石屋戸

 

天照大御神は高天原も葦原中国も照らす大御神である

 速須佐之男命の乱暴に驚いた天照大御神は,天の石屋の隠れます。その結果,「ここに高天の原皆暗く,葦原中國悉に闇(くら)し。これによりて常夜(とこよ)往きき。ここに萬の~の聲はさ蝿(ばえ)なす滿ち,萬の妖(わざわい)悉に發(おこ)りき」。話は飛びますが,天照大御神が出てきた時はこうです。「故,天照大御~出でましし時,高天の原も葦原中國も,自ら照り明りき」。

 ここに,古事記の世界観が端的に表れています。

 天照大御神は,高天原だけでなく葦原中国をも照らし出す大御神なのです。それは,言ってみれば,世界の秩序なのです。だからこそ,この神がいなくなると,邪神が満ちて天災疫病などの災いがことごとく起きるのです。混乱をもたらすのです。これが,古事記ライターの確信です。
 ただ,ちょっと意地悪を言わせてください。この表現は,速須佐之男命が支配を放棄して,泣いてばかりいたところでも使われていました。してみると,そんなにたいした表現でもないのかもしれません。単なる常套句であり,古事記ライターの確信とか世界観とかを云々することさえ意味のないことなのかもしれません。

 日本書紀第7段本文はどうでしょうか。「故,六合(くに)の内常闇(とこやみ)にして,昼夜の相代も知らず」。これだけです。日本書紀本文は高天原概念を採用していませんから,世界は,「六合」という言葉で表現されます。


神々の関係がわからない

 古事記によれば,天照大御神が一番偉い神なのでした。しかし,考えてもみてください。古事記冒頭は,高御産巣日神ら3神と高天原で始まっていたではありませんか。それは,無前提の大前提の世界なのでした。それはどうなるのか。また,「天つ神諸(もろもろ)」から修理固成の命令を受けた伊邪那岐命と伊邪那美命が,国生みだけでなく,なぜか神生みまで行い,なぜか高天原の支配者たる天照大御神まで生んでしまうおかしさも想起してください。支配命令の体系を装うだけで,じつはむちゃくちゃな命令体系なのでした。

 こうした叙述を前提にして,以下を読んでください。「八百萬(やおよろず)の神,天の安の河原に神集ひ集ひて,高御産巣日神の子思金神に思はしめて」。そして,見事,天照大御神が天の石屋から出てきたとき,「八百萬の神共に議(はか)りて,速須佐之男命に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負ほせ……神逐らひ逐らひき」。

 高天原に集まった神々は,あたかも合議体を形成するかのようです。これを共和制といいます。君主制ではありません。

 天照大御神がいないのだから,神々が三々五々集まって考えあぐんだだけだって?じゃあ,天の石屋から出てきてから,最高神天照大御神が自ら素戔鳴尊を罰しないのはなぜなんだ。天照大御神は,なぜ怒らないのか。被害者であり最高神ではありませんか。天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は,「汝(いまし)命に益(ま)して貴き神坐す」と嘘を述べて,天照大御神の気を引きます。してみれば,高天原では,天照大御神が一番貴い神なのです。そもそも,別天つ神はどうなった。天照大御神がいなければ神世七代の神はどうなった。修理固成の命令をした「天つ神諸(もろもろ)」はどうなった。

 私には,古事記ライターの頭の中がさっぱり理解できません。まあ,日本書紀も同じようなもんですが。ただ,古事記の方が天照大御神を高く高く持ち上げているので,嫌みのひとつも言いたくなるのです。


天照大神を呼び出す祭祀

 さて,神々は,天の石屋に籠もってしまった天照大御神をおびき出そうとして,策略を張り巡らします。例によって,まず日本書紀第7段本文の把握から始めましょう。

 第7段本文が述べているのは,大きく分けて3点です。

@ 常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて長鳴(ながなき)させた。
A 榊の木の上端に八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)をつけ,中程に八咫鏡(やたのかがみ)をつけ,下端に青和幣(あおにきて)と白和幣(にろにきて)をつけ,これを使って祈った。
B 天鈿女命(あまのうずめのみこと)が矛を持って桶を叩いて神がかりし,踊った。

 古事記も,ほぼ同じような叙述です。


海洋神天照大神の原像と故郷

 長鳴鳥は長く鳴く鶏であり,夜が明けることを意味するというのが,学者さんの見解です。しかし私は,「常世の」という点に注目します。常世の鳥でなければならなかったのです。

 有名な話ですが,天照大神は,大和から離されて諸国をさまよいます(崇神天皇6年)。そして,「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ。」と述べて,伊勢にある五十鈴川の川上に鎮座します。天照大神は,海の彼方の常世国から打ち寄せる波を愛したのです。
 そしてその「斎宮(いわいのみや)」は,五十鈴川の川上に建てられたにもかかわらず,「磯宮(いそのみや)」と呼ばれました(垂仁天皇25年3月)。以上が,いわゆる伊勢神宮の縁起譚です。

 天照大神の本質は,海洋神なのです。太陽神かもしれませんが,同時に海洋神なのです。はるか海上に上ってくる太陽と言えば,イメージがふくらみます。決して,山の向こうや大平原の彼方に顔を出す太陽ではありません。

 だからこそ,「常世の」長鳴鳥なのです。天照大神の故郷にいる鳥を鳴かせたのです。

 さらに,榊に付けられた八坂瓊の五百箇の御統,八咫鏡,青和幣と白和幣。
 八坂瓊の五百箇の御統は,誓約による神々生成の場面で,天照大神が身につけていたアクセサリーです。八咫鏡は,天照大神信仰の象徴です。共に天照大神の象徴です。仲哀天皇8年正月には,筑紫に行く仲哀天皇の一行を,岡県主(おかのあがたぬし)の祖(おや),熊鰐(わに)が,船の舳先に立てた賢木(さかき)に,上から白銅鏡(ますのかがみ),十握剣(とつかのつるぎ),八坂瓊(やさかに,玉のこと)をとりかかげて出迎える話が出てきます。筑紫の伊都の県主の祖,イトデも,同様にして出迎えます。榊に鏡等を取り掲げる習慣は,海洋民と繋がりがあります。

 問題は幣(ぬさ)です。青和幣と白和幣は,青い幣(ぬさ)と白い幣です。私たちの常識では,白和幣で足りるはずです。現に,神主さんはそうしています。なぜ青和幣も必要なのでしょうか。
 これらは,青い海水と白い波を象徴しているのではないでしょうか。海洋神天照大神を誘い出すには,白だけではなく,青も必要だったのでしょう。

 このように,天照大神は海洋神なのです。しかも,瀬戸内海沿岸などの内海ではなく,広い外洋に面した地方でいつき祭られた海洋神なのです。瀬戸内海に生きた海人では,はるか海の向こうの常世国など,考え及ばないでしょう。
 私は,「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」が天照大御神の出生地であり,南九州の日向から薩摩あたりが日本神話の故郷だと述べました。確かにそのとおり,外洋に面した地域が,天照大御神の故郷なのです。


占ったり祝詞を唱える

 天照大御神を引き出す策略は,大づかみにして上記@,A,Bなのですが,ここには,日本書紀に照らしてみると,その集大成かと思うほどたくさんの情報が詰め込まれています。いちいち指摘するのはつまらないしめんどうなので,やめておきます。

 そしてここでも,鹿の肩の骨を焼いて,占いをやっちゃいます。もちろん日本書紀本文にはありません。改めて言うまでもないことですが,神意をうかがう占いなど,人間のやることです。神が行うことではありません。

 それはまだいいかもしれません。布刀玉命(ふとだまのみこと)は御幣(みてぐら)を捧げ持ち,天兒屋命(あめのこやねのみこと)は祝詞を述べ,祈るのです。
 榊を左右に振りながら祝詞を述べる。これは,神主がやることです。人間が神を祈るときの儀式です。神が神を呼び出す儀式にしては,あまりにも世俗的で人間臭いです。祝詞を述べながら榊を振り回す儀式が調ったのは,いつ頃なのでしょうか。そう古い時代ではありますまい。


天照大御神の情けなさ

 天照大御神は岩屋から出て来ました。そこに至るまでの天照大御神の描写は,とんでもなく情けないです。@世の中は真っ暗になったはずなのに,なぜみんな楽しくやっているのかな。A自分が最高だと思っていたら,じつは「汝命に益して貴き神」がいるのね。おかしいわ。Bちょっと,外の様子をのぞいてみようかな。Cそしたら,力自慢の天手力男神が手を取って引き出してしまった。

 まったく,女性の心理を突いた描写だと思いませんか。最高神天照大御神なんて笑っちゃう。日本神話なんて,こんなもんです。天照大御神にもいろいろな側面があるなんて,わけ知り顔に語っちゃいけません。


速須佐之男命の追放の仕方を考える

 さて,速須佐之男命は,@「千位の置戸(ちくらのおきど)」を科され,A髭を抜かれ,手足の爪も抜かれて追放されます。

 いったい何のことでしょうか。何の意味があるのでしょうか。これも,古事記だけを読んでいては,決してわかりません。

 「千座置戸」は,大祓祝詞によれば「千座置座」です。「置座」は物を置く台。「千座」は,その数が多いことです。要するに,お供え物を置く台がたくさん並んでいる様をいうのでしょう。刑罰には,お金を払ってすませる「罰金」というものがあります。しかしここでは,刑罰というよりも,一種の損害賠償に近いという感じがいたします。そうすると,民事と刑事が明確に分離していなかった時代の罰だということになるのでしょう。法律学を学ぶ人にとっては,面白い題材かもしれません。

 これを明確に説明しているのが,日本書紀履中天皇5年3月から10月の叙述です。
 突然,宗像3神が宮中に現れて,「何ぞ我が民を奪ひたまふ」と述べます。しかし履中天皇は,「祷(いの)りて祠(まつ)らず」。その結果,一人の皇妃(みめ)が死んでしまいました。その原因は,車持君(くるまもちのきみ)が筑紫国へ行って,車持部を勝手に管理し,宗像神社の神戸(かんべ。宗像神社に貢納する民)を奪ったことにありました。そこで履中天皇は,「悪解除(あしはらえ)・善解除(よしはらえ)を負せて(おおせて)」祓い禊ぎをさせました。

 また,雄略天皇13年3月には,采女(うねめ)を犯した「歯田根命(はたねのみこと)」が,馬8匹と太刀8本を納めて,「罪過(つみ)を祓除ふ(はらう)」とあります。これを読むと,損害賠償的な性格がはっきりしてくるでしょう。

 「悪解除・善解除を負せて」とは,神に対して行った罪を贖うために,お供え物を出して行うお祓いのことです。饅頭1つではありません。それ相当の財産です。これが,禊ぎ祓いと共に行われるのです。

 すなわち,禊ぎ祓いだけでは駄目であって,宗像神社に財産を提出しなければならなかったのです。神社にも権威と権力がありました。財政基盤もありました。この履中紀の叙述に出てくるとおり,宗像3神を含めた当時の神社は,貢納する民(神戸)をもつ,それ相当の権力者でした。自分が所有する民を奪ったと言って,天皇に対して神罰を降すほどの権力をもっていたのです。履中天皇の時代は,まだまだ専制君主ではありませんでした。神社の権力の源泉は,土地と民の所有でした。

 神の祟りを鎮めるには,やはりお金が必要だったのです。「祷りて祠らず」では駄目だったのです。現代の私たちは,むしろ,お金も出さずに一心に祈ることが純粋な信仰だと誤解しています。


神武天皇即位前紀戊午年9月・敵の持ち物の一部に呪いをかける

 なぜ,髭や手足の爪を抜くのでしょうか。

 これらは,切った後も本人の身体の一部であり,これらに対して危害が加えられると,本人が病になったり死んだりするとされていたのです。だからこそ古代人は,切り取られた爪や髪の毛を人が所有することを嫌い,大事に保管したのです。

 日本書紀の,神武天皇即位前紀戊午年9月を読んでみましょう。

 神武天皇の前に,八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)が立ちはだかります。天つ神は神武天皇の夢に出て言います。天香山(あめのかぐやま)の社の「土(はに)を取りて」天平瓮(あまのひらか)80枚と厳瓮を作って,天神地祇に祭り,「厳呪詛(いつのかしり)」をせよ。そうすれば敵は自ずから降伏すると。
 要するに,敵地の土で作った土器に呪いをかけよ,というのです。帰順してきた弟猾(おとうかし)も,同様の進言をします。
 そこで神武天皇は,椎根津彦(しいねつひこ)と弟猾を変装させて敵中を突破させ,「潜に其の(天香山の)巓(いただき)の土を取」ってきました。それを使って,指示どおり天平瓮や厳瓮を作り,そこに八十梟帥等の命運を呪いつけて,川に浮かべたり沈めたりしました。さらにこれらを使って2つの誓約(うけい)をしたところ,見事,神武天皇が勝つとの結果が出ました。そこで「五百箇の真坂樹」を取って諸神をいつき祭りました。さらに自らが依代(よりしろ)となって高皇産霊尊を降臨させ,神をもてなした後,神武天皇は,「其の厳瓮の粮(おもの)」,すなわち神に捧げた食物を食べ,出陣したのです。

 神武天皇は,やっと大和に侵入したばかりです。天香山は,まだ敵の領地内にあります。そして,敵にとって,霊験あらたかな聖地だったのでしょう。だからこそ,その土を取ってくる必要があったのです。それに呪いをかけることも,正々堂々,敵に対する立派な攻撃なのです。
 この後,神武天皇の軍隊は快進撃を続けます。いわゆる,「撃ちてし止まむ」の快進撃です。


崇神天皇10年9月・素戔鳴尊の毛や手足の爪は物根である

 同様の例は,日本書紀崇神天皇10年9月にもあります。武埴安彦(たけはにやすひこ)の叛乱の話です。その妻吾田姫は,「倭の香山(かぐやま)の土を取りて」,呪いをかけて言います。「是,倭国の物実(ものしろ)」。
 崇神天皇の本拠,倭国の霊峰である天の香具山。倭国の一部を取ってきてこれに呪いをかけることが,敵に対する攻撃だったのです。

 ここにいう「物実」は,すでに私が述べた,誓約で出てくる「物實(ものざね)」であり,日本書紀にいう「物根」です。

 身体の一部は,たとえ身体から離れても,生きているのです。生命力を秘めた,何かしら神秘的なものがあるのです。神聖な土地でも同様でした。だからこそ,交換によって神々を生み出すのです。だからこそ,呪いの対象になるのです。速須佐之男命の髭や手足の爪も,こうした「物根」なのでした。

 こうした体系的な理解ができていない学者さんは,天の香具山の土は,「倭国の物実」として最も呪力あるものとされたのだと言います。これが一人歩きすると,「天の香具山の土の呪力」というお題を作って研究に励むということになるのでしょう。
 呪力があるかどうか,それが強いかどうかは関係ありません。敵があがめ奉っている聖地の土であればよいのです。


構成が異常な日本書紀第7段第3の一書を検討する

 さてここで,日本書紀第7段第3の一書を検討しておきましょう。この異伝は,とにかく構成が異常です。特異な異伝ですから,本文と第1の一書,第2の一書をあわせたほどの分量が掲載されています。

 通説的な考えによれば,根国追放になった素戔鳴尊が高天原に上ります。そこで天照大神と誓約をします。誓約に勝って増長した素戔鳴尊は,暴虐無道を行って天石窟の話につながっていきます。
 ところがこの第3の一書では,話が逆転しているのです。天石窟籠もりの暴虐を働いたが故に根国に追放となり,根国に行く前に天照大神と会って,誓約をするのです。これはいったいどうしたことでしょうか。こんな変わった異伝があったのサ,ですましてよいのでしょうか。

 結論だけを先に言いましょう。第3の一書は,第5段第11の一書から続く物語です。ここでの素戔鳴尊は,@暴虐の神ではなく,A海を支配する神であり,B弥生の神になっています。


第3の一書の素戔鳴尊はいったいどこからやってきたのか

 第3の一書の構成は,以下のとおりです。

@ 素戔鳴尊は,日の神の良田を「妬みて」,妨害,破壊の行為をする。
A それがもとで日の神は天岩窟に籠もる。
B 日の神は出てくるが,素戔鳴尊は「諸(もろもろ)の神」の,「天上(あめ)に住むべからず。亦(また)葦原中国(あしはらのなかつくに)にも居(を)るべからず。急に(すみやかに)底根の国(そこつねのくに)に適ね(いね)」という命令で根国に追放される。
C 素戔鳴尊は,根国に行く前に日の神に会おうとして,「天(あめ)」ないし「天上」に上る。
D 武装した日の神は,素戔鳴尊と誓約をして神々を生む。

 第7段本文までの叙述は以下のとおりです。

@ 素戔鳴尊は青山を枯山になす暴虐無道がゆえに,伊奘諾尊と伊奘再尊の命令により根国へ追放される。
A しかしその前に天上に行き,天照大神と誓約をして神々を生む。
B 潔白を証明した素戔鳴尊は調子に乗って天照大神の五穀と養蚕を踏みにじる。
C そこで天岩窟の話が展開され,素戔鳴尊は天上界から追放される。

 すなわち,根国追放 → 誓約 → 天岩窟という展開に対し,第3の一書は,天岩窟 → 根国追放 → 誓約となっていることがわかります。

 ですから,第3の一書は,根国に行きたいと言って伊奘諾尊から追放され,天上界へ昇ってきたのではありません。誓約に勝っって増長して,田を荒らすなどの暴虐無道を行ったのではありません。そうしたことは,前提になっていません。
 すなわち第3の一書では,@青山を枯山に成す暴虐無道な素戔鳴尊,A伊奘諾尊と伊奘再尊による根国追放,この2点が前提となっていないのです。

 第3の一書の素戔鳴尊は,いったいどこからやってきたのでしょうか。なぜどのようにして,日の神がいる天上界にいるのでしょうか。


第5段第11の一書とのつながり

 じつは,これとまったく同じ伝承が,1つだけありました。第5段第11の一書です。月夜見尊による保食神殺しが語られる,あの権威的,権力的な伝承です。

 第5段第11の一書で伊奘諾尊は,天照大神は「高天之原」を,月夜見尊は日に並べて天のことを,素戔鳴尊は「滄海之原(あおうなはら)」を支配するよう命令しました。この第5段第11の一書は,3神に対する分治の命令を叙述するだけで,素戔鳴尊が暴虐無道な神だとか,青山を枯山に成すとか,それがもとで根国へ追放になったとかいうことは,まったく語っていません。

 素戔鳴尊は,他の2神と共に,海の支配者として天上界に納まっているのです。それが,第5段第11の一書です。

 そしてこの異伝は,五穀と養蚕の始まりを語る異伝でした。
 第5段第11の一書の末尾を思い出してください。「天邑君(あまのむらきみ)を定む。即ち其の稲種を以て,始めて天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)に殖う。其の秋の垂穎(たりほ),八握(やつか)に莫莫然(しな)ひて,甚だ快し」。

 これに対し第7段第3の一書は,こうして始まっています。「是の後に,日神の田,三処あり。号(なづ)けて天安田(あまのやすだ)・天平田(あまのひらた)・天邑併田(あまのむらあわせだ)と日ふ。此皆良き田なり。霖旱(ながめひでり)に経(あ)ふと雖も,損傷(そこな)はるること無し」。

 第7段第3の一書の冒頭の「是の後に」というのは,第5段第11の一書の末尾を指しているのです。

 また第7段第3の一書の素戔鳴尊も,3つの田を耕作しています。この田がやせた田だったので天照大神の良田を妬むのですが,とにかく素戔鳴尊は,五穀と養蚕をする世界の住人に納まっています。いや,五穀と養蚕の世界の住人だったからこそ,天照大神の良田を妬んだのです。長らく縄文世界の住人だった蝦夷は,定期的に五穀を収奪しにやってきましたが,田を妬むことはなかった。ここでの素戔鳴尊は,もはや縄文神から弥生神に変化しています。


素戔鳴尊は初めから天上界にいたのではないか

 第3の一書の素戔鳴尊は,暴虐無道な神ではなく,五穀と養蚕を行う天照大神が支配する天上界にいて,海を支配していたのです。初めから天上界にいたのです。第3の一書の神々は,素戔鳴尊に対し,「天上に住むべからず」と述べて,根国に追放する。してみれば,初めから天上界に住んでいたのです。

 確かに,第5段第11の一書では「天照大神」であり,第7段第3の一書では「日神」です。また,第5段第11の一書にいう「天狭田(あまのさなだ)」「長田(ながた)」と第7段第3の一書の「天安田(あまのやすだ)・天平田(あまのひらた)・天邑併田(あまのむらあわせだ)」とは名称が違います。

 しかし,内容的にはつながっています。

 素戔鳴尊は青山を枯山に変える暴虐な神ではありませんでした。共に天上にいて,日の神が天上界を支配するのに対し,海を支配していました。日の神は五穀と養蚕を開始し,良田を作りました。素戔鳴尊も作りましたが,それを妬みました。そこで乱暴狼藉をはたらき,天岩窟の原因をつくり,天上界の神々によって根国へ追放となりました。天降る素戔鳴尊は,最後に1度日の神に会おうと考えて,天上界にリターンします。日の神はその目的を疑い,清き心か否かを証明するために,素戔鳴尊と共に誓約を行います。
 これが第3の一書のストーリーです。

 すなわち素戔鳴尊は,@暴虐の神ではなく,A海を支配する神であり,B弥生の神となっています。


素戔鳴尊が弥生神として取り込まれた新しい伝承だ

 本来素戔鳴尊は,五穀と養蚕を理解せず,天照大神に文化的に反抗する神であり,解除(はらえ)によって祓われる神でした。弥生文化を理解しない縄文文化の神でした。ところが第3の一書における素戔鳴尊は,天照大神の良田を妬む弥生神になっています。

 この異伝は,かなり新しい異伝でしょう。「日神」であり「天照大神」が登場しませんが,その内容は新しい。

 日の神を天石窟から誘い出すのに,真坂木(まさかき),「八咫鏡」,「八坂瓊の曲玉」,「木綿(ゆう)」が使われます。これらでもって,「広く厚く称辞(たたえごと)をへて祈(の)み啓(もう)さしむ」。すなわち,広く厚くほめ言葉をもって祈ったのです。天手力雄神が天石窟の戸を引き開けたとき,日の神の光が,「六合(くにのうち)に充ち満ちた」。神々は,これを見て大喜びしました。

 こんなふうにのんびりした叙述にも,新しさが感じられます。


第7段第3の一書の誓約は第6段第3の一書の誓約に似ている

 さて,例によって誓約を分析してみましょう。

 ここには,「物根(ものざね)」の交換がありません。ですから,正統性の契機が生まれようもないのです。素戔鳴尊のが生んだ男の子が天上界に残り,天照大神の子となって,孫が葦原中国に天降るという支配の正当性の契機がないのです。
 異伝作者はどうしたと思いますか。

 素戔鳴尊は,「必ず当に(まさに)男を生まむ。如此ば(かからば),男をして天上を御しめたまへ(しらしめたまえ)」と述べます。こうして,素戔鳴尊の子が天上を支配し,さらに天の下を侵略するという契機を,素戔鳴尊自身に用意させてしまいました。

 第6段第3の一書では,日神がこれと同様の仕掛けを作っていました。誓約に先だって日神は,男神が生まれれば,子として天原(あまのはら)を支配させようと述べています。それがここでは,主語が素戔鳴尊に代わっています。

 しかし,その他の点では,第6段第3の一書に酷似しています。
 共に,素戔鳴尊の「左の髻(もとどり)」に巻いた「五百箇の統の瓊(いおつのみすまるのたま)」を「左の掌(たなごころ)」に置いて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を生みます。次に「右の瓊(たま)」を「右の掌(たなごころ)」に置いて天穂日命(あまのほひのみこと)を生みます。以降の神の出生の経緯は,第7段第3の一書がはしょってしまっているのでわかりませんが,神々の名前は一致しています。そして,本文と異なり6神を生んだとする点も,一致しています。

 同系統の異伝なのでしょうか。第6段第3の一書は,誓約の場面しか叙述していません。第7段第3の一書は,伊奘諾尊と伊奘再尊による根国追放がない異伝でした。素戔鳴尊は初めから天上にいました。天上で乱暴をはたらいたので,神々により根国へ追放になったという異伝でした。
 そうした前提の下に読んでみても,筋は通ります。


天照大神伝説を覆す日本書紀第7段の一書

 ところで,日本書紀第7段の3つの一書は,強烈な個性を発揮しています。この3つの異伝は,ほとんど常識になっている天照大神神話をひっくり返すほどの,強烈な光を放っています。
 いったい天照大神は,本当に天石窟の主人公だったのか。天石窟伝説は,本当に天照大神固有の伝承だったのか。天照大神は本当に伊勢の大神なのか。紀伊国の日前神ではないのか。また,誓約による神々の生成を描いた第6段のお話は,本当に天石窟のお話の前にあったのか。第6段本文を本当に信じてよいのか。

 そうした疑問を生じさせる異伝群です。よく知られている天照大神神話との落差は,尋常ではありません。しかし日本書紀編纂者は,きちんとこうした異伝を残しました。ここに,冷徹な編纂態度が見て取れるのです。
 第3の一書については,すでに検討しました。


天照大神が紀伊国の日前神だとする第1の一書

 第1の一書は,「天照大神」を主人公とした天岩窟の話を展開しているように見えます。
 しかしこの異伝は,以下のように伝えています。思兼神(おもいかねのかみ)の発案で,天照大神の「象(みかた)」を作って祈ることになった。こうして作られた「象(みかた)」は,「是即ち紀伊国(きのくに)に所坐す(まします)日前神(ひのくまのかみ)なり」。

 驚くべきことです。天岩窟の話も天照大神も登場することは登場します。しかしそれは「紀伊国(きのくに)の日前神(ひのくまのかみ)」であり,伊勢の大神ではないのです。これはいったいどうしたことか。

 この矛盾を解決しようとしたのが,斎部広成による古語拾遺でした。斎部広成は,最初に作って意に染まなかった鏡が日前神で,次いで作った美麗な鏡が伊勢の大神であると解釈しました。鏡が2つあったというのです。

 しかし本当にそうでしょうか。鏡が2つあったと,どこに書いてあるのでしょうか。学者さんさえも,斎部広成独自の説であり,古語拾遺という文献の史料性にも関連すると述べています(岩波書店・古語拾遺・訓読文補注)。要するに,文献としての価値を疑うほど信用できないという意味です。

 だからこの見解は無視して,日本書紀の叙述だけを考えるべきです。古語拾遺にこう書いてあるで終わっていては,何の解決にもならないのです。


第2と第3の一書は日神が主人公であり天照大神ではない

 第2の一書では,「日神尊(ひのかみのみこと)」あるいは「日神」の話として天岩窟の話が展開されます。やはり天石窟伝説です。しかしそれは天照大神の話ではありません。

 そして,日神が岩窟から出てくる時に岩戸に触れて,鏡に「小瑕(こきず)」がついたといいます。問題は,このあとに挿入された1文です。「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」。

 この異伝によれば,天石窟の話は,「日神」という一般的な太陽神に関する伝承でしかありません。天照大神は,あまたある「日神」のうちの1つにすぎません。そして日本書紀編纂時には,日神のうちの1つとして称揚されていた,「伊勢の大神」という神がありました。各地に「日神」はいましたが,伊勢の「日神」は,別格の「大神」とされていたのです。

 そこには,伝来の秘鏡ともいうべき鏡がありました。それを調べてみると,確かに「小瑕」がある。だからこそ日本書紀編纂者(またはこの異伝の作者)は,この異伝に1文を挿入して,天石窟の伝承をもった「日神」は,じつは「伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神」だったと判断しているのです。


第1,第2,第3の一書の存在意義

 日本書紀編纂時点で,どのように天石窟の伝承=天照大神=伊勢の大神と論証するかが,日本書紀編纂者の課題となったのでしょう。天岩窟の話は,天照大神に結びついていなかったのです。

 第1の一書は,@天岩窟の話は天照大神の話である,Aしかし天照大神は伊勢の大神ではなく紀伊国の日前神である,としていました。
 これで天岩窟の話が天照大神につながりました。しかし,それが紀伊国の日前神であっては困る。

 そこで日本書紀編纂者は,第2の一書を掲載しました。これは,@天岩窟の話は天照大神を含む日神一般の話である,A日神が岩窟から出てくる時に鏡に「小瑕(こきず)」がついた,と伝えていました。

 そこで,日本書紀編纂時の「今」,宮中にあるか伊勢にあるかした鏡を調べてみたら,やれ嬉し,やっぱり小さな疵が残っている。天照大神も日神に間違いはないから,天岩窟の話は,紀伊国の日前神ではなく,伊勢の大神固有の伝承だったと言える。

 「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」という1文は,以上の事情を物語っています。

 日本書紀編纂者が挿入した文ではなく,もともと第2の一書の一部だったとしたらどうなるか。状況はほぼ同じでしょう。第2の一書という伝承は,日本書紀編纂時よりはるか以前に,あまたある日神のうち伊勢の大神こそが天岩窟の伝承をもつ神であると述べていたことになります。


天石窟の話=天照大神=伊勢の大神という図式は日本書紀編纂者が作り上げた

 こうして,現在の私たちが常識として知っている,天石窟の伝承=天照大神=伊勢の大神=皇祖神,という図式が作り上げられたのです。それが言いすぎだとしても,少なくとも日本書紀編纂者は,この図式を証明する必要があったのです。

 日本書紀編纂時点で,いわゆる天照大神神話が確立していたのかどうか。極めて疑わしくなります。

 日本書紀編纂以前の伝承の世界では,@有名な天石窟の話は,天照大神固有の話ではなく日神一般について流布された話にすぎなかったし(第2,第3の一書),A天照大神の話だという伝承も,伊勢の大神ではなく紀伊国の日前神という伝承が一方にあって,伊勢の大神=天照大神とは断定できなかった,B伊勢の大神はいわゆる「日神」であり,すでに「大神」として称揚されていたかもしれないが,疵のついた鏡をもっていた,というだけなのです。


思えば天照大神の出自はいい加減だった

 思えば第5段本文は,生まれた日神を天照大神とは呼ばず,大日霎貴(おおひるめのむち)と呼んでいました。本文中の異伝で,天照大神あるいは天照大日霎尊(あまてらすおおひるめのみこと)という呼び名が紹介されているだけでした。すなわち,日本書紀編纂者自身,古来から信仰されていた日神が天照大神であるとは断定していないのです。

 これは,よく考えると大変なことです。生まれたときの名前に疑義があるというのですから。

 第7段本文にいたって天照大神が天岩窟話の主人公だと断定するのですが,その一書では,以上検討したとおり,古来あった異伝を整理して,正直に紹介しているのです。天照大神,紀伊国の日前神,伊勢の大神,日神。この4つの文言は,決して同一の神を指し示していません。


天照大神は伊勢に鎮座したのではなかったか

 以上の私の見解については,検討しておかなければならない点があります。有名な,天照大神の諸国放浪の話です。
 崇神天皇は,「天照大神」に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)をつけて,倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭ります。これをきっかけに,天照大神の流浪が始まります。垂仁天皇の時代にやっと,伊勢に鎮座します。いわゆる,伊勢神宮の縁起譚です。

 崇神天皇の時代にすでに天照大神が祭られ,垂仁天皇の時代に伊勢に鎮座したのだから,それよりはるか後代の日本書紀編纂時に天照大神が紀伊国にいたとかいう誤解はあり得ないのではないか。考えてみれば,神武紀にも天照大神が登場するではないか。
 一応こう考えることもできます。

 しかし,日本書紀編纂者は,一般的に,地名や神名について,当時どう呼ばれていたかまではきちんと叙述していません。そうした厳密な文言の選択をしていないのです。日本書紀編纂当時に天照大神であれば,「後世,天照大神と呼ばれる神」というくらいの感覚で「天照大神」という文言を使っています。後世「筑紫国」と呼ばれた地域であれば,平気で「筑紫国」と呼んでいます。

 ですから,上記した崇神天皇,垂仁天皇時代の物語の「天照大神」を,「日神」と読むべきだと考えます。


古事記はやはりいい加減である

 ここまでくると,やはり古事記のいい加減さを論じなければなりますまい。

 古事記ライターは,天石窟=天照大神=伊勢の大神=皇祖神という図式を,当然の前提としています。何の悩みもありません。しかも古事記は,天照大御神を,高御産巣日神と対等な命令者にしています。
 しかし日本書紀は,すでに述べたとおり,決してそんなお気楽な位置付けをしていません。日本書紀編纂者は,結構悩んでいるのです。矛盾を承知で,編纂せざるを得ない事情を知っていました。

 日本書紀が成立したのは720年であり,古事記が成立したのは712年。日本書紀に先立つこと8年。古事記は,天石窟=天照大神=伊勢の大神=皇祖神という図式を,なぜここまで平然と主張できたのでしょうか。

 日本書紀と古事記は,同時代の書物です。8年の違いなど,じつは何の意味もありません。大人になってみれば,8年などあっという間です。国家的プロジェクトは,今でさえ10年,20年単位で行われます。当時は時間の流れがはるかに遅かったはずです。流行や思潮の変化も,行政の仕事の速度も,はるかに遅かったはずです。
 ですから,8年を隔てた日本書紀も古事記も,同時代の書物だったはずです。その古事記は,何の疑問もなく平然と,天石窟=天照大神=伊勢の大神=皇祖神という公式を当てはめようとしています。そればかりか,皇祖神高皇産霊尊と対等な神であると主張してやみません。

 古事記という書物は,日本書紀編纂者が直面した悩みや矛盾がとうの昔になくなって,天石窟=天照大神=伊勢の大神=皇祖神という図式をそのまま信じればよかった時代の産物ではないでしょうか。


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