第18 出雲の速須佐之男命

 

速須佐之男命は出雲に降る

 さて,話を進めましょう。高天原を追放された速須佐之男命は,出雲に降ります。日本書紀第5段本文の素戔鳴尊は,追放先として「根国に適ね」と指定されますが,古事記の速須佐之男命は,「この国に住むべからず」と言われるだけです。ですから,速須佐之男命が望んだ根の堅州国に行く途中,出雲に立ち寄っても,それは速須佐之男命の自由なわけです。
 ただ,指定された支配領域「海原」から追放されたことになるのか,という疑問は残ります。

 とにかく速須佐之男命は,出雲で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治して,櫛名田比賣(くしなだひめ)と結婚し,子孫を残して繁栄し,根の堅州国へまかるというストーリーになっています。そして古事記では,日本書紀と異なり,大国主神の物語が大々的に挿入されています。これは,後に述べるとおり,大国主神の王朝物語とも言うべき内容になっています。


なぜ出雲神話が挿入されるのか

 なぜここで出雲なのでしょうか。速須佐之男命が出雲建国の基礎を作り,大国主神の代に栄えたというお話しが,なぜここで出てくるのでしょうか。

 日本書紀の話になりますが,天照大神が天石窟から出現したのちは,天孫降臨へと続いていくのが本来の物語であったとして,出雲神話を「異質の夾雑分子という印象が強い」とまで述べる高名な学者さえいます。
 私に言わせれば,いかにも傲慢無礼な態度です。日本書紀編纂者も古事記ライターも,出雲神話が必要だと思って,そこに挿入したのです。1つの物語として読む読者も,その意味を知りたがっているのです。神話伝承の単なる切り貼りだというのでは,何の答えにもなっていません。

 私はすでに種明かしをしておきました。

 日本書紀と古事記の神話の構造は,以下のとおりです。

 焦点は,国譲りという名の侵略と天孫降臨にあります。そのために,国生みや神生みを描き,舞台装置を設定しました。しかしこれは,国土という土台だけ(古事記では,神のいる国土という意味の神国日本。)であって,現実の人間社会,すなわち天の下(古事記では葦原中国)は,まだできていません。

 一方,速須佐之男命は,天照大御神との誓約により神々を生みます。こうして,速須佐之男命の子が天孫の父になるというからくりを用意し,国譲りという名の侵略と天孫降臨を行う正統性の契機を用意しました。次に,五穀と養蚕の文化に反逆する速須佐之男命を描くことにより,国譲りという名の侵略と天孫降臨を行う理由と口実を用意しました。そして出雲神話を挿入して,現実に侵略される天の下の世界を用意するのです。速須佐之男命は,出雲建国の基礎を作り,これを受けて,その子孫である大国主神(日本書紀では大己貴神)が,天の下全体を作るのです。
 こうして,侵略され支配される現実の世界が用意され,国譲りという名の侵略と天孫降臨になだれ込んでいくのです。

 日本書紀第5段本文では,じつは,天の下の支配者が決まっていません。天照大神と月読尊は天上界へ送られ,天の下の支配を命じられた素戔鳴尊は,「宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず」との烙印を押され,根国行きを命じられました。

 ですから,国譲りという名の侵略と天孫降臨(第9段本文)までは,天の下の支配者不在の時代なのです。
 第5段本文と第9段本文で挟まれた第6段から第8段までの本文が,それにあたります。ご存じのとおり,第6段は誓約の段,第7段は天の石屋の段,第8段は出雲神話の段です。ここに,正当性の契機と侵略の理由と侵略される天の下の準備とが,きちんと詰め込まれているのです。
 この3つの段すべてが,実質的な主語を素戔鳴尊として始まっていることは,すでに述べました。


出雲を中心に大八洲国が平定されていた

 出雲は単なる出雲であり,小さな国だった。そうした認識しかない人たちは,なぜここに出雲神話があるのかという疑問をもってしまうようです。いわく,出雲は強国だった。いわく,出雲は宗教的権威があった。男女の巫女集団である巫覡(ふげき)の徒が,日本全国を回って出雲神話を広めたなどという珍説まであります。

 この一事をもってしても,日本書紀や古事記の研究者たちが,じつは日本書紀や古事記をよく読んでいないと断言できます。

 出雲国風土記では,大己貴神が「天の下造らしし大神」とされています。その「天の下」の領域は,日本書紀の叙述と文言からすれば,東は越の国と大和国まで,西は筑紫国までの,広大な領域となっています。古事記によれば,大国主神は,出雲を中心として西は筑紫まで,日本海側は,場合によっては朝鮮から越の国まで,そして瀬戸内海を通って大和はもちろん美濃,尾張や,現在の長野県の西部あたりまで(諏訪湖の西まで),支配していました。

 これが,叙述と文言からの帰結です。まさしく大八洲国そのものです。

 叙述と文言に基づいた理由と根拠は,のちほど,嫌と言うほど提示しましょう。ここでは,大八洲国を支配していた出雲の勢力に成り代わるために,日本書紀や古事記がいかに苦心して神話伝承を構成しているかということだけを,頭に留めておいてください。


速須佐之男命は単なる狂言回しだ

 ですから,日本書紀や古事記における速須佐之男命は,単なる狂言回しなのです。速須佐之男命を題材にして,日本古代文学における英雄を論じても,焦点がぼけてしまうでしょう。

 確かに速須佐之男命は,櫛名田比賣を獲得するのに,八俣の大蛇という怪物を退治しなければなりませんでした。一種の通過儀礼です。困難を乗り越えたところに幸せがあるという,お決まりのパターンです。しかもその過程で,草薙の太刀という,これまた英雄譚に不可欠なアイテムを獲得しています。
 しかし,速須佐之男命の本質は,国譲りという名の侵略と天孫降臨を用意するために利用された,哀しいピエロにすぎません。

 私は,日本神話を文学的に読むのは間違っていると考えています。

 人間存在の事実に基づいて,妄想を逞しくするのが文学です。逞しい妄想があるからこそ,人間存在の真実がわかる。そうした作品は名作として残ります。でも,そうした姿勢で神話を解釈してもらっちゃ困ります。文学的ロマンもいりません。むしろ障害になります。
 日本書紀という文献が,今,目の前にあります。日本書紀を作ったのは,当時最高級の官僚でした。彼らの本質は,天皇,律令制,その他を信奉し支える官僚でした。そのために,中国の文献を身につけていました。知識と教養があり,文章作成能力があったから,叙述の過程で,今でいう文学的文章が立ち上ってきたのです。ただ,それだけの話だと思います。古事記については,ライターの資質次第ですから,何とも言えません。


速須佐之男命はなぜ天照大御神の弟なのか

 さて,速須佐之男命については,もう1つ考えておかねばなりません。速須佐之男命は,なぜ天照大御神の弟なのかという問題です。
 学者さんは,出雲政権が皇室に服属する際に,弟として,皇室の神話体系に組み入れられたのだとしています。支配される出雲を,大和の弟分に仕立て上げたというわけです。

 しかしそうだとすると,@天照大御神の弟として生まれた,Aしかし性格が悪くて追放された,Bその途中で出雲に降臨した,Cここで櫛名田比賣と結婚して子孫を残し国を作った,Dその後根の堅州国へ行った,という話だけでよかったはずです。わざわざ天上界に上って誓約により正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊らを生む必要はなかったし,天の石屋の話に登場する必要もなかったはずです。

 学者さんは,やはり,神話を体系的に理解していません。神話をきちんととらえていないのです。

 こうして焦点が絞られてきます。弟であるという点に意味はないのです。天照大御神との関係では,むしろ,学者さんが説明できなかった,誓約と天の石屋という点に意味があるのです。そうしたエピソードをくっつけられるのであれば,兄でもよかったのです。壬申の乱に勝った天武天皇は弟でしたから,敵方を兄としてもよかったのです。ただ,当時としては,やはり長子が重んじられていたのでしょう。だから弟にした。ただそれだけのことではないでしょうか。

 日本書紀の神話を読むと,弟は決して疎んじられていません。海幸彦山幸彦の物語では,弟である山幸彦が兄である海幸彦を支配します。その山幸彦が神武天皇につながっていくのです。その後も,実在かどうかは別として,初期の天皇は兄ではなくむしろ弟です。無能な兄に対して賢い弟が描かれていることさえあります。


天照大御神信仰と情けない神速須佐之男命

 古事記のお話しを続けましょう。

 足名椎(あしなづち)と手名椎(てなづち)は,櫛名田比賣の父と母です。八俣の大蛇が姫を食べに来ると言って泣いています。事情を聞いた速須佐之男命は,だったら,いっそのこと櫛名田比賣を自分にくれと頼みます。足名椎は名前を教えてくださいと言います。これに対する速須佐之男命の答えが,またまたふるっているのです。「吾は天照大御神の同母弟なり。故(かれ)今,天より降りましつ」。足名椎は,「然(しか)まさば恐し(かしこし)。立奉らむ(たてまつらむ)」と即答します。

 まるで,命令を得て降ってきたかのようです。そもそも,天から降ってきたことを威張れる身分でしょうか。高天原を追放されて,身をやつしていたのではないですか。古事記ライターは,この話の筋を,とうの昔に忘れてしまったようです。
 また,「吾は天照大御神の同母弟なり。」という偉っらそうな一言で,足名椎たちがあっという間にひれ伏してしまうのも笑えます。なぜかって?わかりませんか。まだ,国譲りという名の侵略や天孫降臨のはるか前なのですよ。天の下の葦原中国では,天照大御神なんて神は,まだまだビッグネームじゃないはずです。誰も知らないはずです。神話伝承なら,こんな出鱈目な展開が許されるのですか。日本書紀でさえ,こんなことはやっていません。

 要するに,古事記ライターは,天照大御神一本主義の人なのです。ここには,強烈な天照大御神信仰が顔を覗かせています。その反面,出雲の英雄速須佐之男命は,聞かれもしないのに天照大御神の「同母弟」であることを誇るような,情けない神になっています。今で言えば,聞かれもしないのに「学歴○○大卒」と言うようなもんです。やな奴です。本当は,吾は速須佐之男命,と言うだけで通用したはずなのに。……。本当に情けない。

 私が言いたいのは,天照大御神信仰によって,古来の伝承の筋さえもゆがめられているということです。リライトの跡がはっきり残されています。そしてここが大切なところですが,そのゆがみ具合は,日本書紀第8段よりもひどいのです。これはいったいどうしたことでしょうか。古事記ライターは,天照大御神信仰が確立した時代の,それを信奉している人なのではないでしょうか。


速須佐之男命が女装したという妄想

 速須佐之男命は,櫛名田比賣をもらい受け,「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女を取り成して,御角髪(みずら)に刺して」,八俣の大蛇を退治します。この,姫を櫛にして髪に挿したという意味が,昔から議論されてきました。

 一部の学者さんは,速須佐之男命が女装したことを象徴しているのだと言います。櫛を髪に挿すことから,女性のイメージを膨らませたのでしょう。

 しかし,私に言わせれば,日本書紀も古事記もきちんと読んでいない者による妄説です。

 湯津爪櫛(ゆつつまぐし)は,女はいざ知らず,男が身につけている物です。日本書紀第5段第6の一書では,伊奘再尊を追って黄泉国に行った伊奘諾尊は,身につけていた「湯津爪櫛」を折り取って灯火とし,膿沸き蛆たかる伊奘再尊を見てしまいます。古事記も同様です。「湯津津間櫛」とあります。蛇足ですが,玉さえも男が身につけています。素戔鳴尊は,身につけていた五百箇の御統の瓊をもって,神々を生みました(第6段第1の一書,第7段第3の一書)。

 本はきちんと読まなければなりません。今でもこの学者さんの説を真に受けて,青春の日々を費やす学生がいるのでしょうか。日本神話の世界は,本当に恐ろしい。下手をすると,人生を浪費してしまうのです。

 私は,櫛名田比賣を櫛に変化させて髪に挿したということになるし,それでよいと思います。どうせ,八俣の大蛇という怪物が登場する物語です。この程度のことは,不思議でも何でもありません。


血なまぐさい話の意味

 速須佐之男命は,十拳劔(とつかのつるぎ)で八俣の大蛇を斬り殺します。流れ出した血で,「肥河(ひのかわ)血に変りて流れき」となります。この怪物は,「高志(こし)の八俣の大蛇」で,毎年出雲にやってきて,娘を食ってしまうのでした。「高志」は越であり,北陸道の古称です。

 こうなると,高志と出雲の戦いの反映ではないかという気がいたします。越の国の人が,毎年出雲に略奪にやってきたことを物語っているのでしょうか。

 速須佐之男命は,「高志の八俣の大蛇」を退治して,出雲国の基礎を作ることになります。速須佐之男命の子孫大国主神には,「葦原色許男神(あしはらのしこおのかみ)」,「八千矛神(やちほこのかみ)」,「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」という別名があります。「葦原色許男神」とは,葦原中国の屈強な神という意味。「八千矛神」とは,武器をたくさん持った強い神という意味。「宇都志国玉神」とは,現世の国を作った功労の神という意味です。そして,この大国主神こそが,「始めて国を作りたまひき」とされるのです。
 それだけでは終わりません。続けて古事記は,大国主神による「高志国の沼河比賣(ぬなかわひめ)」への求婚話を載せています。越まで出かけていって,豪族の娘沼河比賣に夜這いをかけたという話です。その国を平定していないとできることではありません。しかも,日本書紀の仁徳紀や雄略紀を彷彿とさせる,女と歌物語。王朝物語の片鱗さえうかがわせます。

 古事記は,速須佐之男命が,越の侵略を排除して出雲国を建国したことを述べているのでしょうか。


草薙の大刀を献上する相手

 さて,速須佐之男命は八俣の大蛇を退治し,その体内から,都牟刈の大刀(つむがりのたち),すなわち草薙の大刀を取り出します。そしてこれを,「天照大御神」に献上してしまいました。

 日本書紀第8段本文では,献上されたのは「天神(あまつかみ)」です。先に私は,古事記ライターは天照大御神一本主義だと述べましたが,その精神が,ここに端的に表明されているのです。
 剣は支配の象徴です。速須佐之男命は八俣の大蛇を退治して,高志との戦いに終止符を打ちましたが,その勝利の象徴である剣を,天照大御神に献上してしまうのです。ここには,国譲りという名の侵略が先取りされているのです。

 しかし,すでに述べたとおり,天照大御神一本主義は貫かれていません。古事記本文冒頭に無前提の大前提として登場するのは,高天原にいる高御産巣日神ら3神なのでした。修理固成の命令をするのは,「天つ神諸」なのでした。ですから私は,日本書紀本文の「天神」という一般的名称に対して,「天照大御神」という具体的名称をもってきた古事記ライターの資質を疑います。なぜ高御産巣日神じゃないのでしょうか。なぜ天つ神ではダメなのですか。その後も,天照大御神一本主義のように見えて,じつは,高御産巣日神との並立でいくのです。国譲りという名の侵略と天孫降臨は,天照大御神1人が命令者ではありません。古事記ライターの頭の中には,いったいいかなる神体系があるのでしょうか。私には理解できません。

 とにかく天照大御神が称揚されていたので,それを中心にもってこようとしましたが,中途半端に終わったという印象です。@天照大御神称揚の時代の,A中途半端な叙述,という感じがいたします。


速須佐之男命が出雲国を建国して大八洲国全体を支配するに至る

 八俣の大蛇を退治した速須佐之男命は,櫛名田比賣を連れて出雲の須賀(すが)に来ます。ここで「宮を作りて坐しき」となります。この「大神」は,足名椎神を「宮の首(おびと)」に任命して,「稲田の宮主(みやぬし)須賀之八耳神(すがのやつみみのかみ)」と名付けました。その後,大国主神に至る系譜がこれに続いて述べられます。

 要するに,宮殿を造って出雲の須賀のあたりを支配したということです。宮の首を任命したのですから,それなりの官僚機構のようなものがあったのでしょう。大国主神に至る系譜は,子孫が繁栄したということになります。速須佐之男命は,出雲の建国者ととらえられているのです。

 これだけ読むと,速須佐之男命は,出雲の一地方神でしかありません。日本書紀第8段本文もそのように描いています。しかし日本書紀は,さすがに,立派な史書でした。優秀な官僚が編纂した書物でした。古事記や日本書紀第8段本文に矛盾する伝承や,自分に都合の悪い伝承も,しっかり残してくれました。日本書紀第8段第4の一書と第5の一書がそれです。ここには,素戔鳴尊とその子供たちが,大八洲国を作った話が残っています。


日本書紀第8段第4及び第5の一書の内容

 その第4の一書も第5の一書も,衝撃的な内容になっています。

 第4の一書では,天上界を追放された素戔鳴尊は,その子「五十猛神(いたけるのかみ)」と共に「新羅国」の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降ります。神は,その神を信仰する人々がいるところに天降ります。ですから,素戔鳴尊は,朝鮮の新羅の神だったということになります。

 ところが素戔鳴尊は,この国には居たくないと述べて,「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来てしまいます。そこで大蛇(おろち)を退治して草薙剣を得ますが,五世の孫「天之葺根神(あまのふきねのかみ)」がこれを天に献上します。出雲から越(古事記では高志)のあたりまでを平定したが,後代になって天に従ったというのです。

 一方,息子の五十猛神は,素戔鳴尊と一緒に天降るときに天から樹種(こだね)を持ってきましたが,「韓国(からくに)」には植えないで出雲に持ち帰り,「遂に筑紫より始めて,凡て(すべて)大八洲国の内に,播殖して(まきおおして)青山を成さずといふこと莫し」。こうして五十猛神は,「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となりました。要するに,朝鮮から来た神が,樹種を大八洲国に広めて,青山を成したというのです。素戔鳴尊やその子供たちは,青山を枯らすのではなく,青山を作る神なのでした。紀伊国の大神となったのですから,紀伊国も支配していた(正確に言えば,五十猛神をいつき祭る人々が紀伊国を支配して五十猛神を大神として祭った。)ということなのでしょう。

 第5の一書は,素戔鳴尊の台詞から始まります。「韓郷の嶋(からくにのしま)」には金銀があるので,もし「吾が児の所御す(しらす)国」に「浮宝(うくたから,木製の舟)」がないとすれば不都合だ。こうして素戔鳴尊は,髭から杉,胸毛から檜,尻の毛から槙(まき),眉毛から楠(くすのき)を生成しました。そして,杉と楠は「浮宝(うくたから,木製の舟)」とし,檜は「瑞宮(みつのみや)」すなわち立派な宮殿の材木とし,槙は現世の人間の棺にするよう,それらの用途を定めました。さらに,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」,すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べました。

 素戔鳴尊の子に,五十猛命(いたけるのみこと),妹大屋津姫命(おおやつひめのみこと),さらに柧津姫命(つまつひめのみこと)がいましたが,これら3人も木の種を十分に播き施しました。そして紀伊国に渡りました。その後素戔鳴尊は,「熊成峯(くまなりのたけ)」に居ましたが,遂に根国へ行きました。


第4の一書と第5の一書は同種の物語の異伝だ

 ちょっと読んだだけでは,この2つの異伝の関係がわかりません。

 第4の一書は,基本的に,素戔鳴尊が「埴土(赤土)を以て舟に作りて」,「新羅国」から出雲に渡ってきた話です。それに五十猛神の話がくっついています。第5の一書は,たぶん出雲国にいる素戔鳴尊が,これからこの土地を支配することになる我が子五十猛神にとって,「浮宝(木製の舟)」がないのは不都合であるとして,材木として有用な杉,檜,槙,楠などを播いたという話なのでしょう。

 すなわち,第4の一書と第5の一書は,同種の伝承です。ただ,樹木の種が広まったのを,新羅で種を播かずに持ち帰った五十猛神1人の功績にしているのが第4の一書。素戔鳴尊と五十猛神ら3人の子が広めたとするのが第5の一書です。

 ですからこの2つの異伝は,一緒に扱うことができます。素戔鳴尊の性格を考える上で重要な異伝です。古事記だけを読んでいても,何の発展も展開もできません。


素戔鳴尊は新羅国の神であり新羅の人々と共にやってきた

 「曾尸茂梨(そしもり)」とは,新羅国(後代の新羅国が成立した土地というくらいの意味)の王都という程度の意味です。ですから素戔鳴尊は,後代新羅と言われるようになった地に降って,その王都にいたということになります。その素戔鳴尊は,新羅の「曾尸茂梨」を捨てて舟に乗り,東に航路をとって出雲にやってきました。これは,いわゆる「神武東征」と比肩すべき,大冒険の物語だったはずです。しかしそれは残っていません。後世,日本を支配した人たちは,それを必要としなかったからです。

 神が天から降臨した地は,降臨した神をいつき祭る人たちがいる場所です。そうした人々がいるからこそ,神が神として成立するのです。ですから,素戔鳴尊が新羅国に降ったということは,素戔鳴尊が新羅国の神だったことを述べているのです。そして,神が移動するということは,その神をいつき祭る人々が移動するということです。いつき祭る人々と無関係に,あたかも幽霊のように神が1人で勝手に移動することはあり得ません。神だけが輸入品のように取引されることもありえません。

 神籬(ひもろぎ,神の依代)等を持って新羅からやって来た天日槍(あめのひほこ)の話(垂仁天皇3年3月)がありました。ですから,素戔鳴尊が新羅国から出雲にやってきたということは,素戔鳴尊をいつき祭る新羅の人々が,素戔鳴尊と共に出雲にやってきたと解するしかないのです。

 ここに,1つの氏族が海を渡ってやってきたという,雄大な叙事詩があったはずです。しかし,日本書紀や古事記は,それを語ろうとしません。


単に新羅に寄り道したのではない

 こんなことを口を酸っぱくして言うのは,結局出雲に来ているのだから,寄り道しただけであると考える学者さんがいるからです。

 寄り道って,あなた。神が先か人間が先か。私は人間が先だと考えます。だから,人のいないところに神が降ってくるのではなく,そこにいる人間が,神が降ってきたという神話を作り出すのだと考えます。誰もいないところに降ってくる神は嘘です(後述するとおり,天孫降臨がまさにそれなのですが)。人間のいるところに神が降ってくるのですから,神が降ってきた地点は,その神をいつき祭る人がいるところである。私はそう考えます。

 新羅に降臨した時,素戔鳴尊は神だったのですか。神だったと言うんでしょうね。その素戔鳴尊が神であると認めたのは誰ですか。新羅の人というと新羅の神になってしまうから,出雲の人たちだと言うんでしょうね。出雲にいた人たちが,我らが素戔鳴尊が新羅に寄り道して降ったので,その時点で我らが神だと認めたのでしょうか。ちょっと変だな。そもそも,新羅に降ったという事実を,出雲にいて知ることができたのかな。よく考えると,とっても変だ。

 私には,わけがわかりません。

 素戔鳴尊が新羅に渡った諸伝であると紹介する人もいます。ここまでくると,あいうえおをきちんと読み取れるかどうかという問題になります。論外です。こんな人たちが,日本の神話を混乱させているのです。

 青山を枯山になすという素戔鳴尊の性格と対比して,調子はずれの一書と言い放つ学者さんもいました。結構有名な学者さんです。こうなると,きちんと日本神話を考えようとしているのか,その態度を疑いたくなります。


古事記が残した大年神の神裔も素戔鳴尊の出自を証明する

 じつは,古事記にも,朝鮮から来た痕跡が残されています。大年神(おおとしのかみ)の神裔です。大年神は,速須佐之男命が大山祇神の娘を娶って作った子で,大国主神とは別系統の子孫になります。

 その大年神の子孫には,「韓神(からのかみ)」,「曾富理神(そほりのかみ)」,「白日神(しらひのかみ)」がいます。
 「韓神」は文字どおり朝鮮の神であり,延喜式神名帳には,「宮内省坐神三座」として,「園神社」と「韓神社二座」をあげています。「曾富理神」の「そほり」は,朝鮮語で王都の意味です。現在の韓国の首都ソウルの原義は,ここにあります。
 問題は「白日神」です。学者は,明るい太陽の意味だとしています。これもまたエキセントリックな解釈ですね。なぜここで突然,「白」い「日」として漢字の意味をとらなければならないのでしょうか。「曾富理」は,漢字の音をもって当時の日本語の発音にあてたのです。それとまったく同様に「白日」も,当時の日本語の発音にあてただけのことでしょう。だから,ここで突然漢字の意味をとるのはおかしい。それとも,朝鮮との関係を認めたくないのでしょうか。
 私は,「新羅」の「しらき」だと考えます。

 いずれにせよ素戔鳴尊は,朝鮮の神を生んでいるのです。素戔鳴尊自身が朝鮮の神だったからです。


日本書紀の神話の構想

 こうしてみてくると,素戔鳴尊は,偉大ではあったけれど,日本書紀の神話の構想からはずれた神なのです。貶められる理由がありました。それは理解できます。

 660年に百済が滅亡し,663年に大和の政権は,白村江で唐と新羅の連合軍に歴史的敗北を喫します。日本は,朝鮮半島へのとっかかりを失います。朝鮮半島は,風雲急を告げていました。大八洲国を死守しようとする天智天皇は,瀬戸内海の各所に山城を築き,都を近江の大津に移して,国家としての体制を整えようとします。しかしその途上で死亡し,672年に壬申の乱がおきます。勝者天武天皇は,律令国家体制作りに舵を取ります。それは,簡単に言えば,国としての支配命令体系を整えることでした。官僚制を整備することでした。

 日本は,ここで孤立して生きていくしかなくなったのです。そうした,国の体制作りの一環として成立したのが,712年の古事記であり,720年の日本書紀なのです。

 だからこそ,国生みのお話しには,朝鮮も中国も出てこないのです。世界生成神話を語っているように見えて,じつは,大八洲国しか生まれてこないという偏狭さの原因は,ここにあるのです。日本神話は,聖書の物語のような汎人類的な神話になりませんでした。「国常立尊」に次いで生まれるのは,「国狭槌尊」でした。世界の土台とか世界の泥とかいう発想はありません。
 ですから,天,天上,ないし高天原というのも,朝鮮や中国を含めた世界支配の神々がいる場所ではなく,大八洲国,葦原中国を支配する神々がいる場所にすぎません。

 素戔鳴尊は新羅の神でした。はるか昔は,新羅国も出雲国もありませんでした。人々は自由に行き交い,交易していました。そのころに素戔鳴尊は,出雲にやってきました。そして,紀伊国に祭られるほどの神になったようです。
 しかしもはや,新羅国は敵対国であり,素戔鳴尊は敵対国の神でした。だからその素性が無視されたのです。


素戔鳴尊は木の文化を大八洲国に広めた縄文文化の神である

 問題は,素戔鳴尊が,出雲の単なる一地方神だったのかということでした。

 第4の一書によれば,五十猛神は,天から持ってきた樹種(こだね)を「遂に筑紫より始めて,凡て(すべて)大八洲国の内に,播殖して(まきおおして)青山を成さずといふこと莫(な)し」というのでした。
 第5の一書では,素戔鳴尊は大八洲国を,「吾が児の所御す(しらす)国」と呼んでいます。そして木々を生成し,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」,すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べました。3人の子は,木の種を十分に播き施しました。

 「遂に筑紫より始めて」という叙述を見逃してはなりません。

 なぜ,筑紫すなわち北九州から始めるのでしょうか。それは明らかです。朝鮮半島から渡来する時の玄関口は,筑紫だったからです。第4の一書は「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来たと述べていますが,実際にはまず筑紫に上陸し,その後日本海沿岸をつたって出雲に入ったのかもしれません。

 それはともかく,筑紫から始めて大八洲国に播いて青山を作ったというのです。それが,人々が「くらうべき八十木種(やそこだね)」だったというのです。

 これは,大八洲国の基礎を作ったということです。素戔鳴尊は,五十猛神が支配する大八洲国に,国を作る木々や食料とする木の種を播き施したことになります。朝鮮には木が少なかったのでしょう。温暖湿潤な日本に比べれば少なかったのでしょう。それは,第4の一書が「埴土(はに)」すなわち土で舟を作って出雲にやってきたと叙述している点からも明らかです。
 要するに,樹木が朝鮮には少なく,大八洲国では豊かななのは,朝鮮からやってきた素戔鳴尊とその3人の子のおかげだと言いたいのです。だからこそ五十猛神は,「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となりました。

 これは,木の文化です。

 素戔鳴尊は,木々を生成して,杉と楠は「浮宝(うくたから,木製の舟)」とし,檜は「瑞宮(みつのみや)」すなわち立派な宮殿の材木とし,槙は現世の人間の棺にするよう,それらの用途を定めました。古代の主要な交通手段は木造の舟です。陸路を行くよりも,むしろ1日で行ける近海を航海していました。そして首長の宮殿は檜で作られます。檜は,木の中でも香りがよい。だから,白檀等の薫り高い香木の代用香木として,檀像にならった仏像が後世作られました。
 また素戔鳴尊は,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」とあります。すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べました。主要な食料は,五穀ではなく木の実だったのです。

 木の文化といえば縄文文化です。太い丸太がそびえる青森県の三内丸山遺跡が思い起こされます。現代では,縄文時代の人たちがドングリやトチの実を採取して食べたというだけでなく,積極的にこれらを栽培し,保存していたことがわかっています。

 素戔鳴尊は,縄文文化を象徴する神なのです。

 素戔鳴尊は,五穀と養蚕を理解せず,天照大神に反逆する神でした。文化的な反逆者でした。素戔鳴尊は,祓えによって祓われる神でした。むべなるかな。縄文文化と弥生文化の対立が描かれていたのです。


素戔鳴尊と3人の子はどこまで支配したのか

 何度も述べたとおり,第4の一書によれば,木々の種を広めた五十猛神は「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となりました。また,第5の一書も,素戔鳴尊の子3神が紀伊国へ渡ったと述べています。この3神は,紀伊国で1社内に合祀されていましたが,続日本紀によれば,その後分祀されたといいます。和歌山市伊太耶曾にある伊太耶曾神社(五十猛神),同市宇田森にある大屋津比売神社(大屋津姫命),同市平尾にある柧津比売神社(柧津姫命)がこれであろうと言われています。

 問題は,紀伊国へ行った点です。紀伊国は,大和に隣接する木材供給地です。だからこそ,素戔鳴尊の3人の子が紀伊国に祭られたのです。出雲の神にすぎないならば,近隣の山地に祭られればよいはずです。大和で,木材の神として信仰されていたからこそ,木材供給地たる紀伊国に祭られたのです。しかも五十猛神にいたっては,「大神」として。

 やはり,出雲という国の地方神ではありません。
 だからこそ,第4の一書,第5の一書に続いて,第6の一書が置かれているのです。

 ここには,出雲だけでなく大和をも含む天の下を平定した大己貴神(おおあなむちのかみ,大国主神のこと。)が,大和の「三諸山」,すなわち三輪山に祭られる経緯が叙述されています。日本書紀編纂者は,確かに,客観的な眼をもった編者でした。


紀伊国に所座す大神五十猛神は天照大神より格上である

 五十猛神は「紀伊国に所座す(まします)大神」なのでした。ところが第7段第1の一書には,天照大神の「象(みかた)」が作られて,「是即ち紀伊国(きのくに)に所坐す(まします)日前神(ひのくまのかみ)なり」となっています。

 いずれも一書という異伝であり,本文ではありません。だからこそこだわりたいのです。日本書紀編纂者も古事記ライターも,出雲神話を冷遇しようとしています。しかし日本書紀編纂者は,公平な目をもっていました。矛盾する伝承もきちんと残そうとしました。

 五十猛神は紀伊国の「大神」です。天照大神は紀伊国の「日前」という一地方の単なる「神」です。どっちが偉い神だったのでしょうか。

 私は,五十猛神だと思います。


素戔鳴尊は青山を成す神であり暴虐の神ではない

 このように,素戔鳴尊は縄文文化を体現して,国土建設に尽くした有徳の神です。
 それが,天照大神を称揚する人々からは,乱暴な神として蔑まれ,祓われる神とされたのです。土地の占有,用益,収益等を理解せず,これに関する権利を妨害し,灌漑施設を破壊し,神聖であるべき新嘗祭や機織りに不敬の行為を行う邪霊ないし邪神でした。五穀と養蚕の定住生活を理解せず,収穫時になると略奪にやってきた蝦夷の姿が重なっているのでしょう。

 古事記がいう「根の堅州国(かたすくに)」は,片づけられた者が行く世界でした。片付けることを「かた・す【片す】」というように(広辞苑第4版),根国は祓われた者が行く世界でした。
 素戔鳴尊は祓われる神であり,弥生文化を理解しない神だったのです。暴虐の神というのが一般的なようですが,それでは素戔鳴尊の本質をはずすことになります。

 ここで素戔鳴尊という神の性格をまとめてみます。
 素戔鳴尊は,@縄文文化を体現する,A新羅から渡ってきた神であり,B暴虐無道ではなく感情豊かな,C青山を成す神ですが,D五穀と養蚕の弥生文化を理解しない神として祓われ,根国へ行く神です。

 一方素戔鳴尊は,朝鮮半島の「新羅国」からやってきた荒ぶる神でもありました。その子孫である大国主神は,葦原醜男(あしはらのしこお),八千戈神(やちほこのかみ)などという別名をもっています。葦原中国を支配する,屈強で武力に秀でた神という意味です。

 素戔鳴尊は,高天原の神々が整理され伝承化される過程で,高天原の神々の一員として天照大神の弟に位置づけられ,とりこまれ,それだけでなく正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を天照大神と一緒に生んだという伝承も付け加わって,国譲りという名の武力による侵略を正当化するのに利用されるようになったのでしょう。


縄文と弥生の共存

 縄文時代はとうの昔に終わっているではないか,と言う人がいるかもしれません。

 日本列島には,古来から縄文人が先住民として生活していました。そして縄文文化が花開いていました。それは,決して木の実を拾い獲物を捕るだけの,かつかつの生活ではありませんでした。青森の三内丸山遺跡を想起するまでもなく,大木を利用し,場合によっては樹木を栽培して食料を蓄えて集住していました。交易も盛んでした。
 しかしこのような人々は,五穀と養蚕を携えた弥生人により,混血しながらも追いやられていきました。最後まで弥生人の血と混血しなかった人たちがアイヌだと言う人もいます。

 とにかく,弥生時代が始まったからといって,一気に縄文人がいなくなったわけではなく,縄文文化が消え去ったのではありません。

 神代からはるかに降った景行天皇の時代に,面白い記事があります。有名な日本武尊が,景行天皇の要請に応じて蝦夷征伐を決意する場面です。
 景行天皇は,東国が動乱しており,「暴(あら)ぶる神多(さわ)に起る」と述べます。そして,蝦夷征伐を決意した日本武尊に斧とまさかりを授けて言います。東国の田舎に蝦夷がいる。これは非常に手強い敵だ。男女混じって生活しているから,父子関係を定めがたい。冬は穴に寝て,夏は巣に住む。毛皮を着て獣の血を飲む。山には飛ぶ鳥のように登り,草原は獣のように走る。「党類(ともがら)を聚(あつ)めて,辺堺(ほとり)を犯す」。あるいは,「農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略む(かすむ)」。撃とうとすると草に隠れるし,追うと山に逃げる。昔から今に至るまで,天皇のもとに帰順してこない(景行天皇40年7月)。

 ここには,定住することなく,大自然を縦横無尽に駆け回っていた縄文人が活写されています。そしてここが大切なのですが,蝦夷は,土地の境界というものを考えていないのです。「辺堺を犯す」のです。土地は,むしろ略奪の対象です。農民にとって土地の境界は大切ですが,縄文人にとっては狩猟採集の対象でしかありません。農耕生活を理解できませんでしたが,作物がなるのはよくわかっていたので,収穫の時を狙って略奪に来たのです。

 ここで速須佐之男命を思い出してほしいのです。速須佐之男命もまた,田を破壊する神でした。

 ちなみに,「暴ぶる神多に起る」という表現は,葦原中国に「道速振る(ちはやぶる)荒振る国つ神等の多なり」(古事記,国譲りという名の侵略の場面)などと同様,葦原中国とその神を表現する時の常套句です。ですから,日本書紀編纂者は,葦原中国を縄文文化の世界だととらえているのでしょう。国つ神は,縄文文化の神なのでしょう。これに対する高天原は,弥生文化の世界なのです。


大年神の系譜

 長らく日本書紀を検討してきました。速須佐之男命がいかなる神であるか。古事記だけを読んでいても何もわからないことがわかったと思います。ここで古事記に戻りましょう。

 速須佐之男命は,出雲の建国者なのでした。その子孫は,出雲で繁栄します。それが,いわゆる大年神の神裔という部分です。すでに述べた素戔鳴尊と五十猛神らに関する日本書紀の系譜と,古事記の系譜をまとめてみましょう。図示すると以下のとおりです。

(日本書紀第8段第1の一書等)

稲田媛
  ↑
   清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠 …………… 大己貴神(大国主神)
  ↓
素戔鳴尊
  ↑
   五十猛命,大屋津姫命,柧津姫命
  ↓
  ?

(古事記)

櫛名田比賣
  ↑
   八島士奴美神 ……………………………… 大国主神
  ↓
速須佐之男命
  ↑
   大年神 ― 大国御魂神 ― 韓神 ― 曾富理神 ― 白日神……
  ↓           ……聖神,御年神,竈神,大土神,大気都比賣神
神大市比賣(大山津見神の娘)


大八洲国を支配した神々の系譜である

 両者とも,国作りに功のあった神々(図表のうちの上の系譜)と,食物をもたらした神々(図表のうちの下の系譜)とを分けて系譜にしています。きれいに対応しています。
 学者さんによっては,大年神の神裔は叙述の位置が唐突であり,そこに記載されている松尾大社や日枝神社の関係者が強引にねじ込んだのではないかと言います。しかし,日本書紀とのこの対照を考えると,あながちそうとも言えません。

 日本書紀では,大己貴神(大国主神)に連なる直系の神が「清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠(ゆやまぬしみなさるひこやしましの)」です。この「八嶋篠(やしましの)」が,古事記の「八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)」の「やしま」なのでしょう。共に,八嶋ないし八島を名にもつ神なのです。これは,大八洲国のことでしょう。
 大八洲国を作ったのは,後述するとおり大己貴神(大国主神)でした。だからこそその祖先は,八嶋ないし八島の字をもっているのでしょう。この点,日本書紀の異伝も古事記も一致しています。


縄文と弥生の交錯がある

 一方,日本書紀の五十猛神の系譜は,古事記の大年神の系譜に該当するようです。五十猛神らは,新羅からやって来て,大八洲国に木の文化と木種を広め,食料となる木の実を広めた神でした。

 古事記がいう大年神も,朝鮮からやって来た神のようです。ここには,韓神,曾富理神,白日神らがいます。明らかに朝鮮系の系譜です。ただし,古事記のこの系譜は,弥生の神々のようです。大年神は,稲の実りを意味する神です。そしてその子孫には,日を知る聖神,年穀を司る御年神,竈,すなわちへっついの神もいます。米や穀物を炊く竈の神です。土の神大土神,食物の神大気都比賣神もいます。五穀に関する神々です。

 日本書紀が縄文の神々を羅列しているのに,古事記は,なぜ弥生文化である五穀に関する神々を羅列しているのでしょうか。

 私は,縄文の系譜を並べた日本書紀の方が古い伝承であり,弥生の系譜を並べた古事記は,新しい伝承であると考えます。速須佐之男命という神が,弥生文化に取り込まれた後の伝承であると考えます。もしかしたら,速須佐之男命自身が半縄文,半弥生の神だったのかもしれません。しかし,縄文の神速須佐之男命が出雲を建国し,その子孫が弥生文化をつくって栄えたということなのでしょう。それが大国主神ではないでしょうか。

 とにかくこれは,速須佐之男命が縄文の神なのか,弥生の神なのかという問題を提起しています。

 私は,天の石屋戸の場面で五穀と養蚕を理解しなかったこと,さらに日本書紀第8段第4及び第5の一書を根拠にして,縄文の神だと主張してきました。でも,少々怪しくなってきたようです。もうちょっと考えてみましょう。


八俣の大蛇退治は何を物語るのか・夜刀の神

 突飛なようですが,速須佐之男命の八俣の大蛇退治は,何を物語っているのでしょうか。

 一部の学者さんは,八俣の大蛇は,出雲の大河斐伊川の氾濫であるとか,砂鉄に関係しているとか述べています。それを征服したのが速須佐之男命だというわけです。速須佐之男命は製鉄を行っていたタタラの大立て者だという,トンデモ本に分類されるような空想科学的な説まであります。

 うんうん,そうだナ,なんてうなずいてはいけません。日本神話の世界では,こんな妄説が堂々とまかり通っているのです。たぶん,古代出雲の社会経済を,たくさんたくさんお勉強したのでしょう。それは個人の自由ですが,日本書紀や古事記をどのようにひっくり返しても,タタラと速須佐之男命は結びつきません。結びついているとしたら,それは,論者の頭の中だけにある妄想です。

 やはり,文献を尊重して,叙述と文言から考えなければなりません。日本書紀を理解した上で古事記を読むというこの本の原則からはちょっと反則になるのですが,少しだけ,風土記を読んでみましょう。

 八俣の大蛇は蛇です。蛇を征服することに関しては,常陸国風土記にこうあります。
 「麻多智(またち)」は,葦原を開いて田を作った。そのとき「夜刀の神(やとのかみ)」すなわち蛇が群れをなして開墾を妨害した。麻多智は鎧をつけてこれらを撃ち殺し,夜刀の神すなわち蛇に対し,ここから上は夜刀の神の土地とするが,ここから下は人が作る田とすると宣言した。そして,以後,夜刀の神を敬い祭るから祟らないでくれと言って,初めて,神社を作って祭った。


八俣の大蛇退治は何を物語るのか・夜刀の神と弥生文化

 田を開墾したというお話です。弥生文化のお話です。それが,蛇との戦いだったというのです。
 確かに田の開墾は,蛇との戦いでした。稲の生育に適した湿地帯は,蛇の繁殖地だったのでしょう。そこには,マムシなどがたくさんたくさん生息していました。蛇に勝たなければ,自らの生存が危ぶまれます。だから蛇を殺し尽くすのです。そうして,殺した蛇をいつき祭って,ここからこっちは人間の世界,あっちはおまえたち蛇の世界だから,人間の世界に出てこないでくれと言って,祈ったのです。
 ずいぶん手前勝手かもしれませんが,人間とは,こうした生き物です。業深き生き物です。

 蛇を殺すという行為は,田を開墾する行為でした。速須佐之男命は畦道を破壊しましたが,その畦道を作るのと同等の,田を作る作業の1つでした。
 速須佐之男命が蛇の大ボスである八俣の大蛇を退治したことは,出雲に大きな田を作って栄えたことを象徴しています。その蛇が,たぶん敵対国であった高志の国の大蛇という設定になっているわけです。


八俣の大蛇退治は何を物語るのか・速須佐之男命における縄文と弥生の重層

 八俣の大蛇退治は,蛇を殺して田を作ったという歴史的記憶の象徴ということになります。すると速須佐之男命は,弥生文化を体現する神ということになるのでしょうか。

 確かに,速須佐之男命が得た姫は,櫛名田比賣でした。これは,日本書紀によれば奇稲田姫(くしいなだひめ)。稲の田んぼを名前としている姫でした。そして速須佐之男命は,櫛名田比賣の父足名椎神を「宮の首(おびと)」に任命して,「稲田の宮主(みやぬし)須賀之八耳神(すがのやつみみのかみ)」と名付けました。「稲田の宮主」というからには,田んぼの稲が豊かに実り,その予祝や感謝が行われる宮の主(あるじ)だったのでしょう。
 出雲の速須佐之男命の物語は,弥生文化の物語です。

 どう考えればよいのでしょう。

 速須佐之男命自身は,やはり弥生の神ではありません。新羅に発した縄文の神速須佐之男命が,出雲にやってきて,稲を作って栄えるのです。速須佐之男命はあくまでも縄文の神であり,実際に稲を掌って実らせるのは,穀霊を名前にもつ妻と,その父足名椎神,別名「稲田の宮主須賀之八耳神」だったのです。そして神大市比賣(大山津見神の娘)との間に生まれた大年神の子孫は,稲そのものを体現した神々でした。

 要するに,縄文の神として新羅からやって来た速須佐之男命が,出雲に定住して子孫神を残し,その子孫神の変貌と共に,弥生の神に変貌していくのです。
 本家の出雲神話,出雲の風土記には,八俣の大蛇は登場しません。古来の伝承は,速須佐之男命を弥生の神だとは言っていないのです。

 速須佐之男命をめぐる神々には,このように,縄文と弥生が重層しています。


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