第20 少名毘古那神の正体

 

4つのミステリーがある

 さて,日本書紀第8段第6の一書を検討しましょう。

 第6の一書には,国作りの立役者として少彦名命が登場します。いきなり登場しますし,他には出てきませんから,極めてミステリアスな神です。

 第1。@の部分では,大己貴神と一緒に天の下を造った神として登場します。その名前は,「大」己貴神に対して「少」彦名命。Bの部分では,「一箇(ひとり)の小男(おぐな)」であり,鳥としては小さい「鷦鷯(さざき,ミソサザイの古名)」の羽をまとって現れます。大己貴神は,少彦名命を手にとって掌でもてあそぶほどです。「大」に対して「少」。日本書紀の神話の理論的支柱である陰陽2元論を強引に適用して,強引に作り出した神のようにも見えます。

 第2。登場の仕方は,「海上(わたつみのうえ)」から「舟」に乗って,「潮水(うしお)の随(まにまに)浮き到る(いたる)」という塩梅です。海洋神のようです。

 第3。さらに@の部分は,少彦名命が未完成の国を残して出雲の「熊野の御碕(みさき)」から常世郷(とこよのくに)に行ってしまったとか,「淡嶋(あわのしま,出雲国風土記の意宇郡の条に出てきます。)」で「粟茎(あわがら)」に登ったら弾かれて常世郷へ行ってしまったとか述べています。粟にこだわったうえで,焼き畑農耕と関係があるという学者もいますが,要するにそうした植物に弾かれて飛んでいってしまうほど小さくて軽かったという点に焦点があります。粟か稲か麦かその他の植物なのかは,関係ありません。後述するとおり,神功皇后摂政13年2月の歌謡では,少彦名命が「神酒(くし)の司(かみ)」すなわち醸造の神として登場しています。焼き畑に関係があるなどという学説は,叙述と文言を無視した見解にすぎません。

 第4。さらに,一緒に国を作ったのに,大己貴神よりも格下とされている点も不審です。第6の一書は,まず,大己貴神と少彦名命(すくなひこなのみこと)とが力を合わせ,「経営天の下(あめのしたをつくる)」と述べています。なぜ大己貴「神」に対して少彦名「命」なのか。なぜ「尊」でも「神」でもないのか。仮に出雲の神であるならば,なぜ少彦名「神」ではないのか。偉大なる出雲国の建国者は,「神」として崇められていたはずです。


神功皇后摂政13年2月の歌謡に登場する少彦名命

 少彦名命に関する情報は限られています。例によって,古事記を眺めていても何もわかりません。この神は,日本書紀の神功皇后摂政13年2月に再登場します。この叙述をどう読むかが問題です。

 神功皇后は,政敵忍熊皇子(おしくまのみこ)を破り,摂政となって,自分の子誉田別皇子(ほむたわけのみこ,後の応神天皇)を皇太子(ひつぎのみこ)とします。そして,大和の磐余(いわれ)に都を作ります(神功皇后摂政3年正月)。これで神功皇后の政権は安泰となりました。それが証拠に,その次に来る叙述は新羅との外交です。国が治まると神功皇后は,直ちに新羅との外交に精を出したのです。

 新羅との外交記事の直後に来る叙述が,神功皇后摂政13年2月の歌謡です。神功皇后は,武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて,誉田別皇子と共に「角鹿(つぬが,現在の敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)」を拝み祭らせます。日本書紀の叙述からすれば当時13歳くらいの誉田別皇子を,わざわざ大和の磐余から敦賀まで行かせて,「笥飯大神」を拝ませたのです。あたかも,祖先の墓参りでもするかのように。
 問題は,これに続く歌です。神功皇后は,磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて酒宴を張り,以下の歌を詠みます。

 此の御酒(みき)は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿き(とよほき) 寿き廻(もと)ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲(ほ)せ ささ

 この酒は,「常世に坐す いはたたす 少御神」,すなわち常世国の少彦名命が,慶事を狂おしいほどに讃え,醸し奉った酒だというのです。その酒を,政権安泰を報告した「笥飯大神」と共に飲むのです。
 そしてこの後,神功紀の叙述は延々と朝鮮外交を叙述し,最後までそれに終始します。すなわちこの歌謡は,神功皇后の朝鮮外交記事の冒頭を飾ると言ってもよいのです。そこに少彦名命が登場するのです。


崇神天皇8年12月の歌謡と同様に共食の思想である

 この歌謡は,第5段第6の一書で共食の思想を検討したとき引用した,崇神天皇8年12月の歌謡と同じです。

 此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久 (崇神天皇8年12月)

 崇神天皇は,土地の者「活日」が造った酒を,地主神である大物主神を祭った神社で飲むことで大物主神と共食し,一体化し,その世界の人になったのでした。ここには,崇神天皇は土地の者ではなかったという前提があります。

 神功皇后と誉田別皇子は,「常世に坐す いはたたす 少御神」が造った酒を磐余の都で飲むことによって,「角鹿の笥飯大神」と共食し,その世界の人になったのではないでしょうか。

 だから,少彦名命は「角鹿の笥飯大神」に関係し,角鹿の笥飯大神とは出自を同じくする神ではないでしょうか。そして神功皇后と誉田別皇子は,この神々をいつき祭る氏族だったのです。すなわちその出自は,角鹿の気比にあります。


角鹿の笥飯大神の出自と少彦名命

 だとすると,角鹿の笥飯大神の出自を探らなければなりません。

 角鹿の笥飯大神は,日本書紀では,垂仁天皇2年の一書に引用されている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に端を発します。
 崇神天皇の時代に,意富加羅国(おおからのくに),すなわち朝鮮半島南端の国の王の子,都怒我阿羅斯等が,崇神天皇を慕って「越国の笥飯浦(けひのうら)」にやって来ました。そして,崇神天皇が死んだので垂仁天皇に仕えたといいます。「笥飯」は現在の「気比」であり,敦賀市内の気比神宮のあるところです。福井県の敦賀は,古代における大陸との交渉の要地でした。
 だから,笥飯大神は,朝鮮に起源をもつ人たちがいつき祭っていた神なのです。朝鮮からやって来た神だといえます。

 一方,応神天皇即位前紀の一書は,応神天皇が太子のころに角鹿の笥飯大神を拝んだとき,「大神と太子と,名を相易(あひか)へたまふ」としています。これは,前述した神功皇后時代の話のことなのでしょう。誉田別皇子は,わざわざ大和の磐余から敦賀の気比に出向いて,笥飯大神と名前を交換してきたことになるのです。そして磐余に戻って,直ちに,少彦名命が造った酒を飲んで共食したことになるのです。
 これもまた,笥飯大神との一体化を示していると言えるでしょう。


海からやって来る神は朝鮮からやって来る神である

 日本書紀第8段第6の一書によれば,少彦名命は,海から出雲にやって来た神でした。出雲は,朝鮮半島との交易の要衝の地でした。当時の出雲に海からやってくるということは,朝鮮半島から渡ってくることを意味します。その少彦名命が酒を造って,笥飯大神と共食する。この点から見ても,笥飯大神は朝鮮半島に出自をもつ神なのです。少彦名命もまた,朝鮮半島からやって来た神なのです。

 少彦名命が,本当に高天原系の神であるならば(第6の一書Bの部分は高皇産霊尊の子であるとしています。),海から出雲にやって来るはずがありません。天稚彦や素戔鳴尊がそうだったように,天から降臨するはずです。ちなみに素戔鳴尊は,新羅に降臨後,「埴土(赤土)を以て舟に作りて」海を渡って出雲に来た神でした(第8段第4の一書)。

 出雲は,朝鮮由来の素戔鳴尊が基礎を築きました。それをさらに発展させ,大八洲国全体を支配したのも,朝鮮由来の少彦名命だったのです。日本は,朝鮮と切り離しては考えられません。


なぜ「命」なのか

 しかしそれにしても,少彦名命はなぜ「命」なのでしょうか。

 その最大の理由は,朝鮮由来の神だからです。日本書紀編纂当時,すでに朝鮮は差別されていたのです。

 第6の一書はこうあります。高皇産霊尊が産んだ神は1500もありました。ところがその中に,「一の児最(いと)悪(つら)くして,教養(おしえごと)に順はず(したがはず)」。これが少彦名命だというのです。神々しい神をたくさん生んだのに,1つだけ変な神がいたといわんばかりの叙述です。少彦名命は,明らかに貶められています。

 性格が「悪」で,高天原の支配者に従わない神は,すでにいました。それは素戔鳴尊です。素戔鳴尊もまた朝鮮からやって来た神でした。本文では決して明かさないけれども,異伝によれば,新羅から来た神でした。しかし素戔鳴尊は,国譲りという名の侵略の正当性を主張するために必要な神でした。だからこそ「命」ではなく「尊」として,いわゆる高天原神話の中に組み込まれ,利用されたのです。
 一方少彦名命は,単に,征服される国土を用意した神にすぎません。「尊」としていわゆる高天原神話に登場させる必要はありません。出雲は朝鮮系の神が支配した国です。だからこそ「命」扱いでよかったのです。出雲には朝鮮系の政治権力がありました。それを否定したのが,のちの大和朝廷につながる人々だったのです。

 蛇足ですが,少彦名命は出雲国風土記や伊予国風土記逸文にも登場しますが,ここでは出雲の神として扱われていません。


神功皇后と応神天皇の出自

 ここまで考えてくると,神功皇后も,その子応神天皇も,朝鮮半島出身の人だったとなるのでしょう。後世言うところの渡来人だったのではないでしょうか。だからこそ,笥飯大神をいつき祭り,少彦名命が作った酒を飲むことにより,共食して一体化した。

 少なくとも,朝鮮半島出身の神をいつき祭る人だったということは言えます。それは,朝鮮半島を故郷とする氏族だということになります。

 神功皇后の夫,仲哀天皇は,日本武尊の第2子です。その仲哀天皇が,なぜかいきなり角鹿に行幸して,「行宮(かりみや)を興(た)てて居します。是を笥飯宮(けひのみや)と謂す(もうす)」。

 それまでの天皇の系譜は,大和に本拠を置いていました。仲哀天皇は,なぜ角鹿(現在の敦賀)まで行ったのでしょうか。なぜそこに宮まで作ったのでしょうか。角鹿まで行く理由は,妻である神功皇后が近江の出身であり(神功皇后の名,息長足姫の息長(おきなが)は,近江の坂田郡の地名。),敦賀,近江,大和という交易ルートに連なる重要な氏族だったという点に求めるほかありません。その交易のために角鹿まで出向いたにしては,理解できません。そこに宮を作って,政治や行政を司ったのですから。

 当時の敦賀には,朝鮮の神,笥飯大神をいつき祭る民がいたはずです。その民には,朝鮮半島から渡ってきた民もいたろうし,交易のためにその神をいつき祭っていた日本列島土着の民もいたでしょう。息長氏がそのどちらだったかは不明です。とにかく,朝鮮系の神をいつき祭っていた人だったことでしょう。

 また,筑紫で仲哀天皇が死ぬと,神功皇后はその喪を隠し,朝鮮侵略に向かいます。子の誉田別皇子(後の応神天皇)はまだ生まれていません。通常であれば,皇位継承問題が生ずるはずです。そして通常であれば,カゴサカの皇子か忍熊皇子が皇位を継承したはずです。神功皇后は,皇位継承手続きを無視し,朝鮮侵略を強行し,それに勝利すると誉田別皇子と共に大和に戻るのです。通常は忍熊皇子の反乱と言われていますが,事実は逆で,実際は神功皇后の反乱でありクーデターというほかありません。

 神功皇后は,朝鮮系の出自をもっていました。だから,大和では傍系であり,クーデターでもやるしかなかったのです。
 私は,ここで皇統が断絶し,朝鮮系に交代したと考えています。これについては,神功紀その他を検討しなければなりませんが。


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