第22 三輪山の大己貴神(Aの部分) |
Aの部分の趣旨とAの部分を読む場合に重要な視点 日本書紀第8段第6の一書のAの部分は,出雲の神である大己貴神が,なぜ大和の三輪山に鎮座したのか,その経緯を語っています。 大己貴神は素戔鳴尊の子孫であり,出雲の神ですから,故郷出雲に鎮座するはずです。大己貴神は,「国」を巡った末に「遂に出雲国に到りて(いたりて)」,荒びていた葦原中国,すなわち天の下を平定したと誇らしく宣言したのでした。ところが,最終的に鎮座したのは,出雲ではなく,大和の三輪山だったのです。 天の下を平定した出雲の神大己貴神が,なぜ大和に祭られたのか。それを説明するのがAの部分です。異伝ではありますが,きちんと説明できているからこそ,(伝承上の)真実なのです。ここには,不思議な経緯が叙述されています。叙述を読み取ろうとするならば,その不思議さに着目し,理解しようと努めるべきです。決して,しょせん神話だからと考えてはいけません。
天の下を平定した大己貴神は,吾と共に天の下を治めるものはいない,吾こそが天の下の支配者だと言あげ(ことあげ)します。話がここで終わっていれば,出雲に宮を作って出雲に鎮座したはずでした。 そこで大己貴神は,「日本国の三諸山」に「宮」をつくって,「就きて(ゆきて)居(ま)しまさしむ。此,大三輪の神なり」。自らの分身,幸魂奇魂の要望に従って,わざわざ「就きて(ゆきて)」,大和の三輪山に宮を作って鎮座したというのです。
一見,わけのわからない話です。幸魂奇魂。自分の魂が遊離する。その魂と対話する。いったいどういうことでしょうか。 神の魂には,和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)とがあります。簡単に言えば,穏やかな魂と荒ぶる魂です。平和な魂と戦いの魂と言ってもよいでしょう。人間にも,そうした2側面があります。 これをさらに定義すれば,和魂は,「さきくあらしむる」,すなわち生命を守り幸せにする「幸魂」と,あやしい力で万物を弁別し種々の事業を成す「奇魂」とがあります。これに対し「荒魂」は,進取の動的作用をします。本居宣長の説に従った整理です(中山和敬・大神神社92頁・学生社・昭和46年)。これらは,1つの魂がどのように立ち現れるかという現象的側面に関する分析です。そして古代人は,いろいろな側面をもつ魂が分離することを信じていました。 簡単に言うと,和魂は,神の穏やかな側面であり政治を行う魂です。荒魂は,神の荒振る側面であり,戦いをする魂です。
たとえば崇神天皇は,息子の豊城命と活目尊(後の垂仁天皇)のどちらを後継者にするか判断するため,それぞれ見た夢を報告させます(崇神天皇48年正月)。兄の豊城命は,御諸山に登って,東に向かって槍や剣を振り回したと報告します。これは,蝦夷の国,東国の平定を暗示しています。荒魂の権化が豊城命なのです。 天の香具山でも耳成山でもなく,御諸山,すなわち三輪山だったことを覚えておいてください。崇神天皇の時代には,偉大なる大己貴神に対する信仰が,まだまだ残っていたのです。
和魂と荒魂は,神功皇后摂政元年2月にも出てきます。 神功皇后は新羅征討に赴こうとします。神功皇后摂政前紀には,神の和魂は王の身に従ってその命を守り,荒魂は先鋒となって軍船を導くだろう,という部分があります。同様に,荒魂は軍の先鋒,和魂は王船の鎮守という部分もあります。これが,和魂と荒魂の定義といってもよいでしょう。 新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生みます。そして大和に帰ろうとします。しかし,仲哀天皇の妃(みめ)との間の子,カゴ坂皇子と忍熊皇子は,仲哀天皇が筑紫で死亡したことを聞き,これを阻止しようとします。皇后の子と妃の子との政権争いです。難波を目指した神功皇后の船は先に進めません。たぶん,敵兵の抵抗にあったのでしょう。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占いました。 天照大神は,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言います。広田国に戦いの拠点を置けという意味なのでしょう。稚日女尊は,活田長峡国(いくたのながおのくに)に居たいと言います。事代主神は,長田国(ながたのくに)に祭れと言います。表筒男,中筒男,底筒男の3神は,わが和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居らしむべしと言います。ここに政治の拠点を置けという意味なのでしょう。これら諸神の言うがままに祭ったところ,神功皇后は平安に海を渡ることができました(神功皇后摂政元年2月)。
さて,海から寄ってきた幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)は,神の穏やかな側面であり,和魂でした。そしてそれは,「吾は(われは)日本国(やまとのくに)の三諸山(みもろのやま)に住まむと欲ふ(おもう)」と願ったのです。だとすると,「国」を巡った末に「遂に出雲国に到りて」という大己貴神は,荒魂だったのです。 それはそうでしょう。大己貴神には異名がありました。今考えてみると,「葦原醜男(あしはらのしこお)」,「八千戈神(やちほこのかみ)」は,荒魂に着目した名称です。「大国玉神(おおくにたまのかみ)」,「顕国玉神(うつしくにたまのかみ)」は,和魂に着目した名称なのでしょう。 大己貴神の荒魂は,出雲に帰ってきたのです。諸国を平定する戦いの旅。それは「葦原醜男」であり,「八千戈神」でした。和魂は,登場するいとまがありませんでした。大己貴神の戦国時代。和魂が登場する時代ではありませんでした。 しかし,一緒に国を作った少彦名命はすでに常世郷に行ってしまい,天の下を治める者は大己貴神しかいませんでした。しかも,もはや葦原中国で帰順しない者はいないと図太く言挙げする大己貴神の荒魂は,戦いにつぐ戦いで荒れすさんでいました。日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様,戦いの生活のなかに葦原中国を巡ってきたのです。その武将が,これからは,天の下を治める政治を1人で行わなければならないのです。人を殺すのではなく,人を信じなければならないのです。世の中を壊すのではなく,作らなければならないのです。 英雄の慨嘆です。 これからは,和魂の出番です。その時和魂は,大和国の三諸山に住んで,天下を支配する政治を行いたいと述べたのです。 では,和魂は,なぜ出雲ではなく大和の三輪山に住もうと言ったのでしょうか。それはやはり,大己貴神をいつき祭る人々が,大和の三輪山に住み着いたからでしょう。大己貴神は,大和をも含む大八洲国全体を平定したのです。
そもそも,神をいつき祭るということは,どういうことでしょうか。 古代人に科学はありません。情報が乏しいので,政治的決定にせよ何にせよ,どちらかに決定することを迫られた場合,情報分析に基づいた論理的決定ができません。どちらがよりましか,という決定さえできません。しかし決定は迫られます。だから,誓約(うけい)や神判が必要になるのです。人間は,なぜこうするのかという根拠を求めたがります。戦って死ぬ場合でも,死ぬ意味がなければ戦場に赴けません。戦場に赴く理由を与えてやる必要があります。だからこそ神が必要になります。 神を祭ることは政治と密接不可分です。神意を聞くことが,政治の一部なのです。それが,祭政一致の政治体制です。
仲哀紀と神功紀の事例を検討してみましょう。仲哀天皇8年9月には,仲哀天皇が群臣を集めて熊襲(くまそ)を討つか否かを諮ったとき,神が后(きさき)である神功皇后に懸かって,熊襲は膂宍の空国(そししのむなくに)だから討つに足りないと述べたという記事があります。 しかし,熊襲征討という重大事にあたって,神に降臨してもらって,その意見を聞いたのです。それが,決定にあたっての必要な手続になっていたし,当初から会議の内容になっていたのです。群臣は,様々な意見を述べたでしょう。そしてたぶんその最後に,仲哀天皇が音頭を取って,神の意見を聞いたのです。神の降臨は,会議の重要な一部だったといってもよいでしょう。 神の託宣を聞く方法は,神功皇后摂政前紀がわかりやすいでしょう。 斎宮は,神を祭ってある場所です。だから,まずこれがなければなりません。前提として宮が必要です。神主は,今で言う神主ではありません。神が降ってくる憑代(よりしろ)としての人をいいます。憑代は高い木であったり岩であったり神籬であったりしますが,ここでは託宣が目的なので,人です。琴は,神を呼び出す音楽を奏でます。審神者は,そばにいて神託を聞き,その意味を判断する人です。 琴が出てくることに注意してください。琴を弾いて神を呼び出すのです。琴は,神託を聞くための重要な道具でした。 速須佐之男命の武力の源泉たる太刀と弓矢に対し,琴は,政治力の根源なのです。これを持ち出すということは,政治的支配力を奪ったということなのです。ここでは,その琴が「天の詔琴」とされています。「詔」は,詔勅の「詔」です。述べるという意味です。天つ神がその意思を述べる琴という意味なのです。 ですから,神を祭るということは,政治的拠点と密接不可分なのです。たとえば,天照大神が諸国を放浪したというのは(崇神紀),天皇が天照大神を放棄したということになります。政治に必要でなくなったということになります。大己貴神が大和の三輪山に祭られたということは,大己貴神をいつき祭り,その神意を聞こうとする人々が政治的権力を握り,しかも大和の三輪山周辺に住んでいたということになります。
だからこそ,大己貴神は三輪山に行って宮を構え,「大三輪の神」となりました。だからこそ第6の一書には,その子孫として,「甘茂君(かものきみ)等,大三輪君(おおみわのきみ)等,姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)」がいたとされています。賀茂氏は大和盆地西南部を本拠とし,三輪氏は同じく東南部を本拠とする,在地性の強い豪族です。姫蹈鞴五十鈴姫命については「事代主神」と「三嶋のミゾクイヒメ」の子であるという異伝もありますが,大和を支配した神武天皇の后になったことに違いはありません。在地の豪族の姫だったのです。 延喜神名式によれば,葛城山一帯には,大穴持(おおあなもち,大己貴命),事代主,阿冶須岐託彦根などの出雲系の神々を祭る社が多いとのことです。三輪山からは少し離れています。しかし,確かに,出雲の神々が大和地方を支配した過去があったのです。 なお,三輪山の神すなわち大己貴神は,後世まで偉大なる神としていつき祭られました。雄略天皇の時代には,呉の国から連れてきた「衣縫の兄媛(きぬぬいのえひめ)」を,大三輪の神に奉っています。大三輪の神に従い,その神域を管理運営している人々のために,衣服を作る工人が奉られたのです。
この三輪山(御諸山)は,日本書紀では聖地扱いです。 先に述べたように,崇神天皇は,2人の息子に夢を見させて,どちらを後継者にするか判断しました。諸国平定の戦いの時代は,一応終わっていました。これからは政治の時代でした。弟の活目尊こそ,政治を行う魂,和魂の権化だと判断したのです。 なぜ2人とも御諸山に登る夢を見るのでしょうか。それはもはや明らかです。三諸山は,一地域としての大和のみならず,大八洲国を支配した神の聖地だったからです。大八洲国を平定した王者が鎮座する山だからです。だからこそ,支配者を決める舞台になったのです。
一方,大己貴神が偉大なる武神であることは,神功皇后摂政前紀9月にも描かれています。 熊襲を征伐した神功皇后は,いよいよ新羅をうかがいます。諸国に号令して船を集めましたが,兵が集まりません。これは神の思し召しなのであろうと考えた神功皇后は,「大三輪社(おおみわのやしろ)を立てて,刀矛(たちほこ)を奉りたまふ」。すると,兵は自然と集まりました。戦うときの神頼みの神は,神功皇后にとっては大三輪の神だったのです。 この大三輪社をどこにあてるのか。議論があるようですが,とにかく神功皇后は九州にいました。そこで,「大三輪社を立て」たのです。ですから,大三輪の社がなかったところに,戦功を祈って初めて建てたのです。九州の地元の神に祈るのとはわけが違います。確かに,神に武器を奉納して祈る例はたくさんありますが,これはやはり,神功皇后にゆかりのある武神に神頼みしたと考えるのが筋でしょう。 その大三輪の神は,もちろん大己貴神です。神功皇后もやはり,大三輪の神をいつき祭っていたのです。三輪山には,大八洲国を支配した偉大なる大己貴神がいました。
そもそも,天皇の祖神武天皇自身が,実際には,大己貴神の系譜に絡んでいるのです。 神武天皇は,事代主神の娘姫蹈鞴五十鈴姫命を「正妃」とします(神武天皇即位前紀庚申8月)。神武天皇が吾田にいたときの妻は,「日向国の吾田邑の吾平津媛」でした。この姫ががどうなったのか,日本書紀の叙述上まったくわかりません。行方不明になってしまいます。それどころか,吾田の吾平津媛(あひらつひめ)との間の子,手研耳命(たぎしみみのみこと)は,神渟名川耳尊(綏靖天皇)によって暗殺されます(これは暗殺であり叛乱ではありません)。一方,神武天皇には彦五瀬命,稲飯命,三毛入野命の,吾田における3人の兄がいましたが,いずれも戦死したことになっています。 ですから,神武天皇の系図上,吾田関係の血筋は見事に途絶えることになっているのです。吾田は忘れ去られました。いや,もしかして,忘れ去りたい出自だったのかもしれません。残ったのは,出雲の神,事代主神の娘との系譜だけです。 日本書紀は,こっそりと秘密を語っています。
それが証拠に,神武天皇以下の天皇は,事代主神の血をひいた姫を娶っています。 神武天皇は,大和を支配してから,早速正妃を迎えます。それが,事代主神の娘姫蹈鞴五十鈴姫命でした。 このように,神武天皇以下懿徳天皇までは,すべて事代主神の血をひいた女を皇后にしているのです。出雲国を現実に武力侵略し,支配したのであれば,こんなことをする必要性はありません。大己貴神は,すでに大和の三輪山にいました。その周辺には,大己貴神をいつき祭る有力な氏族がいました。だからこそ,その氏族と血縁関係を深めることによって,支配者たり得たのです。
この事代主神は,神功皇后を助けた神であり,決して敵ではありません。 神功皇后は,仲哀天皇が神の意思に逆らって死んだ後,その神の名を知ろうとします。そこに現れたのが事代主神でした(神功皇后摂政前紀)。 新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生みます。そして大和に凱旋しようとします。しかし大和にいた仲哀天皇の妃(みめ)との間の子,カゴ坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は,仲哀天皇が筑紫で死亡したことを聞き,これを阻止しようとします。当然でしょう。こうして,皇后の子と妃の子との間で,皇位継承を巡る争いが始まります。 難波を目指した神功皇后の船は,先に進めなくなります。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占いました。天照大神は,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言います。稚日女尊は,活田長峡国(いくたのながおのくに)に居たいと言います。事代主神は,長田国(ながたのくに)に祭れと言います。表筒男,中筒男,底筒男の住吉3神は,わが和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居らしむべしと言います。 事代主神は,皇祖神とされる天照大神,稚日女尊,住吉3神と共に現れ,神功皇后を助けたのです。祭る場所を指定したのは,それが軍事上の要衝だったのでしょう。 事代主神は,決して天皇の敵ではありません。ここでは,皇祖神天照大神と共に皇統を庇護する神として叙述されているのです。
日本書紀本文は,偉大なる出雲神話を隠そうとしています。隠しながらも,第8段第6の一書をきちんと残すという知性がありました。その内容は,偉大なる出雲の神が三輪山にやってきて大八洲国を支配する政治を行ったというものでした。 これに対し古事記は,偉大なる大国主神(大己貴神)の王朝物語を展開しました。日本書紀編纂者が隠したかったものを,古事記ライターは堂々と展開しています。私は,古事記ライターは,国生みに続く神生みに熱心であること,単なる国生みではなく神の国を語ろうとしていること,君たちの周りにはこんな神がいるんだよと説明しようとしていること,を指摘しました。 この性癖からすれば,大国主神の王朝物語は,当時生きている人々にとって,決してはずせない神話だったはずです。
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