第26 国譲りという名の侵略の命令者 |
日本書紀第9段本文を理解しなければ古事記が見えてこない さて,国譲りという名の侵略を具体的に検討していきましょう。しかし,いつものように,日本書紀をきちんと理解していないと,いかに古事記が特殊かが見えてきません。ここはしばらく,日本書紀第9段本文を検討してみましょう。 冒頭は以下のとおりです。「天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊,高皇産霊尊の女(むすめ)栲幡千千姫を娶き(まき)たまひて,天津彦彦火瓊瓊杵尊を生れ(あれ)ます」。そこで「皇祖(みおや)高皇産霊尊」は,「特に(おぎろに)憐愛(めぐしとおもほすみこころ)を鐘めて(あつめて),崇て(かてて)養し(ひだし)たまふ」。「遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて,葦原中国の主(きみ)とせむ欲す(おもほす)」。 系図を図示すると以下のとおりです。 天照大神(女神?) ―― 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(男神) この単純明快な系図には,論じ尽くせないほど様々な問題があります。今は,古事記を理解する上で必要なことだけを述べましょう。
この系図では,正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の父が意図的に無視されています。この系図を見れば,天津彦彦火瓊瓊杵尊には父がいることがわかります。じゃあ,正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の父はいったい誰か。父がいればその父が男系男子として皇祖神の地位にいてもおかしくないはずです。 おおかたの人々は,素戔鳴尊が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の父であることを忘れています。すなわち素戔鳴尊が,天孫たる天津彦彦火瓊瓊杵尊以降の天皇の系譜の父方の祖であることを忘れています。 なぜ素戔鳴尊は系図から消されているのでしょうか。 私は,すでにその質問に答えました。素戔鳴尊は,国譲りという名の侵略を正統化する種として使われたにすぎないからです。
そのくせ,高皇産霊尊が,主役として突然登場するのです。 高皇産霊尊は,日本書紀第1段第4の一書のさらに異伝で,高天原との関係でほんのちょっと言及されるだけでした。文字どおり「ほんのちょっと」です。原文を見て欲しい。その後は,第7段第1の一書で,天照大神を誘い出す方策を考える思兼神の父として名前だけ登場し,第8段第6の一書では,葦原中国を大己貴神とともに作った少彦名命の父としてほんの少し登場するだけです。 ところが高皇産霊尊は,日本書紀第9段本文という,日本神話の檜舞台に,主役として登場してきます。高皇産霊尊こそが命令者です。日本書紀の神話の上で何の位置づけもされてこなかった高皇産霊尊なのです。極めて唐突です。極めて異常です。 それだけでなく,状況設定が,これまた異常です。 「皇祖(みおや)高皇産霊尊」は,天津彦彦火瓊瓊杵尊を「特に(おぎろに)憐愛(めぐしとおもほすみこころ)を鐘めて(あつめて),崇て(かてて)養し(ひだし)たまふ」。 高皇産霊尊が,突然「皇祖」です。たんなる外戚にすぎない高皇産霊尊が,「皇祖」という称号を戴いています。天照大神にはついていません。そして,直系の祖父である素戔鳴尊も直系の祖母である天照大神も無視して,単なる外戚の祖父である高皇産霊尊が,孫である天津彦彦火瓊瓊杵尊を可愛がり,養うのです。実際に養っているのは,母である栲幡千千姫,すなわち高皇産霊尊の娘なのでしょう。 これは,とんでもない叙述です。@突然高皇産霊尊が主役になり,A命令者となり,B天照大神をさしおいて皇孫を養育する。もはや神話ではありません。神を利用した,極めて政治性の高い書物と言わなければなりません。
日本書紀の叙述をたどりましょう。 この部分の主語は,「皇祖高皇産霊尊」です。国譲りという名の侵略を決定したのは高皇産霊尊なのです。しかも,命令の相手は天照大神の子ではなく孫。そうしないと,高皇産霊尊がなんぼのもんじゃい,ということになりますから。高皇産霊尊は,天照大神の皇子,正哉吾勝勝速日天忍穂耳命に娘を提供し,孫を生ませたという事実だけでつながっているのですから。 ここでは,政治の実権を,天照大神ではなく外戚の高皇産霊尊が握っているのです。政治的意思決定権は高皇産霊尊が握っているのです。この後,国譲りという名の侵略と天孫降臨の具体的な命令を下すのも,すべて高皇産霊尊です。天照大神は,単なるお飾りでしかありません。
また,「皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて」という部分も,極めて問題です。ここにいう「皇孫」は,一見,天照大神の孫という意味で使われているように見えます。しかし叙述を素直に読むと,実は「皇祖」高皇産霊尊との対応で使われていることが,はっきりしています。 「皇祖」高皇産霊尊が,「皇孫」天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てるのです。この2つの神名と称号は,呼応しています。 出雲平定のために降臨した経津主神と武甕槌神は,大己貴神に対して言います。「高皇産霊尊,皇孫を降しまつりて,此の地に君臨はむとす」。ここにいう「皇孫」も,天照大神との対応ではなく,皇祖高皇産霊尊の孫として叙述されています。 外戚筋にすぎない高皇産霊尊は,「皇祖」という称号を天照大神から奪い取り,「皇孫」をも奪い取っているのです。あまつさえ,その皇孫を自分で養っているのです。「崇て(かてて)養し(ひだし)たまふ」というのですから。 日本書紀編纂者は,天照大神を皇祖神として描こうとしていません。皇祖は,むしろ高皇産霊尊なのです。日本書紀編纂者は,それを公定解釈であり正伝である第9段本文にしました。
なぜでしょうか。これはいわゆる日向神話を論じてからでないとわかりません。あとで論証しますが,ここでは,私の結論だけを述べておきます。 前述したとおり,神話の故郷は,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」にありました。これは,日向から吾田に至る南九州地方のことです。そこに,朝鮮から,高皇産霊尊をいつき祭る民がやって来ました。 日本書紀第6段第1の一書には,天照大神(じつは単なる日の神)が,宗像三神を,「筑紫洲」に天下らせて,「道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ。」と命令したとあります。日の神,すなわち天照大神は,すでに九州のどこかにいて,朝鮮からやって来る天孫を迎えるというのです。そのために,宗像三神を鎮座させたというのです。 第6段第3の一書は,天降らせた場所をはっきりと述べています。この短い異伝は,そのために残されたのです。「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」に天下らせ,それは「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるといいます。これを名付けて「道主貴(ちぬしのむち)」といいます。道中の神という意味です。宗像三神は,もとは,宇佐にあって,朝鮮から来る天孫を迎えたというのです。 宇佐を南に下っていくと,日向です。南九州の東海岸です。天孫降臨の地は,南九州の「日向の襲の高千穂」でした。彼らは,不毛の地を国まぎして,「吾田の長屋の笠狭碕」に到着します。これは,南九州の西海岸です。そこで事勝国勝長狭から国を献上され,その地を支配します。 そこで彼らは,日の神(太陽神であり海洋の神)を信仰する海人と融合しました。一方,出雲の大己貴神は,大和の三輪山へ行って大八洲国を支配していました。神武天皇は,「179万2470年」後に,「東征」します。そして,三輪山を支配していた大己貴神や事代主神の血を引いた女を娶り,融合していきます(欠史8代)。 結局,高皇産霊尊と天照大神(当時は日の神)と大己貴神は,大和という地で合体しました。ですから日本神話には,日向神話と出雲神話と,いわゆる高天原神話の3要素があります。しかし出雲神話は,利用されることになった傍系にすぎず,主軸は高皇産霊尊と日の神信仰でした。後世,この日の神は,天照大神と呼ばれるようになります。主流の神話の中で一番古いのは,高皇産霊尊でした。
では高皇産霊尊は,第8段までで,なぜきちんと位置づけられていないのでしょうか。なぜきちんと語られないのでしょうか。 これは,大変重要で根の深い問題です。これをしっかり認識すると,古事記の神話が色あせて見えてきます。 古事記ライターは,日本書紀における高皇産霊尊や天照大神の曖昧さに,我慢ならなかったのでしょう。だからこそ,天と高天原の関係に矛盾をきたすことなどお構いなく,古事記本文冒頭で,高御産巣日神ら3神のいる高天原概念をバーンと書いてしまった。その後,天照大御神と並んで高御産巣日神を命令者とした。日本書紀の矛盾を取り繕おうとしているのです。 私には,王政復古的反動が古事記であり,しかも日本書紀よりも新しいと思えるのです。
最後に,もうひとつ問題があります。かの有名な藤原不比等です。 藤原不比等は,その娘宮子を,文武天皇の妻にしました。その間に生まれたのが,聖武天皇でした。不比等からすれば孫になります。これが,藤原氏の原点です。 外戚筋にすぎない高皇産霊尊が,「皇祖」という称号を天照大神から奪い取り,「皇孫」をも奪い取ったのでした。そして,その皇孫を自分で養っているのでした。「崇て(かてて)養し(ひだし)たまふ」というのですから。 天照大神を持統天皇や元明天皇に重ね合わせる見解があります(梅原猛,「神々の流竄」)。女性天皇が,孫に皇統を引き継ごうとした時代が,確かにありました。すると高皇産霊尊は,外戚となった藤原不比等なのでしょうか。ただ,この見解は,古事記を中心に語っています。私は古事記の価値を認めません。あくまでも,日本書紀を見ます。そしてむしろ,日本書紀にこそ,藤原不比等の影が色濃く残っていると思うのです。
それは,第2の一書にも現れています。 日本書紀第9段本文は,外戚にすぎない高皇産霊尊が主人公となり,「皇祖」の称号を奪い,「皇孫」を天照大神から奪ってかわいがり,育てる,という点が異常でした。 天照大神は,高皇産霊尊による天子降臨の命令後,降臨する正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の世話を焼きました。その世話焼きの内容の一部が,万幡姫を娶らせることでした。ですから,この異伝では,その前に天孫は生まれていません。 第2の一書での高皇産霊尊は,生まれてもいない皇孫に期待して,「吾孫」と呼んでいるのです。生まれてもいない「吾孫」のために天孫(天子?)降臨の準備をする。これは,異常を通り越して,もはや物語として破綻しています。天孫を生むことになる高皇産霊尊の娘万幡姫は,天忍穂耳尊と結婚さえしていません。いずれ自分の娘が皇子と結婚して皇孫が生まれるさ,いずれそうなるのさ,などと将来を見切っているかのような展開です。
だいいち,皇孫のことを「吾孫」,「吾孫」と呼ぶこと自体がおかしい。畏れ多くも皇孫を,自分の孫と呼んでいるのです。ところが訓は「すめみま」と読ませているのです。私はここに,日本書紀を読み解いてきた,日本書紀成立以来1300年にわたる学者さんたちの限界を感じます。 「吾孫」に「あがまご」すなわち俺の孫という訓を,どうしてふらないのか。 私は,憤りさえ感じます。こんな発想など,1300年の間なかったのでしょう。私は,「あがまご」と読むべきだと考えます。「すめみま」ではありません。 皇孫を「吾孫」,「吾孫」と呼んでいる高皇産霊尊は,皇統を完全に無視しています。天皇の権威を無視しています。皇孫であることよりも,自分の孫であることを重視し,それに夢中になっている,哀れな老人です。将来,自分の娘が天忍穂耳尊と結婚して皇孫を生むことが当然であるかのごとき態度です。 そして重要なことは,ここでも天照大神は添え物にすぎないということです。一読すると,高皇産霊尊と天照大神が一緒になって降臨を命じたように見えます。しかしそれは違います。命じたのはあくまでも高皇産霊尊です。天照大神は,高皇産霊尊の命令後,降臨する正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の世話を焼いたにすぎません。叙述をよく読めばわかります。その世話焼きの内容の一部が,万幡姫を娶らせることでした。 第2の一書の何が異常なのか。それは,天照大神も命令者であるようでいて,じつは高皇産霊尊が主役に納まっている点でした。しかも,本文よりも一層しゃしゃり出ている点でした。 こんな異伝があるのです。藤原不比等を論ずるならば,なぜこの異伝を論じないのでしょうか。本は,よく読まなければなりません。
どうしても,話が横道にそれてしまいます。 神武天皇は言います。「昔我が天神,高皇産霊尊,大日霎貴」が,この豊葦原の瑞穂の国を天津彦彦火瓊瓊杵尊に授けたと(神武天皇即位前紀)。 また天照大神は,武甕槌神に,葦原中国が(国譲りによって平定したと思っていたが)いまだに騒がしいので,「汝更往きて征て(いましまたゆきてうて)」と命令します。ここでの天照大神は,「我が皇祖天照大神」です(神武天皇即位前紀戊午6月)。結局武甕槌神は,高倉下(たかくらじ)に剣を与え,八咫烏(やたがらす)を使わして神武天皇を助けました。第9段本文では高皇産霊尊が武甕槌神に命令したのですから,本来ならば高皇産霊尊が命令すべきところです。なぜ天照大神なのでしょうか。 それが証拠に,八十梟帥(やそたける)を討つ前,五百箇の真坂樹をもって諸神を祭ったときに神武天皇自身が神懸かりしたのは,「今高皇産霊尊を以て,朕親ら顕斎を作さむ(われみずからうつしいわいをなさむ)。」とあるとおり,高皇産霊尊だったのです(神武天皇即位前紀戊午9月)。 神武天皇は,高皇産霊尊を皇祖としていました。 しかし,いつの間にか高皇産霊尊は無視され,崇神天皇の時代には,天照大神だけが国神倭大国魂神と並べて天皇の大殿の内に祭られていました(崇神天皇6年)。これは,後世言うところの天照大神であり,当時は単なる日の神だったことはすでに述べました。
顕宗天皇3年の叙述は,天照大神や月読尊が,各地にあった日の神信仰や月の神信仰の1つにすぎないこと,高皇産霊尊を祖神としていつき祭る氏族が朝鮮からやって来たことを,はっきりと述べています。 顕宗天皇3年2月,阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が天皇の命令を受けて任那に使いをします。その目的ははっきりしません。しかしこの年の4月に天皇が死ぬと直ちに,紀生磐宿禰(きのおひはのすくね)が,任那を根拠に高句麗と通じて朝鮮半島の王になろうとして,自らを「神聖(かみ)」と名乗るという事件が起きます。不穏な動きのある任那を調査する任務だったようです。 そこで,「月神」(月読尊ではない)が人に神懸かりしてこう述べます。「我が祖(みおや)高皇産霊尊,預(そ)ひて天地を鎔ひ造せる功有します(あいいたせるいさおしまします)」。だから,月の神に土地を奉れ。そうすれば幸いがあろう。そこで土地を奉りましたが,その祭りには,壱岐の県主の先祖「押見宿禰(おしみのすくね)」が仕えました(顕宗天皇3年2月)。 その2か月後,さらに「日神」(天照大神ではありません。)が人に神懸かりして,磐余(いわれ)の田を,「我が祖高皇産霊尊に献れ。」と述べます。そこで土地を奉りましたが,その祭りに仕えたのは,「対馬下県直(つしまのしもつあがたのあたい)」でした(顕宗天皇3年4月)。
いずれにせよ顕宗天皇3年は,とんでもないことを言っています。 ここでの月の神や日の神は月読命や天照大神とは違います。一般に信仰されていた地方神としての月の神と日の神です。その地方神が,高皇産霊尊を「我が祖(みおや)」と呼んでいるのです。 とすると,月読命も天照大神も,地方神としての月の神や地方神としての日の神を,統括し代表する神ではないということになります。月の神信仰と日の神信仰は,大八洲国全体に広がっていました。そのうち月読命や天照大神は,天皇につながる氏族が祭った,ひとつの月の神であり,ひとつの日の神だったにすぎないのです。 そして壱岐や対馬では,高皇産霊尊こそが,地方神としての月の神や日の神の先祖として統括し代表していたということになります。これは,月の神信仰と日の神信仰があった地域に,高皇産霊尊が入り込んで,祖神になったことを示しています。
月の神も日の神も,大八洲国全体に展開していたのでしょう。そのうちの壱岐と対馬では,高皇産霊尊が月も日も生んだとされていたのです。 少なくとも壱岐と対馬では,高皇産霊尊こそが,月の神と日の神の「我が祖(みおや)」でした。この地域には,昔から月読命も天照大神もいなかったのです。昔からいたのは,月の神と日の神と,その祖先たる高皇産霊尊でした。そしてこの地域は,朝鮮半島との交易路でした。朝鮮とのつながりが強い地域でした。これが重要です。
私は,日本書紀第5段第11の一書について,保食神(うけもちのかみ)の身体各部と朝鮮語が対応していることから,五穀と養蚕は朝鮮から来たと言いました。それだけでなく,海洋神天照大神は五穀と養蚕にふさわしくなく,五穀と養蚕を喜んだのは高皇産霊尊ではなかったかと考えました。 その要点は以下のとおりです。 すると残るは,高皇産霊尊しかありません。日本書紀第5段第2の一書によれば,五穀と養蚕の起源が,「産霊」の思想に結びつけて考えられています。「産霊」とは,物を生み出す霊力というくらいの意味です。高皇産霊尊の「産霊」です。伊奘再尊は火の神軻遇突智(かぐつち)を生んで死にました。火の神軻遇突智は土の神埴山姫(はにやまひめ)と結婚して稚産霊(わくむすひ)を生みます。稚産霊の「頭の上に,蚕と桑と生れり(なれり)」。「臍(ほそ)の中に五穀(いつのたなつもの)生れり(なれり)」。 すなわち,「産霊」こそが,養蚕と五穀を生んだ原動力なのです。だから,高皇「産霊」尊が五穀と養蚕を生んだとする方がふさわしい。 天照大神と高皇産霊尊については,日本書紀の叙述上のねじれという問題がありました。そのなかで,本来高皇産霊尊がいた場所に,天照大神が紛れ込んだのではなかろうか。高天原の主はあくまでも高皇産霊尊であり,天照大神ではありません(第1段第4の一書に引用された異伝)。 天照大神という神名は,じつは,日本書紀第5段本文では使われていません。「日神」を生んで,それを「大日霎貴」と呼ぶとしか記載されていません。本文のなかの注で,一書では「天照大神」といい,一書では「天照大日霎尊」というとしているにすぎない存在なのです。 ところがこれが,第6段以降の本文に侵入してきます。第6段では,天照大神が高天原にいることになっています。それに続く天岩窟で有名な第7段も同じです。第8段は素戔鳴尊の出雲建国の話だから登場しませんが,国譲りという名の侵略を語る第9段は,高天原に天照大神がいることになっています。 こうして,高皇産霊尊が支配する世界であるはずの高天原に,天武天皇以降称揚された天照大神が,接ぎ木されているのです。だから第9段では,高皇産霊尊が命令者となります。そこでの天照大神は,降臨する神の祖母という地位しか与えられませんでした。 ここに,日本書紀を舞台とした,天照大神と高皇産霊尊の出会いと結びつきがあります。天照大神と高皇産霊尊は,第9段において,降臨する天孫の父親の母,降臨する天孫の母親の父,という関係を切り結ぶのです。 私は,侵略的,征服的な気質をもった氏族。魚や獣肉を否定して稲作と養蚕をもたらした氏族。こうした朝鮮系の氏族がいたと考えます。それは,「常世の浪の重浪帰する(しきなみよする)国」を愛する天照大神,海人の神ではありえません。高天原という思想をもつ高皇産霊尊以外にありません。
一方,私は,五穀と養蚕は朝鮮半島からやってきたとして,以下のように論じました。 第6段第1の一書によれば,天照大神(ここでは単に日神)は,宗像三神を「筑紫洲(つくしのくに)」に天下らせて,「汝(いまし)三の神,道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫の為に祭られよ。」と命令しました。「道の中」とは,第3の一書によれば「海の北の道の中」であり,朝鮮との海路の途中です。すなわち,朝鮮との海路の途中に降って,天孫を助けて,天孫の為に人々から祭られなさいという意味なのです。 要するに,天孫が来る前に,天照大神はすでに九州のどこかにいて,出迎えようとしているのです。 私は,高皇産霊尊につながる伝承,すなわち山幸彦が持っていた弓矢,すなわち天羽羽矢で語られる伝承と,海洋神天照大神につながる伝承,すなわち海幸彦,鏡,玉で語られる伝承とが,吾田で出会い,混交したと論じました。 ここに,2系統の伝承が,日向の吾田で出会った根拠があります。 第6段第3の一書は,もっと具体的な地名を明示しています。「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」に天下らせ,それが「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるというのです。これを名付けて「道主貴(ちぬしのむち)」という。道中の神という意味です。宗像三神は,奥津宮が沖ノ島に,中津宮が大島に,辺津宮が玄海町田島にあります。日本書紀編纂当時には海の北の道,すなわち玄界灘地方にあったが,もとは,宇佐にあったというのです。 宗像三神は,本文も一書も,素戔鳴尊の剣から生じたとしています。これが天孫の行く道を守る。一方,五穀は,飯と魚と獣肉でもてなそうとした保食神を,月夜見尊が剣で撃ち殺すことによって生成しました(第5段第11の一書)。そして今,剣をもった女神が,降臨しようとする天孫を守るのです。剣を奉じ,剣と共にやってくる氏族がいたのです。これは,かなり強烈なイメージです。 日本書紀が語る剣のイメージは,あまりにも強烈です。そして時代が下ると,天孫がやってきた道筋に忠実であろうとして,または交通が激しくなったがゆえに,玄界灘地方に宗像三神を移したのでしょう。 以上をまとめます。 日本書紀の異伝である一書は,天孫(高皇産霊尊の子孫か?)が,筑紫洲の宇佐を通ってやって来たと叙述しています。天孫降臨の地は,のちに詳しく検討するとおり,南九州の日向です。そこから吾田地方に,国まぎして定住しました。天孫降臨の地は,後述するとおり,日本書紀本文も一書も,以下のとおりです。「日向の襲の高千穂」の「添山峯」に天下って,そこから「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍の空国を頓丘から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕」に至る。そして「長屋の竹嶋」に登った。 天孫降臨の段では,南九州の日向に降臨して,吾田に行ったのです。天孫降臨など,しょせん観念の遊びであり,作文です。そうした伝承をもつ人々は,実際は,宇佐を通ってやって来ました。宇佐は九州の東側です。その海岸線沿いに南に降ると,日向があります。天孫は,そこからさらに吾田に向かったことになります。 日本書紀編纂者は,きちんとした編集作業を行っています。神話の公権的公定解釈としては,いきなり南九州の「日向の襲の高千穂」に降ればよい(本文)。しかし,その実際の足取りを残しておこう(一書)。 天皇の祖先は,吾田地方にいた海人系の氏族ということになります。そこには海洋神天照大神(当時は単なる日の神。)がいました。海幸彦の世界でした。 日本書紀本文は,正面から認めようとはしません。しかしその痕跡は,引用された一書という異伝に,はっきりと残されています。
朝鮮との交易路にある壱岐嶋と対馬嶋では,高皇産霊尊が月の神と日の神の祖だとされていました。その高皇産霊尊は,朝鮮半島から五穀と養蚕を伝えた神でした。高皇産霊尊をいつき祭る氏族は,朝鮮半島から九州に渡り,吾田で天照大神と交わりましたが,その前に壱岐嶋や対馬嶋を支配していました。月の神や日の神の祖は,この地域では高皇産霊尊でした。伊奘諾尊や伊奘再尊などではありません。この2神は,吾田という一地方の海洋神です。この2神が月の神と日の神を生んだというのは,天皇につながる氏族がもっていた伝承にすぎません。 そしてその高皇産霊尊は,天地を鎔造した神と呼ばれていました。 子ではなく孫が降臨する理由もはっきりとわかる このように考えてくると,子ではなくなぜ天孫が天降るのかという問題もわかります。 なぜ天孫が天降るのかわからないという人がいます。たとえば第9段第2の一書では,子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を天降らせようとしましたが,降る途中で天津彦彦火瓊瓊杵尊が生まれたので,「此の皇孫を以て親に代へて」天降らせたとあります。途中まで降ったのに,なぜいきなり天孫に交替しなければならなかったのか,というわけです。 しかし,系図だけをしっかりと眺めていれば,たやすくわかります。 外戚高皇産霊尊は,天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を介してしか,天皇の系譜につながることができないのです。天照大神の子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に天降ってもらっては困るのです。どうしても,外戚高皇産霊尊の娘栲幡千千姫が生んだ天津彦彦火瓊瓊杵尊に降臨してもらわなければ困るのです。 第9段本文冒頭が示す系図は,こうした巧妙な意図の下に作られています。
以上を理解したうえで,古事記を読んでください。古事記ライターの気持ちが,面白いほどよくわかると思います。 古事記は,ごくごくストレートに,以下のように語り始めます。「天照大御神の命(みこと)もちて,『豐葦原の千秋長五百秋の水穗国は,我が御子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の知らす国ぞ。』と言(こと)よさしたまひて,天降したまひき」。 これは,天孫降臨ならぬ,「天子降臨」です。 天孫降臨の前に天子降臨があったなんて話は,日本書紀第9段本文にはありません古事記ライターは,天照大神こそが皇祖神だから,その子が降臨することになる,と考えているのです。天照大御神は,孫ではなく,子供すなわち「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」を降臨させようとしたのです。この神は,速須佐之男命の子でした。その意味で,正当性の契機がはっきりと打ち出されています。その命令者は天照大御神なのです。 日本書紀第9段本文冒頭は,様々な問題が山積みしています。@ 話の初めから,すでに天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊が生まれたことになっています。A 高皇産霊尊は,なぜか「皇祖高皇産霊尊」となっており,天照大神はまったく無視されます。B その「皇祖」高皇産霊尊が,天照大神の孫である「皇孫」を,「特に(おぎろに)憐愛(めぐしとおもほすみこころ)を鐘めて(あつめて),崇て(かてて)養し(ひだし)たまふ」としています。天照大神から奪って,溺愛しているのです。C この「皇祖高皇産霊尊」が,天孫を降臨させようと企てます。D なお,天孫が降臨するときのアイテムは真床追衾であり,天照大神を象徴するアイテムはまったくありません。
日本書紀第9段本文には,以上のいろいろな問題があるのですが,とにかく古事記では,高御産巣日神が天孫の降臨を画策するのではなく,天照大神が天子の降臨を画策するのです。天照大御神による「天子降臨」の命令から始まるのです。そしてこれは最後まで貫かれ,2度目の天子降臨が企てられるのですが,その途中で天孫が生まれ,天孫降臨に転じてしまいます。 もちろん天孫は,まだ生まれていません。この時点では,高御産巣日神は,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の父でもないし,外戚でもありません。この「天子降臨」の時点では,高御産巣日神の立場は,古事記冒頭に登場した高天原の根源神3神のうちの1神でしかありません。 そして,天降ろうとした天子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は,葦原中国が騒がしいと言って,戻ってきてしまいました。その旨「天照大神に請(もう)したまひき」。「御」の字が抜けているのがご愛敬ですが,とにかく報告の相手は,天照大御神です。高御産巣日神には報告していません。当然です。 古事記ライターは,いきなり高皇産霊尊が「皇祖」となり,「皇孫」を溺愛するという展開を嫌ったのでしょう。「皇祖」との肩書きこそありませんが,天照大御神こそが皇祖神だと言いたいのです。 そして,その後の展開も,これを裏付けています。天照大御神と高御産巣日神が,共に命令するのが古事記だという人がいます。しかしそれは違います。以下,命令神を調べてみましょう。
次のお話,すなわち天菩比神(あまのほひのかみ)派遣のお話から突然,高御産巣日神が関与してきます。 天照大御神の天子降臨は,あっけなく失敗しました。「ここに高御産巣日神,天照大御神の命もちて」,神々を集めて,騒がしい葦原中国をどうするか協議を始めます。そして,天菩比神の派遣を決定します。次に同様にして,天若日子(あめわかひこ)の派遣を決定します。ところが,次に建御雷神の派遣を決定するのは,天照大御神1人でした。しかし,天子降臨に続いて天孫降臨を命令するのは,「ここに天照大御神,高木神(高御産巣日神の別名)の命もちて」ですから,2神が共同して命令しているのです(古事記の天孫降臨は,天子降臨の途中で天孫が生まれ,天孫降臨に転じます)。 以上まとめると,以下のとおりです。 (命令者) 以後のお話の大まかな流れは,ほぼ日本書紀本文と同様です。しかし,命令者がまったく異なっています。日本書紀は高皇産霊尊1本。しかし古事記は,このとおり変転しているのです。 古事記ライターの一貫した意図があるのでしょうか。
古事記ライターは,まず@の部分で,皇祖神が天照大御神1人であること,その子供である天子が降臨するのが筋であることを,明確に打ち出しました。高御産巣日神が関与する必要はないし,天孫が降臨する必然性もありません。 ところが,意外にも葦原中国は騒がしかった。降臨しようとした天子は,騒がしい様子を見ただけで,何もできずに戻ってきてしまいます。はっきり言って情けない。醜態とも言えましょう。そこで,「この国に道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る国つ~等の多(さわ)なりと以為ほす(おもほす)。これ何(いず)れの~を使はしてか言趣(ことむけ)む。」となるのです。そしてA以下が,武力侵略の話になっていくのです。 すなわち古事記では,高御産巣日神は,皇祖神天照大神をサポートする男神として登場しているのです。 その背景には,高御産巣日神に対する信仰があったのでしょう。日本書紀編纂者が,高皇産霊尊を位置づけないようでいて,その痕跡をきちんと残していることは前述しました。
問題はDの天孫降臨です。 古事記の天孫降臨は特殊です。まず天照大御神と高御産巣日神が共同して,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命を降臨させようとします。すなわち,あくまでも皇祖神は天照大神で,その世継ぎとも言える天子を降臨させようという筋は守っているわけです。この時点で高御産巣日神は,古事記冒頭に出現した根源神にすぎず,天照大御神とは,直接の関係がありません。 ところが,降臨の途中で,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に子が生まれます。これが天孫,天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)です。そして,この天孫が実際に降臨することになります。 そして,注意しなければならないのは,ここで初めて高御産巣日神と天孫の関係が明かされる点です。古事記は,天孫が誕生した叙述の直後に,「この御子は,高木神(高御産巣日神の別名)の女(むすめ),萬幡豐秋津師比賣命(よろづはたとよあきづしひめのみこと)に御合(みあい)して,生みませる子,天火明命(あめのほあかりのみこと)。次に日子番能邇邇藝命なり」という注意書きを挿入しています。これは明らかに,古事記ライターの説明書きです。 要するに,古事記における高御産巣日神は,古事記ライターが挿入した上記説明書きで,ようやく天孫につながっているにすぎないのです。この説明書きがなければ,高御産巣日神は単なる根源神の1つにすぎません。あくまでも天子降臨が原則であり,たまたま降臨中に天孫が生まれたので,天孫とのつながりができたにすぎないのです。 この点,日本書紀第9段本文とは根本的に異なります。 やはり古事記は,あくまでも天照大御神中心の物語なのです。高御産巣日神は,付け足しだと言ってよいでしょう。古事記ライターは,心の中ではすでに,高御産巣日神をいつき祭っちゃいません。天照大御神こそが皇祖神であり,命令の主人公だと考えています。 ですからこれは,時代的には新しい物語です。神の中心が高御産巣日神から天照大御神に移った時代の産物です。
じつは,古事記と同様の展開なのが,日本書紀第9段第1の一書なのです。 第1の一書には@とAの部分がなく,Bの天稚彦派遣の場面から始まります。高皇産霊尊はまったく無視されています。 またここに,古事記で登場する神と同一と思われる「思金神の妹万幡豊秋津媛命(よろづはたとよあきつひめのみこと)」が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に嫁ぐという話が挿入され,物語の伏線となります。思兼神は高皇産霊尊の息子でした(第7段第1の一書)。そこで天照大神は,武甕槌神らを派遣します。ここで国譲りという名の侵略が語られます。 思兼神が,天稚彦の様子を探るために雉(きぎし)を派遣する旨進言するところも,古事記と同じです。ただ,古事記はここで,雉に対する天照大御神と高御産巣日神の命令を台詞として挿入しています。「汝を葦原中国に使わせる所以は,その国の荒振る神等を,言趣け和せとなり。何にか八年に至るまで復奏せざる,ととへ。」という台詞です。これをわざわざ入れる感覚。これは明らかに,第1の一書に対する脚色です。 第1の一書は天稚彦の派遣から始まっており,天穂日命の派遣や天稚彦の選定の場面が省略されているのではっきりとは言えませんが,叙述の流れからして,派遣する武将の選定も,思兼神が行っているのでしょう。古事記でも思金神が行っています。
第1の一書は,古事記における最初の天子降臨話が天稚彦の派遣の次に挿入されているなどの違いがありますが,ほぼ古事記と同様の伝承です。天照大御神が,2度までも天子降臨にこだわっている点は,他の伝承にない本質的な共通点です。何が本質かって? もちろん,皇祖神がその子を降臨させるという点で筋が通っているということです。 古事記は,第1の一書を下敷きにしています。 第1の一書を読む限りでは,天照大神が一貫した命令者であり,高皇産霊尊はまったく関係ありません。2度までも天子降臨にこだわったのに,なぜ天孫に交代するのかもわかりません。唐突です。高皇産霊尊との関係は,正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の妻となった万幡豊秋津媛命の兄思兼神が高皇産霊尊の息子であったという,第7段第1の一書を参照しなければなりません。 古事記は,だからこそ,天孫が誕生した叙述の直後に,「この御子は,高木神の女,萬幡豐秋津師比賣命に御合して,生みませる子,天火明命。次に日子番能邇邇藝命なり」という注意書きを挿入し,高御産巣日神との関係を読者にわからせようとしたのです。そうして高御産巣日神と天孫との血縁を示し,天照大御神と並立させた理由を明らかにしようとしたのです。 古事記は,第1の一書のリライト版です。 リライトして何が付け加わっているのか。高御産巣日神です。すでに述べたとおり,古事記ライターは,天照大神神話を信奉している人です。天照大御神こそが皇祖だと考えている人です。だから,第1の一書をベースにして伝承を書きました。しかし,それまでいつき祭られていた高御産巣日神との関係を確立しておく必要があります。だからこそ高御産巣日神を並立した命令者とし,高御産巣日神と天照大御神との血縁関係を,古事記ライターの説明書きという形で挿入し,わかりやすくしておいたのです。
高御産巣日神と天照大御神は,葦原中国を平らげる神の選定に入ります。 ここに高御産巣日~,天照大御~の命もちて,天の安の河の河原に,八百萬の~を~集(かむつどへ)に集(つど)へて,思金~に思はしめて詔りたまひしく,「この葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり。」誰を派遣したらよいだろうか。 この言葉の主語は,高御産巣日神です。高御産巣日神が,葦原中国は天照大御神が「我が御子の知らす国と言依さしたまへりし国」だと説明しているわけです。 この天照大御神による「言依さし」こそが,古事記の本質です。天照大御神は,これに先立って,一人で正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命を降臨させようとしました。結局失敗しましたが,それも「天照大御神の命(みこと)もちて,『豐葦原の千秋長五百秋の水穗国は,我が御子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の知らす国ぞ。』と言(こと)よさしたまひて,天降したまひき」だったのです。 この点,並立的な命令者かのように解釈する学者さんたちは間違っています。高御産巣日神は,天照大御神の「言依さし」を尊重し,「言依さしたまへりし」と敬語まで使っているではありませんか。主体は天照大御神です。 繰り返しますが,古事記ライターは,天照大御神中心主義を貫徹しています。高御産巣日神は,添え物にすぎません。それが言い過ぎならば,物語上,武力行使が必要になってきたので,天照大御神の「言依さし」を助ける男神として登場してくるにすぎません。
学者さんたちの言うように,2神が並立して命令するのだとすると,孫さえも生まれていない高御産巣日神が,なぜ正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命を「我が御子の知らす国」と呼ぶのでしょうか。まったくわけがわかりません。注釈書を読んでも混乱するだけです。 それだけではありません。国を言依さしたまへりし高貴なお方は誰かということを考えねばならなくなります。 学者さんによれば,高御産巣日神と天照大御神は,「この葦原中国は,我が御子の知らす国と言依さし(ことよさし)たまへりし国なり。故………何れの神を使はしてか言趣けむ(ことむけむ)」と述べるのです。 ならば,「我が御子の知らす国と言依さしたまへりし」,高貴なお方は誰か。 古事記の本質は,「言依さし」にあるといわれています。先祖代々の言依さしこそが支配の根源であり,天皇が天皇たるゆえんなのです。それは各豪族による共和制ではなく,中国的な意味での天命の観念に裏打ちされた天子でもありません。古事記本文冒頭に,天命の天とも思われる高天原をもってくることにより,民意が離反すれば革命が起こり天命が変わるという観念は,念入りに排除されています。古事記では,「言依さし」こそが,神と天皇の正当性の根源なのです。 しかし,その言依さしの根源たる皇祖神天照大御神自身が,「我が御子の知らす国と言依さしたまへりし国なり」などと,のうのうと述べていることになります。天照大御神以前に,言依さしをした神がいることになります。どこまで遡ったら,「言依さし」をした神が出てくるのでしょう。古事記冒頭に登場する別天つ神,高御産巣日神でしょうか。しかし古事記ライターは,高御産巣日神さえも登場させて,「我が御子の知らす国と言依さしたまへりし国なり」などと,のうのうと述べているではないですか。 「言依さしたまへりし」という敬語は,誰が誰に対して使った言葉かという問題です。学者さんの説明は,はっきり言って甘い。
ここで,古事記の構成をもう一度振り返ってみましょう。 まず高御産巣日神は,古事記本文冒頭で,高天原にいる神として登場しました。天地が開けたときに,理由もなくまず高天原ができて,そこに,何よりもまず高御産巣日神ら3神が成ったというのでした。その「天つ神」の「修理固成」の命令で,伊邪那岐神と伊邪那美神が大八洲国をつくります。神生みもします。そのはてに,天照大御神ら3神が生まれてくるのでした。 一見すると,天照大御神は,むしろ高御産巣日神の下に位置する神です。 私は,高御産巣日神ら3神のいる高天原が古事記本文冒頭に付け加えられたのは,中国伝来の天命思想を,古事記という神話の中で排除したかったからだと述べました。皇祖神天照大神こそが中心であり,天命が移ること,すなわち天皇が途絶えて他の者が天下を支配することはありえない。高天原にいて,天命を体現する高御産巣日神が国譲りという名の侵略や天孫降臨を命令するのだから,もはや天命が移ることはない,という考えなのでした。 高御産巣日神は,登場の当初から,とってつけたような役割を負わされているのです。それは,この国譲りという名の侵略でも一貫していました。やはり主役は天照大御神です。高御産巣日神は,それを補佐する立場にしかすぎません。 私は,高御産巣日神と日の神が,「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」ないし吾田で出会ったと考えています。その日の神は,後世,天照大神と呼ばれるようになりました。日の神はいろいろあるけれど,天皇が信仰している日の神を特に天照大神と呼んだのです。 ですから,高御産巣日神を添え物のように扱う古事記の精神は,かなり新しい時代精神です。少なくとも,日本書紀編纂者の頭よりは新しいのです。
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