第30 天孫降臨の叙述の構造 |
古事記は第1の一書の天孫降臨の叙述を整理している さて前述したとおり,その第1の一書は,天照大神が我が子正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を「且将(まさに)降しまさむとする間(ころ)に,皇孫,已に生れたまひぬ」となります。突然,降臨するのが天子から天孫に交替してしまいます。そして,降臨する天孫の,にぎにぎしくも華やかな描写がなされ,いわゆる天壌無窮の神勅が語られます。読んでいて恥ずかしくなるくらいです。そして,降臨先までの道案内役として,猿田彦大神が登場します。そこでは,天鈿女命(あめのうずめのみこと)も登場し,猿女の君の名称の由縁が語られます。 古事記ライターは,これをさらに整理しています。 読者は,天子から天孫に交替してしまう第1の一書の叙述にとまどうのです。そこで古事記ライターは,交替の事情や経緯を,かなりまとめて叙述しました。学者さんたちが,「天孫の誕生」という表題をつける部分です。 整理すると,以下のとおりです。 (第1の一書) (古事記)
古事記の問題点は2つあります。 @ 天子から天孫へ交代した事情を,天孫降臨に先立って,スペースを割いて述べていること。 第1の一書を読んでいて驚くのは,降臨者が天子からいきなり天孫に交代することでした。第1の一書の天照大神は,一貫して,天子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を降臨させようとしました。そもそも天稚彦の派遣は,天子の降臨のためだったのです(第1の一書冒頭)。天稚彦の葬儀が終わると,天照大神は万幡豊秋津媛命を天子の妻にして,降臨させようとします。しかし,葦原中国が騒がしいので,戻ってきてしまいます。そこで武甕槌神と経津主神を派遣して,国譲りを行わせました。こうして再度天子を降臨させようとしますが,突如皇孫が生まれるのです。そこですかさず皇孫を降臨させることになるのです。 交代した皇孫の素性は何か。叙述が2箇所に別れてしまっているので,よくわかりません。 第1の一書では,降臨しようとするまさにその時,道案内の猿田彦大神が突如出現したことになっています。そして描写は,猿田彦大神と天鈿女命のやり取りの方に傾いてしまいます。その結果,肝心の「天磐座(あめのいわくら)を脱離(おしはな)ち,天八重雲(あめのやえたなぐも)を排(お)し分けて,稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて,天降ます」という天孫降臨の描写が埋もれてしまっているのです。天壌無窮の神勅が出た割には,実際の降臨の描写が,猿田彦大神と天鈿女命によってかすんでしまっているのです。 古事記ライターもまた,「天降りまさむとする時に」と書いていますが,降臨の描写の前に猿田毘古神を登場させました。こうして,第1の一書の唐突感をなくしました。そして,実際の降臨の描写は,スペースを割いて堂々と叙述します。ここで猿女の君とのやり取りや由縁話を語っていては,実際の天孫降臨がかすんでしまうからです。ですから,猿女の君の由縁話は,天孫降臨の後に付け足しのように置いたのです。 これで,第1の一書を読んだときの2つの問題点は,きれいに解決されました。
叙述の構造の話はこれで終わり,細部を検討してみましょう。 冒頭はこうなっています。「ここに天照大御神,高木神の命もちて,太子(ひつぎのみこ)正哉吾勝勝速日天忍穂耳命に詔りたまひしく」。 「太子」は,いわゆる世継ぎです。正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は天照大御神の子ですが,高木神の子ではありません。なんの血のつながりもありません。古事記ライターは,そうした矛盾に気づかないのでしょうか。この時点では,孫さえ生まれていないのですから,高木神は,天孫の外戚でもありません。 そんなことよりも,「太子(ひつぎのみこ)」という文言自体が極めて問題です。「太子」は,聖徳太子という場合の「太子」です。神代(かみよ)の話,すなわち神々の時代の話に,突然,神武天皇以降の皇太子の呼び名,「太子」が使用されているのです。たとえば日本書紀の神武天皇即位前紀には,「年十五にして,立ちて太子と為りたまふ」とあります。安寧天皇即位前紀には,安寧天皇は「神渟名川耳天皇(かんぬなかはみみのすめらみこと,綏靖天皇)の太子なり」とあります。開化紀ころからは,「皇太子」という文言が「太子」に代わるようです。 学者もこれには気づいたようで,一般には「ひつぎのみこ」と読まれているが,この文言の確実な例は平安末期以降で,後世の造語らしいと述べています。 だからこそ最近の学者は,「ひつぎのみこ」とは読みません。「太」は「大」であり共に「オホ」と読むという理由で,「オホミコ」と読むべきであるといいます。 大王を「オホキミ」と読むのはわかります。しかし「オホミコ」とは初耳です。日本書紀や古事記の他の部分で,こんな読み方をする箇所があったでしょうか。単なる辻褄合わせ,袋小路に入り込んだどん詰まりの解釈ではないでしょうか。
ここに至るまで,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は何度も引用されています。葦原中国を支配すべき者として,「我が御子」などと呼ばれています。しかし,そのいずれにも,「太子」という肩書きはありませんでした。 天孫降臨の準備段階に至って,なぜ突然「太子」などと呼び始めるのでしょうか。「太子」と決まっていたならば,初めから「太子」と呼べばいいじゃありませんか。 古事記ライターの悪癖は,皆さんご承知のとおりです。 事代主神の呼び名は,国譲りという名の侵略の場面だけでも,八重言代主神 → 八重事代主神 → 事代主神 → 八重事代主神と,転々としました。大国主神が,国をどうするか我が子に回答させようとする場面では,「八重言代主神」。「八重」という修辞で,いかにも神の言葉は何でも伝えるぞという雰囲気を作り,「事」を「言」にして,神の言葉を告げるようなそぶりを見せました。しかし場面が変われば,あっさりと表記を変えてしまうのです。八重事代主神に戻ったかと思うと,事代主神になったりもします。これに惑わされた学者が,事代主神は神の託宣を伝える神だと,もっともらしく主張したのです。
私たちは,こうした出来の悪いライター精神を理解し,一貫性のない叙述を心がけている古事記ライターの心情に寄り添うようにして,古事記を理解しなければならないのです。 そこで,もう一度問題提起をします。古事記ライターは,なぜ天孫降臨の準備段階の場面に至って初めて,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に「太子(ひつぎのみこ)」という肩書きを与えたのでしょうか。 それまで天照大御神は,「我が御子」「我が御子」と呼んでいます。それに代わる呼び名が「太子」なのです。古事記ライターは,天孫降臨という場面を描き始めて,これは後世言う「太子」なのだと考えました。いや,考えたのではなく,直感的に感じました。だから「太子」という肩書きを,つい,書いてしまいました。 これに対するアンチテーゼが,古事記が強調する「言依さし」の原理でした。天皇の権力の根拠は天命ではありません。天は高天原ですが,(古事記冒頭),そこにはすでに,無前提の前提として,高御産巣日神ら3神がいました。その高御産巣日神が,天照大御神と共に葦原中国を支配するのです。高御産巣日神は天命思想の「天」の原理を体現し,天照大御神は,天皇の祖先としての「血」の原理を体現しているのです。「言依さし」の原理は,こうした2つの原理が統合したものなのです。 ここにはもはや,革命はありません。 古事記ライターは,こうした理解のうえで,古事記を書いています。天孫降臨の場面の間近になって,天照大御神の天子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命こそが世継ぎであり,支配者であるということを明示したかったのでしょう。それが,突如出現する「太子」なのです。その際,高木神とはなんの血のつながりもないじゃないかということは,どうでもよかったのです。「天」の原理が必要とされただけなのですから。
さて,重箱の隅をつつくようですが,世代の問題を述べておきましょう。 世代が合いませんね。 日本書紀を見ましょう。第8段本文は,大己貴神(古事記における大国主神)は第2世代だとしています。素戔鳴尊の子なのです。第1の一書は素戔鳴尊の子の「五世の孫」が「大国主神」だとしています。「大国主神」は第6世代となります。第2の一書は素戔鳴尊の「六世の孫」が「大己貴命」だとしています。 やはり混乱があったのです。日本書紀本文は,世代が合うように,大己貴命を第2世代だとしました。これはやはり見識と言うべきでしょう。 世代が合わないまま,なんの配慮もしなかったのが古事記だということになります。
古事記は,日本書紀の異伝を採用したということになります。 そして古事記は,速須佐之男命から大国主神に至る系譜を,完璧に叙述しています。生まれた子と母親の神名を,完璧に記しています。日本書紀の異伝では,単に六世の孫というだけで,その間の神名はまったくわかりません。 古事記の方が詳細だから信用できるのでしょうか。 通説によれば,日本書紀は古事記の8年後に成立しているのです。その日本書紀は,なぜ古事記が羅列する神名を羅列していないのでしょうか。古事記を見はしたが,信用しなかったのでしょうか。それとも,古事記を見ていないのでしょうか。 日本書紀は官撰の史書です。当代一流の官僚が編纂した書物です。知を独占していた者が信用しなかったのであれば,それが正しいのでしょう。また,知を独占していた者が知らなかった書物は,たとえ存在していたとしても,たいしたことのない書物なのでしょう。
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