第33 どこに降臨したのか |
意外にも北九州説が有力である さて,天孫が生まれて天子に交替し,道案内役の猿田毘古神が登場し,天照大御神ゆかりのオールスターキャストが揃い,三種の神宝も調いました。これらすべてに古事記独特の問題があったことは,すでに述べました。いよいよ天孫降臨です。どこに降臨したのでしょうか。 @ 「天の石位(いわくら)を離れ,天の八重たな雲を押し分けて,稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて),天の浮橋にうきじまり,そり立たして,筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に天降った。 「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」がどこにあるかが問題です。 天孫降臨の地は韓国すなわち朝鮮半島に向かい,対面した地だというのです。糸島半島説などの北九州説がこれです。その背景には,朝鮮半島の住民が九州を経て日本列島に広まった古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという思い入れがあります(日本の中の朝鮮・金達寿・72頁以下・講談社学術文庫)。 また北九州説に肩入れするあまり,日本書紀の叙述を改変してしまう学説さえあります。日本書紀にいう膂宍(そしし)の「空国(むなくに)」の実体は「韓国(からくに)」であり,朝鮮蔑視観によってわざと「空(から)」の国,すなわち「空国」と書き,痩せた不毛の地を意味する「膂宍」を付け加えたのだとするのです。この説は,宮崎県や鹿児島県では「韓国に向」かう地域とはなり得ないので,「本来の高千穂峰の原伝承は,韓国に向かう北九州の地域であったとみるべきではないか」と主張します(上田正昭・日本の神話を考える・小学館・158頁)。ここまでくると,文献の改変というほかありません。議論は,ねじれたうえにねじれて,あらぬ方向に行ってしまいます。 彼らの思い入れに茶々を入れるつもりはないのですが,文献の読み方としては,やはり間違いだと言わざるを得ません。 学者さんたちの議論には,宮崎県の高千穂町説,鹿児島県の霧島山説,大分県の祖母山説など,諸説があります。糸島半島説などの北九州説の人は,「日向」を日向国とは読まず,単に日に向かう場所とし,北九州にそうした地名を求めるようです。いずれにせよ,古事記しか読まない人たちに北九州説が多いようです。 @こそが客観的地理的記述なのであり,これは,日本書紀本文や異伝である一書と一致しています。それどころか,風土記逸文もこれです。Aは,その感想ないし主観的評価にすぎません。これをきちんと把握することが大切です。
例によって,日本書紀がどうなっているかを検討してみましょう。第9段本文はこうなっています。 「日向の襲の高千穂峯」に天下る。そこから「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)」に至る。その地に1人の人がいた。事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)といった。 古事記は,いわゆる国まぎの部分を,天孫が荒野をうろつくことなどあり得ないという理由で無視していますが,降臨後,最終的には「吾田の長屋の笠沙碕」に至ったことは間違いありません。その場所は,鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近といわれています。長屋という地名は,加世田市と川辺郡との境にある長屋山に,その名を留めています。この近くの岬といえば,川辺郡西端にある野間岬ということになります。
そこから叙述をさかのぼって考えてみましょう。 天津彦彦火瓊瓊杵尊は,「膂宍の空国(そししのむなくに)」を,「頓丘(ひたお)から国覓ぎ(まぎ)行去りて(とおりて)」,すなわち丘続きの所(頓丘)を国を求め歩いて,「吾田の長屋の笠沙碕」にやって来ました。そこで初めて「事勝国勝長狭」という1人の人に会ったのです。
「膂宍の空国(そししのむなくに)」とは何でしょうか。 解釈が難しい文言ですが,じつは,日本書紀自身が説明してくれています。仲哀天皇は,熊襲(くまそ)を討とうと考えます。しかし神は,神功皇后に神懸かりして言います。「天皇,何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是,膂宍の空国ぞ。豈,兵を挙げて伐つに足らむや」。そして,熊襲よりも,宝の国新羅を討つべしと言うのです(仲哀天皇8年9月)。 ここで「熊襲」の地は,「膂宍の空国」,すなわち痩せて荒れ果てた,征服する価値のない国とされています。 北九州説のなかに,空国を「からくに」と読み,韓国(からくに)すなわち朝鮮に引っかけているという学説があります。きちんと日本書紀を読んでいないことが明らかです。 「熊襲」の地は「膂宍の空国」であり,「鹿の角」のように「無実(うつけ)たる国」だったのです。天孫は,「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)」に降ったのでした。その地は,「熊襲」の「襲」の地であり,「膂宍の空国」,すなわち「鹿の角」のように「無実(うつけ)たる国」でした。
「日向の襲の高千穂峯」に降臨した天孫は,「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋より,浮渚在平処(うきじまりたいら)に立」ちました。そして,膂宍の空国を放浪したのでした。 天孫は,日向国の「襲の高千穂峯」すなわち宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂峰に天降り,「膂宍の空国」すなわち熊襲の地,肥後の球磨と大隅の贈於を国を求めてさまよい歩き,「吾田の長屋の笠沙碕」すなわち鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近にある野間岬まで行き,そこでやっと,事勝国勝長狭に出会ったことになります。
よけいなお勉強をせずに,まず原文自体にあたるというのが,私の方法論でした。この本のコンセプトでした。物事はシンプルに考えるべきであり,シンプルな議論が真実を語っているはずです。 @ 山背の国風土記逸文(437頁)・「日向の曽(そ)の峰に天降り坐しし神」 要するに,「日向」は日に向かう場所ではなく「日向国」です。その「贈於の郡」には「韓」の国から渡来した人がつくる「クシ生」の村があり,その近くに「クシ生の峰」があり,天孫はそこに天降りました。それは,「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)」ともいいます。そこから,薩摩国にある「閼駝(あた)の郡の竹屋の村」まで移動しました。これは,「吾田(あた)の長屋の笠沙碕(かささのみさき)」に至ったという日本書紀本文の叙述と,きれいに整合します。「長屋」は,竹が多い場所であり,「竹屋」ともいいます。「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋より,浮渚在平処(うきじまりたいら)に立たして」という点も,「クシ生(くしぶ)の村」の近くにある「高茅穂のクシ生(くしぶ)の峰」という地名で裏付けられています。 風土記逸文は,日本書紀第9段本文の叙述を,完璧に裏付けています。それどころか,「韓」すなわち韓の国との関係まで明らかになるという,おまけまでつきました。決して,朝鮮を無視しているわけではないのです。 日本書紀の記述が広まり,こうした叙述が風土記に残されたのでしょうか。風土記は,713年の詔により撰上されました。撰上の時期が問題ですが,日本書紀が成ったのは720年。ほぼ同時代の書物が一致しているのです。
さて,日本書紀の異伝である一書はどうなっているかという問題が残っています。 第9段本文・「日向の襲の高千穂峯」に天下る。そこから「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍の空国を頓丘から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕」に至る。その地に1人の人がいた。事勝国勝長狭といった。 本文と第4の一書は,ほとんど同じです。高千穂の峯に降りたってクシ日の二上というところにある天浮橋に行ったのか(本文),高千穂という地域内にあるクシ日の二上峯に降りたってそこにある天浮橋に行ったのか(第4の一書),という違いにすぎません。 第1の一書は情報量が少ないです。しかし高千穂という地域にある「クジ触峯」という山に降り立ったという意味でしょう。この異伝は,猿田彦大神などの叙述に気が向いており,降臨の地には冷淡です。とにかく,高千穂という地域内にある山に降ったことに変わりはありません。 第2の一書は,高千穂に「クシ日」という形容詞がついています。これは,本文の「二上(ふたがみ)の天浮橋」や第4の一書の「二上峯(ふたがみのたけ)」についている形容詞「クシ日」と同じです。これは,奇霊(くしひ)であり,今で言えば霊験あらたかなというほどの意味でしょう。ですから,叙述の大筋の意味には無関係です。 いずれにせよ,降臨の地が「高千穂峯」である点において,本文と同じです。 第6の一書は,日向にある襲という地域の高千穂という地域にある「添山峯」に降ったと述べている。これも,高千穂という地域にある山に降ったという点では,本文と同じです。ただ,吾田で事勝国勝長狭に会ったのが「長屋の竹嶋」であるという点が詳しいのです。
結局,「日向の襲の高千穂」にある山に降り,そこから天浮橋を使ったか否かは別として,とにかく「膂宍の空国」または「膂宍の胸副国」を,国を求めてさまよい歩き,「吾田の長屋の笠狭碕」に至って事勝国勝長狭に出会った,というのが最大公約数となります。 本文の「高千穂峯」を,そうした固有名詞をもった山と解するのではなく「高千穂にある峯」と解すれば,本文の叙述に一致することになります。 日本書紀の異伝である一書は,本文に一致しています。天孫降臨の地としては,日本書紀本文で事足りることになります。もう少し補足するならば,「筑紫の日向の襲の高千穂にある山」ということになるでしょう。
さて,問題は古事記でした。もう一度引用しましょう。 @ 「天の石位(いわくら)を離れ,天の八重たな雲を押し分けて,稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて),天の浮橋にうきじまり,そり立たして,筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に天降った。 @こそが,客観的地理的地点を示す叙述でした。「天の浮橋にうきじまり,そり立たして」という点が,いの一番に出てきます。日本書紀本文では,高千穂峯に降ったあとの叙述でした。古事記は,天浮橋を,天上界と天の下をつなぐ橋だと考えているようです。そう考えれば納得できます。 ですから,天孫降臨の地に関する古事記の客観的な叙述も,「筑紫の日向の襲の高千穂にある山」とする日本書紀と同一なのです。
ところが古事記には,Aの部分がくっついています。その,「此地は韓国(からくに)に向ひ」という部分が,混乱をもたらす元凶となりました。 朝鮮半島にいた人々が九州等を経て日本列島に広まった,その古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという点には,私は反論しません。むしろ,後に日向神話を検討するときに述べるとおり,同意するくらいです。そんなものだろうと思っています。 当時は,日本の国も朝鮮の国もない時代です。国境も税関もパスポートも何もありません。朝鮮から出雲を経て越の国までの交易圏と,朝鮮と筑紫の交易圏とがありました。当時は外海に出られる立派な船がありません。ですから,できるだけ沿岸沿いに,1昼夜で航海をしていました。そのために港(水門)が発達し,そこに拠点を作りました。港を中心に栄えた町です。それを国と呼んでいました。都市国家のようなものでしょう。正確に言えば村落国家かもしれません。とにかく,交易のために朝鮮からやってきた人々がこうした拠点に永住し,あるいは自ら拠点を作って子孫を残しても,何の不思議もありません。むしろ自然でしょう。面を支配する統一国家などありませんから,その交易圏の中を,人々は自由に往来していました。 ここではいちいち列挙しませんが,その根拠は日本書紀を読むだけでもいっぱい見つかります。風土記にもいっぱいあります。ところが古事記だけは,そうした痕跡をきれいに払拭しようとしています。そこが古事記のいけ好かないところです。 朝鮮からやって来た古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという点はわかります。むしろ,そうした歴史観をもつことこそが,日本と朝鮮のゆがんだ歴史を見直す根本的な視点であるとさえ思います。なぜ朝鮮侵略や朝鮮差別があったのか,日本に文化をもたらした国を蔑視するゆがんだ歴史が,なぜあり得たのか。歴史を学ぶということは,ゆがんだ歴史を作り出した近視眼的な観念を正し,原点に戻った新たな視点を学ぶことだと考えます。
しかし,糸島半島説等の北九州説は,叙述の読み取り方としてはやはり誤りなのです。 しかも,「笠沙の御前」すなわち「笠狭碕」が出てくるではありませんか。古事記は,「吾田の長屋の」という部分を注意深く消していますが,天孫は結局,「笠沙の御前に麗しき美人」すなわち神阿多都比賣(木花の佐久夜毘賣)に出会うのです。そこから,日本書紀と同様の日向神話が始まります。「阿多」の「笠沙の御前」で,美人の姫に出会うのです。ですから,「吾田の長屋の笠狭碕」に至ったという日本書紀第9段本文と,何ら違うところはありません。 Aの部分にある客観的な記述からも,以上の結果になるのです。 残った記述はこれだけです。「此地は韓国に向ひ」という点は,海を隔てて韓国に向かう必要はありません。離れているところからでも,韓国に向かうことはできます。 吾田のような西海岸には「朝日の直刺す國」はあり得ないという人がいるかもしれません。 北九州説は,主観的評価の叙述にある「韓国に向ひ」という文字だけに惹かれた学説にすぎません。文献の解釈としては,いかにも筋の悪い解釈です。日本書紀と古事記の神話全体をきちんと読まないと,こうなります。
天孫は,古事記においても,「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に降臨後「阿多(日本書紀では「吾田」)」に来ています。 ところが古事記ライターは,ずるがしこい。 古事記は,降臨後「膂宍の空国」を国を求めてさまよったという叙述を,まったく消しています。「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に降りたって,「ここに詔りたまひしく」として,「此地は韓国(からくに)に向ひ」と続くのです。ですから,ここだけを読むと,降った山自体が,韓国に向かった良き地だということになります。そのくせ,前述したとおり,いきなり「笠沙の御前」という地名が出てきたり,いつの間にか吾田の地にいることになって,神阿多都比賣と出会ったりするのです。 なぜでしょうか。 私は,古事記ライターが,南九州のど田舎に天降って,何もない荒野を国を求めてさまよったという日本書紀の叙述を消そうとしたのだと考えます。栄えある天孫降臨ですから,そんなことはあってはならないのです。しかし,結局たどり着いた笠沙の御前や阿多などの地名を消すことはできませんでした。 ここにもまた,古事記ライターの悪意のリライトの痕跡があるのです。それにまんまと乗っかってしまったのが,北九州説です。
ところが,さらに日本書紀の解釈まで変更しようとする学説があります。 古事記には,日本書紀にいう膂宍の「空国(むなくに)」の実体は「韓国(からくに)」であり,朝鮮蔑視観によってわざと「空(から)」の国,すなわち「空国」と書き,痩せた不毛の地を意味する「膂宍」を付け加えたのだとするのです。この説は,宮崎県や鹿児島県では「韓国に向」かう地域とはなり得ないので,「本来の高千穂峰の原伝承は,韓国に向かう北九州の地域であったとみるべきではないか」と主張しています(上田正昭・日本の神話を考える・小学館・158頁)。 これが,日本書紀の叙述と文言をまったく無視していることは,すでに述べました。
そもそも,朝鮮半島に「韓国(からくに)」があったのでしょうか。 神功皇后摂政50年5月には,「海の西の諸(もろもろ)の韓(からくに)を」という表現があります。ここでは,朝鮮半島にあるいろいろな町や村,誤解を恐れずに言えば,土豪の支配する村落共同体1つ1つを,韓(から)と呼んでいるのです。ここで「からくに」という訓がついてはいます。しかし当時は,土豪の支配する一定地域のまとまった共同体が国でした。それは,朝鮮半島に多数ありました。だからこそ,「諸の」とあるのです。多数の「韓」があるのであり,「韓国」という1つの国があったのではありません。 また神功皇后摂政前紀には,新羅を征服したらその勢いで高麗(高句麗のこと)と百済まで服従してきたとして,「是(これ)所謂(いわゆる)三韓(みつのからくに)なり」という叙述があります。「三韓」は,正確に言えば「みつのから」です。そのほうが誤解を招きません。それはいいとして,とにかくこれら3国をひっくるめて「三韓」と呼んでいるのです。韓国(からくに)というとらえ方ではありません。「韓」は,朝鮮半島全体の表示ではなく,朝鮮半島にあるひとつひとつの村落共同体をいうのです。その大きなまとまりとして,「三韓」という表現も出てきたのでしょう。とにかく,朝鮮半島全体を包括する「韓国(からくに)」という概念はありません。 応神天皇7年には,倭にやって来た朝鮮半島の人々が羅列されています。それは,高麗人,百済人,任那人,新羅人でした。日本書紀は,これらを「諸(もろもろ)の韓人(からびと)」と記述しています。「韓」は,やはり朝鮮半島の各地を指しています。朝鮮半島全体の1つのまとまりとしての「韓人」ではありません。 応神天皇9年も同様です。忠臣として称えられた武内宿禰(たけしうちのすくね)は,その弟により,「筑紫を裂きて,三韓を招きて」天の下を奪おうとしているとの讒言にあいます。大和を中心とした政治権力にとって,筑紫は,場合によっては朝鮮につくかもしれないくらいの地域でした。ここから,北九州が今でいう日本の一部だったのか朝鮮の一部だったのかわからなかったという情勢が見て取れます。それはいいのですが,とにかくここでも,「三韓(みつのからくに)」であり,「韓国(からくに)」とは表記していません。 顕宗天皇3年4月もまた,紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)が「三韓に王(きみ)たらむ」として,自ら神聖(かみ)と名乗ったという話を載せています。 仁徳天皇即位前紀には,「韓国」の用例があります。しかし,全体としては,韓国というよりも三韓という用語を使っていました。
こうした説の背景となっているのが,第6の一書の「日向の襲の高千穂の添山峯」です。「添山峯(そほりのやまのたけ)」の「そほり」は,新羅の王都であるというのです。 しかし日本書紀編纂者は,第6の一書を本文に採用しませんでした。 仮に「添山峯(そほりのやまのたけ)」という部分がソウルを意味するとしても,もともと朝鮮半島からやって来た渡来人が今の九州全体に跋扈していたのですから,おかしくも何ともありません。南九州説には矛盾しないのです。 私は,天照大神は吾田にいた海洋神であり,高皇産霊尊は朝鮮から渡ってきた神であると考えています。 ですから,南九州に朝鮮にちなんだ名前の山があっても,何の不思議もありません。北九州であるべき積極的理由にはなりません。
北九州の糸島半島にある平原古墳では,八咫鏡といわれる大鏡が出土しており,これについて森浩一は,八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され,他の同類は破砕されたが,一面だけが近畿地方にもたらされて八咫鏡とされたと述べています(森浩一・日本神話の考古学81頁・朝日新聞社)。 確かにそうなのでしょう。しかし,渡来人の上陸地と天孫降臨の地をオーバーラップさせようとするから,議論が混乱するのです。 結局吾田に住み着いたことは確かです。北九州では,あまりにも遠すぎます。
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