第35 国譲りという名の侵略は虚構である

 

天の下を支配していた大己貴神の故郷出雲が狙われたのだ

 さてここで,主に日本書紀の叙述にしたがって,国譲りという名の侵略と天孫降臨を考え直してみましょう。

 なぜ出雲が最初に狙われたのでしょうか。それはやはり,当時ここが葦原中国の中心だったからです。当時というのがいつのことかは不明です。とにかく,日本書紀のお話のうえでは,179万2470年後に神武天皇が「東征」を始める前です(神武天皇即位前紀)。

 中国や朝鮮の文化が渡来人と共にやってきて伝播していったルートには,2つあります。1つは,北九州に上陸して瀬戸内海を通っていくルート。これは百済ルートといわれています。もう1つは,直接出雲あたりに上陸して,若狭,北陸,新潟方面まで沿岸沿いに進むルートです。これは新羅ルートといわれています。たとえば,同じく仏教の伝播といっても,新羅仏教か百済仏教かという違いがあります(朝鮮と古代日本文化・司馬遼太郎,上田正昭,金達寿編・162頁以下・中央公論社)。
 出雲国は,新羅文化が直接入ってくる要衝の地でした。すでに検討したとおり,素戔鳴尊は,新羅からやって来た外来の神でした。これに対し大和は,百済ルートの終点に位置します。
 出雲と大和の関係には,こうした背景があるのでしょう。

 前述したとおり,大己貴神は,天の下すなわち葦原中国を平定して出雲に戻ってきました。そして,これから住むところ,すなわち天の下支配の政治を行うところとして大和の三輪山を定め,そこに宮を立てました。それは,天の下を支配した大己貴神をいつき祭る氏族が,大和の地にいたということを示します。
 この大己貴神を平伏させるのが,日本書紀の神話に描かれた国譲りという名の侵略です。大和に本拠地を置こうとする氏族は,大己貴神との対決を避けて通ることができません。それは,目の前の三輪山にいる大己貴神であり,本拠地出雲にいる大己貴神でした。


実際には大和にいる大己貴神と血縁関係を深めたにすぎない

 しかし,国譲りという名の侵略など,しょせん創作話です。出雲を平伏させた歴史的記憶がこうしたお話しとして残ったなどという学者さんたちは,日本書紀を読んでいません。

 大己貴神は,大和の三輪山にいました(第8段第6の一書)。神武天皇は,実際には,大己貴神の系譜に絡んでいったにすぎません。

 神武天皇は,事代主神の娘姫蹈鞴五十鈴姫命を「正妃」とします(神武天皇即位前紀庚申8月)。神武天皇が吾田にいたときの妻は,「日向国の吾田邑の吾平津媛」でした。この姫ががどうなったのか,日本書紀の叙述上まったくわかりません。行方不明になってしまいます。それどころか,吾田の吾平津媛(あひらつひめ)との間の子,手研耳命(たぎしみみのみこと)は,神渟名川耳尊(綏靖天皇)によって暗殺されます(これは暗殺であり叛乱ではありません)。一方,神武天皇には彦五瀬命,稲飯命,三毛入野命の,吾田における3人の兄がいましたが,いずれも戦死したことになっています。

 ですから,神武天皇の系図上,吾田関係の血筋は見事に途絶えることになっているのです。吾田は忘れ去られました。いや,もしかして,忘れ去りたい出自だったのかもしれません。残ったのは,出雲の神事代主神の娘との系譜だけです。

 日本書紀は,こっそりと秘密を語っています。


神武天皇以下の血筋は出雲との血縁を述べている

 それが証拠に,神武天皇以下の天皇は,事代主神の血をひいた姫を娶っています。

 神武天皇は,大和を支配してから,早速正妃を迎えます。それが,事代主神の娘姫蹈鞴五十鈴姫命でした。
 その姫蹈鞴五十鈴姫命は,神八井耳命と神渟名川耳尊を生みます。神渟名川耳尊は綏靖天皇になります。これは事代主神の孫ということになります。
 その綏靖天皇は,姫蹈鞴五十鈴姫命の妹五十鈴依媛を皇后とします。事代主神の孫が事代主神の子(母姫蹈鞴五十鈴姫命の妹,すなわち叔母)を妻としたのです。こうして,事代主神の血が濃くなります。
 五十鈴依媛は,安寧天皇を生みます。その安寧天皇は,事代主神の孫,鴨王の娘渟名底仲媛命を皇后とします。
 その渟名底仲媛命は懿徳天皇を生みます。懿徳天皇は,天豊津媛命を皇后とします。これは,安寧天皇と渟名底仲媛命との子息石耳命の娘です。やはり事代主神の血をひいていることになります。

 このように,神武天皇以下懿徳天皇までは,すべて事代主神の血をひいた女を皇后にしているのです。出雲国を現実に武力侵略し支配したのであれば,こんなことをする理由はありません。大己貴神は大和の三輪山にいました。その周辺には,大己貴神をいつき祭る有力な氏族がいました。だからこそ,その氏族と血縁関係を深めることによって,支配者たり得たのです。


事代主神は神功皇后をも助ける神であり決して敵ではない

 この事代主神は,神功皇后を助けた神であり,決して敵ではありません。

 神功皇后は,仲哀天皇が神の意思に逆らって死んだ後,その神の名を知ろうとします。そこに現れたのが事代主神でした(神功皇后摂政前紀)。
 神功皇后は反逆の女帝です。夫仲哀天皇が死んだとき,応神天皇は胎児にすぎませんでした。ですから,本来ならば,そこで皇位継承問題が生ずるはずです。ところが神功皇后は,仲哀天皇が死んだことを隠し,殯を秘密に行い,皇位継承問題を無視し,新羅征討を行って勢いをつけ,大和に凱旋しようとしました(もちろん叙述上のことであり,歴史的事実とは別問題です)。新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生みます。そして大和に凱旋しようとします。しかし大和にいた仲哀天皇の妃(みめ)との間の子,カゴ坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は,仲哀天皇が筑紫で死亡したことを聞き,これを阻止しようとします。当然でしょう。こうして,皇后の子と妃の子との間で,皇位継承を巡る争いが始まります。

 難波を目指した神功皇后の船は,先に進めなくなります。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占いました。天照大神は,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言います。稚日女尊は,活田長峡国(いくたのながおのくに)に居たいと言います。事代主神は,長田国(ながたのくに)に祭れと言います。表筒男,中筒男,底筒男の住吉3神は,わが和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居らしむべしと言います。これら諸神の言うがままに祭ったところ,神功皇后は平安に海を渡ることができました(神功皇后摂政元年2月)。進軍できたのです。

 事代主神は,皇祖神とされる天照大神,稚日女尊,住吉3神と共に現れ,神功皇后を助けたのです。祭る場所を指定したのは,それが軍事上の要衝だったのでしょう。

 事代主神は,決して天皇の敵ではありません。ここでは,皇祖神天照大神と共に皇統を庇護する神として叙述されているのです。


国譲りに過去の記憶をみてはならない

 国譲りという名の侵略に,過去の歴史的記憶をみるのがいかに愚かなことか。日本書紀の叙述からわかります。実際にあったのは,大己貴神をいつき祭り大和を支配する氏族と,血縁関係を結んだということだけでした。
 出雲に対する武力侵略はありませんでした。国譲りという名の侵略は,三輪山の大己貴神に対する精神的抵抗の所産です。

 それが証拠に,出雲に天孫降臨できなかったじゃありませんか。高皇産霊尊は,可愛い皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて,「葦原中国の主(きみ)」にする決断を下しました。天孫降臨はそのために行われるのです。実際に出雲に派遣された経津主神と武甕槌神は,大己貴神に対し,「高皇産霊尊,皇孫を降しまつりて,此の地に君臨はむとす(きみとしたまはむとす)」と述べ(第9段本文),自分たちがやってきた理由を述べています。大己貴神に対し,皇孫がここに降臨するつもりであるとはっきりと言い切っているのです。

 そればかりでなく,葦原中国の中心地出雲を平定したのなら,ここに降臨するのが当然であり筋です。敵の本拠地を叩いてそこを拠点にするのが筋です。派遣された兵が武力で平定したところに,そのボスが行幸するのが常識です。第9段の一書や古事記は,五部神ないし五伴緒を伴った天孫降臨だの,天壌無窮の神勅だのと,賑々しくも華麗で荘重な天孫降臨を描いています。そうした勇ましい天孫が,なぜ武力で平定した出雲に降らないのか。なぜ五部神や五伴緒を伴って出雲を堂々と凱旋行進しないのか。

 本当にあったお話ならば,それを高らかに叙述すればいいじゃないですか。それができていない。たとえば神武「東征」の「東征」ともいうべき戦いの記録は,どこにもありません。難波,大和侵入後の戦いはありますが,南九州の吾田を出発してから瀬戸内海を通って難波に来るまで,戦いの叙述はひとつだったありません。ですから,「東征」とは言えません。これと同じです。

 日本書紀編纂者を始めとして,幾多の伝承を残した者たちは,戦いの叙述を残すことができませんでした。そんな叙述をすると,ありもしないことが書いてあるということになって,文句を言う人が出てきます。伝承が信用されなくなってしまうのです。神代の世界の話でも,書いてはならないことと書いてもよいことがあったはずです。少なくとも,日本書紀や古事記編纂時の人々の常識に照らして,書いてはいけなかったことなのです。

 戦いの叙述ができなかったということは,出雲を武力で平定した事実がなかったからなのです。


天孫降臨後の叙述も出雲侵略の事実がなかったことを示している

 南九州に降臨した天孫は,何もない荒野(いわゆる「膂宍の空国」)をさまよった末,吾田地方にたどり着き,そこで事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)という1人の人に出会います。他に人は出てきません。街も宮も出てきません。その地で,突然,何の理由もなく国を献上されます。鹿葦津姫(かしつひめ)という美人を孕ませ,子供を3人作って死にます。

 驚くべきことに,天孫が行ったことは,たったこれだけなのです。ただ,古事記だけは,降臨した地に立派な宮を作ったと述べていますが。

 3人の子供のうち2人が,いわゆる海幸彦山幸彦です。そこで海神の宮訪問のエピソードなどが挟み込まれます。こうして,神代の物語は幕を閉じます。
 結局,神代の時代には,葦原中国の支配は実現されませんでした。日本書紀第9段第1の一書の,天壌無窮の神勅など,結局果たされていないのです。


天孫降臨は神武天皇ともまったく関係ない

 場面は転じて179万2470年後の吾田。神武天皇はここにいます(神武天皇即位前紀)。神武天皇は東征して,大和を征服しますが,それは,天孫降臨後179万2470年後のことでした。
 天孫降臨と神武東征との間には,もはや相当因果関係がありません。社会通念上の因果関係がないのです。風が吹けば桶屋が儲かるという意味での,事実的因果関係すらありません。こんな難しいことを言わなくても,誰だってわかります。天孫降臨と神武東征とは,もはやまったく関係のない出来事なのです。ですから,やはり天壌無窮の神勅は果たされていません。

 その点はおいておきましょう。東征した神武天皇ですが,結局,天の下全部を支配することはできませんでした。大己貴神のように,出雲から大和,越まで支配することはできませんでした。支配した範囲は,大和のうちでもごくごく一部でしかありません。丘に登って国見をして,本当に狭い国だが美しい国だと言って感動したという程度にすぎません(神武天皇31年4月)。支配領域は,大和のうちでもごくごく狭い一部でしかなかったのです。

 やはり,天壌無窮の神勅は果たされていません。いったい,いつ果たされるのでしょうか。200万年後でしょうか。300万年後でしょうか。
 出雲侵略が本当にあったのならば,なぜこんなことになるのでしょうか。私は,失笑してしまいます。

 日本書紀編纂者が意地悪くもちょちょっと入れた,「179万2470年」。要するに,神武天皇以下の天皇の系譜は,天孫降臨とは関係がないし,国譲りという名の侵略とも関係がないのです。日本書紀編纂者は,しょせんお伽噺であることがわかっているのです。
 古事記ライターは別ですが。

 ですから,戦前の神話教育を非難する人は,古事記を非難してください。日本書紀は非難しないでください。


出雲国は長期間支配されなかった

 出雲国さえ支配できなかったことは,前述した神武天皇31年4月の叙述以外にも,たくさんあります。

 神武天皇の後,いわゆる欠史8代を経て,崇神天皇の時代になります。その崇神天皇は,各地にいわゆる四道将軍を派遣しました(崇神天皇9年9月)。大彦命を北陸に,武渟川別を東海に,吉備津彦を西道に,丹波道主命を丹波に派遣したのです。
 この時期には,吉備さえも平定されていなかったのです。出雲に関しては,言わずもがなでしょう。

 次に,崇神天皇60年7月を取り上げなければなりません。有名な部分ですが,ここにはいろいろな問題が詰まっていて,それを読み解いていくのは,かなり面白い。以下,検討してみましょう。


崇神天皇60年7月・天から持ってきたという出雲の神宝を見たい

 崇神天皇は,群臣に詔(みことのり)します(天皇がしゃべる言葉はすべて詔です)。出雲の臣の祖神である「武日照命(たけひなてるのみこと)」が「天(あめ)より将ち(もち)来れる神宝を,出雲大神の宮に蔵む(おさむ)」。これを見たい。

 まず,出雲の臣の祖神を武日照「命(みこと)」としている点がすごい。
日本書紀第1段本文には,至貴を「尊(そん)」といい,自余(その余)を「命(めい)」という,以下皆これに倣え(ならえ),などという,日本書紀編纂者の命令がありました。「命」は「尊」に次ぐ尊称です。「尊」以上の尊称は,「神」と「大神」です。

 そうした,日本書紀編纂者も一目置く「命」が,「天(あめ)より将ち(もち)来れる神宝を,出雲の大神の宮に蔵む(おさむ)」というのです。我こそが天より降り至った氏族でありそんなものは嘘だと否定するのではなく,天降ったことを認めたうえで,その宝を見たいという感覚です。


崇神天皇60年7月・天から持ってきた神宝はいたるところにあった

 天から持ってきた神宝は,いわゆる三種の神宝をキャッチフレーズにする天皇家だけのものではなかったのです。それが,崇神天皇の時代にも出雲の大神を祭る神社にあり,人々が尊崇していたので,その事実を否定できなかったのです。だからそれを見たいと考えたのです。

 じつは,神武天皇に先だって河内に天下り支配したという伝説をもつ饒速日命(にぎはやひのみこと)も,天からもってきた神宝を持っていました。神武天皇自らがそれを認めています。「天羽羽矢(あまのははや)」と「歩靫(かちゆき)」がそれです(神武即位前紀戊午12月)。これもまた,1つの王統の証明でした。

 時代は下りますが,允恭天皇の時代に氏姓の秩序を改めたという叙述があります。その原因は,群卿(まえつきみ),百寮(つかさつかさ),国造らが,皆それぞれ「或いは帝皇(みかど)の裔(みこはな),或いは異(あや)しくして天降れり」と主張したので,氏姓の秩序が混乱したという点にあります。
 当時の氏族らが,皆勝手に,天皇の子孫とか天から降ってきたとか主張していたのです。そこで盟神探湯(くがたち)をして氏姓を正したというのです(允恭天皇4年9月)。

 允恭天皇の時代でさえ,天降ってきたと主張する豪族がいました。このように,天から降ってきたと称して自ら王であると名乗る氏族は,決して天皇家だけではなかったのです。天から降ってきた証拠も,三種の神宝だけではありませんでした。
 私たちは,その中で支配者として生き残った者たちの伝説を読んでいるにすぎないのです。それを銘記しておかなければなりません。


崇神天皇60年7月・それを見たいという感覚の背景に氏族間の緊張関係がある

 崇神天皇は,その神宝を見たいというのです。

 この感覚は,男の子が宝物(たからもの)を見せ合う感覚に近いでしょう。大人から見ればしょうもないガラクタかもしれませんが,それを見せるとオオーッと言われる。場合によっては馬鹿にされるかもしれませんが。
 とにかく,自らの出自を証明するありがたい宝物があるということが,氏族の優越性の証明でした。それを見たいと要求しても,すんなりとは許してくれません。氏族間に,そうした緊張関係があったのです。

 崇神天皇60年7月には,崇神天皇とても簡単には見られなかった神宝が語られているのです。その前提となるのは,大和の政権と出雲が対等であり,それまでは服従,被服従という関係になかったという事実です。


崇神天皇60年7月・筑紫は大和朝廷ではなく出雲が支配していた

 さて,結局,出雲の神宝は大和の政権に奉られました。それは,神宝を司っていた出雲振根(いずものふるね)が,たまたま「筑紫国に往りて(まかりて)」留守にしていたからでした。弟の飯入根(いいいりね)が独断で奉ったのです。

 「筑紫より還り来き(もうき)」た出雲振根は,何を恐れてそんなにたやすく神宝を差し出してしまったのかと言って,腹を立てます。この恨みが原因で,結局,出雲振根は飯入根を殺しました。これを聞いた大和の政権は,内紛に乗じて,出雲振根を殺しました。こうして出雲は瓦解し,朝廷に服属しました。

 出雲振根は,ちょっと出かけてくるというような感じで「筑紫国」に行き,帰ってきます。軍事的遠征ではありません。前述したとおり出雲は,崇神天皇の時代に服従するまで,大和の政権と対等で独立した政治権力でした。その向こうの筑紫国には,自由に通行できたという叙述なのです。


崇神天皇60年7月・だから九州王朝説も怪しい

 ですから,筑紫国は,長い間出雲国の支配圏だったのです。

 こうなると,いわゆる九州王朝説も,怪しくなってきます。大和の政権とは別に九州独自の王朝があったという考え方がありますが,本当にそうでしょうか。
 むしろ,出雲国が「筑紫国」を支配していたのです。この「筑紫国」は,九州という島全体をいうのではなく,北九州の,後年「筑紫国」と呼ばれた地域を指すのでしょう。日本書紀編纂者は,当時どう呼ばれていたかには無頓着で,後年使われていた地名を平気で使用しますから。

 もちろん,出雲と筑紫が軍事同盟でも結んで,友好関係だったのかもしれません。でも,それは単なる推測です。何の根拠もありません。単なる可能性にすぎません。


崇神天皇60年7月・ここで出雲を支配し筑紫を確保できたからこそ任那朝貢の記事が出てくる

 出雲振根が出かけていた「筑紫国」が地図上のどの範囲であるかは,はっきりしません。
 日本書紀編纂者は,編纂当時の知識で「筑紫国」と叙述していることがありますし,ここでも,「筑紫国」と言っておきながら,その次の行では,「筑紫」と叙述しているからです。神代の巻第4段では「筑紫洲」とあります。地名については用語が一貫していないのです。

 それはともかく,ここで初めて出雲が平定されました。それは,出雲に従っていた筑紫の平定をも意味したはずです。
 じつは,第8段第4の一書で,素戔鳴尊が新羅国に天降ったという叙述が出ています。出雲は,その地理的位置からして,大和などよりはるか以前から,朝鮮半島と交易してきました。その経路は,直接新羅にいく方法と,筑紫から朝鮮半島に渡る方法とがありました。

 だからこそ崇神天皇65年7月は,任那の朝貢を叙述します。これは,日本書紀における対外関係記事の,最初のものです。

 出雲が平定され,それに伴って筑紫も平定されたからこそ,朝鮮半島との交易が可能になったのでしょう。新羅ルートだけでなく,大和から瀬戸内海を通って筑紫に抜け,朝鮮に渡るルート。この瀬戸内海ルート,すなわち百済ルートも開通したのでしょう。

 崇神紀の最後では,任那が朝貢してきたこと,任那は筑紫国から2千余里のかなたにあること,新羅の西南にあることを述べています。すなわち,新羅とは異なる路程上の国であることを述べています。そして,崇神天皇の死亡記事を簡単に記載して終わっています。
 この部分は,極めて象徴的です。大和の政権は,崇神天皇の時代になって出雲を平定できたからこそ,続けて筑紫をも平定し,朝鮮半島との通交を始めることができたのです。

 それが,崇神紀の締めくくりになっているのです。

 余談ですが,次の天皇,垂仁天皇の時代には,相撲の起源で有名な「野見宿禰(のみのすくね)」が出てきます。垂仁天皇は,出雲にいる野見宿禰を,「倭直(やまとのあたい)の祖(おや)長尾市を遣して,野見宿禰を喚(め)す」のでした。


国譲りという名の侵略は壮大なイデオロギーだ

 崇神天皇60年7月を含めて長々と検討してきたのは,国譲りという名の出雲侵略が,事実問題としてはなかったと言いたいからです。

 これに対応する事実はありませんでした。事実としては,崇神天皇60年7月について検討したとおり,対等な緊張関係の出雲を正直に叙述するしかなかったのです。

 しかし,現実の政治とは別に,あくまでも神々の間の争いにしておけば,神話として架上することができます。そうした新しい神話を作れば,後はそれを信ずるか否かだけです。自分たちで勝手に信じていればいいのです。
 国譲りという名の侵略は,あくまでも,神々が侵略したというイデオロギー的侵略にすぎません。大和の政権に属する人たちは,そうした創作話を作って,自己満足に浸っていたというわけです。

 国譲りという名の侵略の本質は,ここにあります。


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