第36 田舎に降る天孫降臨は虚構である

 

人っ子1人いない僻地に降臨した

 さらに,天孫降臨を,主に日本書紀によって振り返ってみましょう。

 「八十諸神を召し集へて」「諸神を会へて」議論したあげく,天穂日命や天稚彦を先兵として派遣してもらったが駄目でした。そこで,「更に諸神を会へて」経津主神と武甕槌神を派遣してもらい,怖い出雲を平定してもらい,やっと何の障害物もなくなりました。そこで,皇祖高皇産霊尊に「真床追衾(まとこおうふすま)」にくるんでもらい,「天磐座(あまのいわくら)」を押し離ち,「天八重雲(あまのやえたなぐも)」を押し分けて,「稜威の道別に道別て(いつのちわきにちわきて)」,天降ったのです。

 ところが降臨した場所は,その様子を目撃し,神として崇め奉ってくれる人が1人としていないところでした。「天磐座(あまのいわくら)」を押し離ち,「天八重雲(あまのやえたなぐも)」を押し分けて,「稜威の道別に道別て(いつのちわきにちわきて)」天降った様子を見てくれる人は,まったくいませんでした。一書によれば五部神が付き従ったようですが,勇ましい出で立ちも,誇示する群衆がいなければ空振りです。降臨の様子を見て天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に帰依する人もいなかったのです。

 その後天孫が,国を求めて何キロ歩いたかはわかりません。「膂宍の空国」または「膂宍の胸副国」というからには,田も畑もない,人っ子1人いない僻地だったのです。「吾田の長屋の笠狭碕」まで来て,やっと事勝国勝長狭に出会います。事勝国勝長狭は,国を献上すると言いますが,逆に言えば,それまで国らしい国など,まったくなかったのです。

 日本書紀の叙述から考えれば,天孫は,国もない僻地に降臨したと断言するしかありません。ですから,当時の文化の中心地,人口の密集地帯である北九州の糸島半島に降臨したというのは,嘘です。

 よくもまあ,わざわざ選んで,風がびゅうびゅう吹いているような,うら寂しいところに降臨したものです。
 神は,人々のいるところに華々しく降臨してくるからこそ,感動をよびます。キリスト教の神は,人々の前に現れて奇跡を起こします。だからこそ神として認められます。これが,神が神として存続できる存在的根拠でしょう。ですから,人のいないところ,すなわち感動によって天孫降臨を証明する人々のいない所をわざわざ選んで降臨すること自体,物語としてとても変なのです。人に見られたくなかったのかという疑念さえわいてきます。


天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の事績なんか何もない

 その後,吾田の鹿葦津姫(かしつひめ)という美女に出会って子供を作るのですから,何もないところでもなさそうです。

 結局,天津彦彦火瓊瓊杵尊は,田舎をさまよったあげく,やっと国を探し当てて,3人の子を作って死ぬだけです。これが,華々しい天孫降臨の結果なのですか。天照大神中心に語られ,天壌無窮の神勅さえ出てくる日本書紀第9段第1の一書の華々しさ。古事記の天孫降臨のにぎにぎしさ。いったいどうしてくれるのでしょうか。

 葦原中国は天孫のものだという神勅は,結局果たされなかったのです。天孫降臨は,掛け声倒れの失敗です。

 古事記ライターは,このうら寂しさが許せなかったのでしょう。降臨の地で,「此地は韓国(からくに)に向ひ,……此地は甚吉き地(いとよきち)」と述べさせたばかりか,そこに宮を作らせてしまいました。そしてさらに,国を求めて歩いたという,いわゆる国まぎの部分をカットしてしまいました。その結果,日向に降った天孫が,突然吾田に出現し,その地の美人と結婚して子孫を儲けるという話になってしまいました。
 わけのわからない展開です。


天孫降臨の神勅が果たされていない

 そもそも天孫は,征服した出雲に降臨できなかったのです。葦原中国の中心地出雲を平定したのなら,ここに降臨するのが当然であり筋です。敵の本拠地を叩いてそこを拠点にするのが筋です。それができていません。

 結局,葦原中国は天孫のものだという約束は,ぜんぜん果たされていません。天壌無窮の神勅など,なんやこれと言ったようなもんです。神勅ですよ。高皇産霊尊は,可愛い皇孫,天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて,「葦原中国の主(きみ)」にする決断を下したのですよ。これは神勅です。
 実際に出雲に派遣された経津主神と武甕槌神は,大己貴神に対し,「高皇産霊尊,皇孫を降しまつりて,此の地に君臨はむとす(きみとしたまはむとす)」と述べ,自分たちがやってきた理由を述べています。大己貴神に対し,皇孫がここに降臨するつもりであると,はっきりと言い切っているのです。

 そして,神勅に基づいて出雲侵略まで果たしたのに(もちろんお話しの上でのことですが),葦原中国支配が実現されていません。天津彦彦火瓊瓊杵尊は,葦原中国どころか出雲に降臨することさえできず,誰も見ていない田舎に降って,国まぎの上,事勝国勝長狭から小さな国を献上されただけで,吾田の田舎で寂しく息を引き取りました。

 どこに神勅が果たされているというのですか。私にはわけがわかりません。


「179万2470年」後と書いた日本書紀編纂者

 天孫降臨は,冷静に叙述を読み取るならば,掛け声倒れの失敗です。神勅どおりにいかなかったことは明白です。権威失墜も甚だしい。

 ではいったい,日本書紀編纂者はなぜこんな叙述をしたのでしょうか。

 私は,それだけ客観的で優秀な頭をもった人たちだったからだと考えます。彼らは,神武東征が,いわゆる天孫降臨の「179万2470年余り」のちであると叙述することにより,神々の時代と現実の天皇の時代とを明確に区別しました。それは,神々の時代と神武天皇以下の時代とはまったく異なるし,因果関係さえないという意思表示でした。神々の時代を叙述したけれども,それはフィクションであって,神武天皇以下の現実の歴史時代とはまったく関係ないんだよ,という意思表示でした。

 日本書紀編纂者は,古事記ライターよりも遙かに優秀で,遙かに巧みです。

 仕事としてはこれでいいのです。これで天皇の系譜の面目は立ちます。日本書紀編纂者たちの,官僚としての仕事もきちんと行ったことになります。しかし,官僚でありながら当代一流の文化を身につけた学者としての一面ももっていた,誇りある日本書紀編纂者にとっては,神武東征が「179万2470年余り」のちであるとすることにより,知識人としての良心を守ることができたのです。


神武天皇は吾田という田舎に土着していた土豪にすぎない

 こうなると,神武天皇の東征の物語は,天孫降臨の物語とはまったく関係のない物語だというほかありません。
 国譲りという名の侵略とか天孫降臨とかいう大それたお話は,すべて虚飾なのです。

 そのお話の実体は,吾田あたりにいた田舎の氏族が東に向かい,大和に入ったというなのです。日本書紀第10段はいわゆる海幸彦山幸彦の物語です。山幸彦が海神の宮(わたつみのみや)を訪問して豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し,子供を作るという物語は,要するに,天孫の子孫が地元の海洋の民と交わって土着化したことを示しています。その天孫は,朝鮮からやって来たのでした。

 いわゆる神武東征後,皇室が吾田を振り返ることはありませんでした。そこが故郷であるという観念すらなさそうです。むしろ,その地方にいた隼人をこき使い,熊襲を征伐さえします。なぜでしょうか。この問題は,また別に検討することにしましょう。


出雲や大和に大己貴神がいたから降臨できなかった

 このように,国譲りという名の侵略と天孫降臨は,犬の遠吠えと言っては失礼かもしれませんが,かけ声倒れの失敗なのです。誰がなんと言おうとも,敵地出雲に降臨できなかったのですから。できなかったことを,さもできたように見せかけているだけの,子供の言い訳のようなもんです。

 なぜ出雲や大和に降臨できなかったのでしょうか。

 もはや明らかでしょう。出雲はもちろん大和にも,大己貴神がいたからです。日本書紀第8段第6の一書は,大己貴神が天下を平定し,三輪山に行って宮を立て,鎮座した経緯を語っていました。古事記は,大国主神(大己貴神)の王朝物語を展開していました。そこで指摘したとおり,大己貴神は,大八洲国全体を平定していたのです。

 繰り返し言いますが,神武天皇は,南九州西岸の僻地,吾田にいた土豪にすぎません。その他全部は,大己貴神とその子孫が押さえていました。正確に言えば,大己貴神とその子孫をいつき祭る人々が支配していたと言えるでしょう。それが,政治的統一体だったとは言いません。たまたま,大己貴神信仰が広まっただけで,各地の土豪が割拠していたというのが本当のところでしょう。

 南九州の西海岸の土豪が大和までやって来て,盆地のごく一部を平定したというのが,神武東征物語なのです。そして彼らは,新しい神をもっていました。日の神と高皇産霊尊です。日の神は,後に天照大神と呼ばれました。


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