第37 天孫土着の物語 |
天孫が土着化した過程が日向神話だ お話しを,古事記中心に戻しましょう。
大山津見神は,美人の妹木花の佐久夜毘賣に,醜い姉石長比賣を添えて,献上します。天孫は,醜い磐長姫を退け,木花の佐久夜毘賣と一夜を共にします。古事記ライターは,その結果,「天皇命等の御命長くまさざるなり。」とまとめています。花のようにはかない命を選んだというのです。 日本書紀第9段第2の一書にも,似たようなお話がありました。しかし,ちょっとよく読めば,まったく違うことがわかります。おおかたの人は,同じ話だとか,同一の伝承が基になっているとか考えます。私はこれを,全体的把握と呼びます。全体的把握をしている限り,決して進歩しません。古事記も日本書紀本文も,その異伝である一書も,みんな別々の書物として検討しなければなりません。これを,分析的把握と呼びます。 私は,古事記の天孫降臨の物語(降臨した天孫が吾田で結婚するまで)は,日本書紀第9段第1の一書と第2の一書をもとに,古事記ライターがリライトしたのだと言いました。古事記ライターは,三種の神宝という観念(第1の一書)を前提に,鏡をいつき祭れという天照大神礼賛の異伝(第2の一書)をも取り入れて,独特の三種の神宝を作り上げたのでした。
そこで,どこが違うのかをまとめてみましょう。以下のとおりです。 @ 大山津見神は,「百机飲食(ももとりのつくえもの)」(第2の一書),「百取の机代の物」(古事記)を2人の娘と共に差し出す。天孫は,醜い姉を退け,美しい妹と共に一夜を過ごす。ここまでは,第2の一書も古事記もまったく同じ展開。 A 第2の一書では,大いに恥じた磐長姫が,「詛(とご)ひて曰はく」,自分を召せば生まれてくる子は岩のごとく命が長かったろうに,妹を召したからには,生まれてくる子は木の花のごとく散ってしまうだろう。だからこそ,「世人の短折き(いのちもろき)縁(ことのもと)なりといふ」。すなわち,退けられた磐長姫が呪って,自分が召されれば岩のように長い命であったろうに,妹を召したがためにはかない命になったという話になっている。とにかく,恥じて呪ったのは,磐長姫ということになっている。 B ところが古事記では,恥じたのは大山津見神。そして大山津見神は,じつは石長比賣を召せば岩のように長い命,木花の佐久夜毘賣を召せばはかない命,と「誓ひて貢進りき(たてまつりき)」と言う。木花の佐久夜毘賣を選んだあとで,打ち明け話をあとから展開する形になっている。 C 第2の一書は,一般に人の命が短い由縁として締めくくる。古事記は,「天皇命等の御命長くまさざるなり」。すなわち,天皇の命が短い由縁話としてまとめている。
これをどう考えたらよいのでしょうか。 Cからいきましょう。天皇の命が短い理由を語るお話があって,それを基に,人の命が短いのはこういった理由だったのサ,と結論づけるお話しを作ることはありえません。やはり,一般に人の命が短い理由を語るお話があって,それを天皇の命が短い理由にしたと考えるべきです。古事記ライターは,一般の伝承を,天皇に引きつけて解釈し直したのです。 ですから,古事記は,明らかに,第2の一書のリライト版なのです。天皇の系譜を語ることしか頭にない人が,人の命が短い理由を語る伝承を基に改作したのです。 では,古事記ライターは,なぜ磐長姫の呪い(A)を大山津見神の誓約(B)にしたのでしょうか。 相手は天皇です。しかも古事記ライターは,天照大御神万歳の人でした。本来,天照大御神の子が降臨すべきと考えている人でした。天照大御神を中心に,そのゆかりのオールスターキャストを配し,「179万2470年」を無視して,天皇の系譜を語りたがる人でした。ですから,南九州の田舎の一土豪の娘が天皇の先祖を呪ったなんて,受け入れることができません。ですが,こうしたお話しがあったことは無視できません。とにかく第2の一書は,第1の一書と並んで,極めて特殊な異伝ではあるけれども,天照大神が登場する大切な異伝ですから。 だから,改作した。呪いではなく,じつは,大山津見神が誓約をしていたんだよ,ということにした。それが証拠に,上記@までは第2の一書と同じ展開です。
こうした叙述の展開を,きちんと分析することが大切です。 大山津見神の誓約が出てきたついでに,古事記ライターの誓約理解を,とくと拝見しましょう。 本来の誓約がどういうものかは,すでに検討しました。天照大御神と速須佐之男命の誓約の段です。誓約とは,「あーした天気になーあれ。」と言って,下駄を放り投げるようなものでした。下駄が表であれば晴れ,裏であれば雨,横になれば曇りという条件を事前に定めておいて,結果を見る。これが誓約でした。誓約はシンプルなものであり,日本書紀にたくさん出てきます。しかし,誓約の意味がわかっていない古事記ライターのために,後世の学者さんたちは,速須佐之男命が勝ったのか負けたのかなどという詰まらぬ議論をする羽目になりました。古事記ライター自身が間違っているのですから,議論するだけ人生を浪費する,意味のない議論でした。 古事記ライターは,2人の娘を「誓ひて貢進りき」と書いていますが,やはり,その意味なんてわかっちゃいない。 本当にこれが誓約だったのであれば,まず大山津見神が,醜い石長比賣を取れば盤石の命,美しい木花の佐久夜毘賣を取ればはかない命と,その条件を宣言し,天孫に選ばせるはずです。それが誓約というものです。ところがここでは,天孫が木花の佐久夜毘賣を選んだあと,天皇の命が短い理由として,じつは大山津見神がそうした誓約をやっていたという打ち明け話を語っています。 古事記ライターは,本当に汚い物語作家だ。本当にせこい物語作家だ。物語のルールを平然と破って,天孫に誓約の条件を示すことなく,じつは誓約をしていたのサ,と平気で言っています。 誓約の意味がわからなかった古事記ライターが,誓約を利用しただけです。古来の素朴な誓約は,日本書紀にたくさん残っています。読めばわかります。古事記を信用してはいけません。
さて,木花の佐久夜毘賣は,一夜にして懐妊します。そして,「この天つ~の御子は,私に産むべからず」。すなわち,天つ神の御子は密かに生むわけにはいかないと述べ,天孫に申し出ます。天孫は,「一宿(ひとよ)にや妊める。これ我が子には非じ。必ず國つ~の子ならむ」。すなわち,一晩で妊むなんて,自分の子ではなく,国つ神の子に違いないと,冷たく言い放ちます。国つ神とすでにできていて,妊娠していたのだろうというわけです。 これは,明らかに日本書紀第9段第2の一書を下敷きにしています。第2の一書では,「妾(やっこ),天孫の子を孕めり。私に生みまつるべからず。」と申し出たところ,天孫が,「復た天~の子と雖(いうと)も如何(なに)ぞ一夜にして人をして娠(はらま)せむや。抑(はた)吾が児に非(あら)ざるか。」と言ったことになっています。 第2の一書では,自分の児ではないというだけです。古事記ライターは,そのあとに,「必ず國つ~の子ならむ」という1節を付け加えました。 それはいいのですが,なぜ密かに生むわけにはいかないと申し出るのでしょうか。普通は密かに生んで,父なし子になるのでしょうか。たぶんそうなのでしょう。天孫の子だったからこそ,父を明らかにしておきたいと申し出たのでした。すなわち木花の佐久夜毘賣は,天孫の正妻ではなかったのです。天孫も,懐妊したと聞いて驚いています。木花の佐久夜毘賣が申し出なかったら,そのまま一夜妻で終わっていたような書き振りです。 恥じた木花の佐久夜毘賣は,生んだ子が国つ神の子であれば無事に生まれてこないだろうが,天つ神の子であれば無事に生まれてくるだろうと言って,戸のない大きな家を造って籠もり,そこに火を放って出産します。
問題は,生まれてきた3人の子です。燃えさかる火の中で,火照命(ほでりのみこと),火須勢理命(ほすせりのみこと),火遠理命(ほおりのみこと)の3人の子が順に生まれてきました。最後の火遠理命が,天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと),すなわち日本書紀にいう彦火火出見尊です。 古事記は,火照命=海幸彦,火須勢理命=無視,火遠理命=山幸彦として,次に続く海幸彦山幸彦の有名なお話を展開していきます。しかし第2の一書は,火酢芹命(ほのすせりのみこと)=火闌降命(ほのすそりのみこと)=第10段本文の海幸彦,火明命(ほのあかりのみこと)=無視,彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=第10段本文の山幸彦としています。神名がまったく違います。ところがこの火明命は,古事記では,なんと天孫降臨の段で出現しています。古事記の天孫降臨は,じつは天子降臨でした。天子降臨の途中で,突如天孫が生まれ,天孫降臨に切り替わるのでした。その天孫が生まれてくるときに,兄として生まれたのが,天火明命(あめのほあかりのみこと)なのです。 そもそも,生まれてくる神の名は,日本書紀本文と一書も混乱していて,収拾がつかない状態です。また,日本書紀本文は,なぜ火明命を無視するのでしょうか。その消息さえ記載されていません。
じつは,古事記と同様に,天火明命を海幸彦山幸彦の兄弟ではなく,天孫瓊々杵命の兄とする異伝があります。日本書紀第9段第6の一書です。 この第6の一書は,本文にも匹敵する全容をもつ異伝のようです。しかし,途中「云云(しかしかいふ)」を多用しながら引用をはしょっていきます。肝心なところだけを残そうという叙述態度です。この異伝が「云云(しかしかいふ)」を多用しながらも掲載された理由は,火明命(ほのあかりのみこと)の系統が違う点にあります。火明命が彦火火出見尊の兄弟ではなく,天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄弟とされている点です。そのためにこの異伝を,はしょりながら引用し,第7,第8の一書に続いていくのです。 第7の一書は系図と神名を述べるだけの小さな一書であり,第8の一書は系図を述べるだけの異伝です。ですから,第6の一書から第8の一書までは,火明命の系譜や神名に関する,一団の異伝として紹介されているのです。 ここで,これを検討してみましょう。 火明命の系図上の位置 火明命の系図上の位置は以下のとおりです。 (第9段本文が示す系図) (第6及び第8の一書が示す系図) (古事記が示す系図) 要するに古事記は,天火明命を異伝である第6と第8の一書に合わせ,他方で,邇邇藝命の子を日本書紀本文に合わせて3人にしているのです。その意味で,総合版だといえます。 そして,天火明命が,天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄であり,第8の一書では,「天照国照彦火明命」となっているのに注意してください。
なぜ天火明命にこだわるのか。じつは,日本神話のうえで謎の神とされる,饒速日命(にぎはやひのみこと)にかかわってくるからです。 旧事紀天孫本紀によれば,饒速日命は,「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」,別名「天火明命」とされ,天忍穂耳尊が栲幡千千姫を妃としてもうけた子であるとしているのです。 天火明命は,饒速日命なのです。
私は,何度も引用します。東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして,四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称えます(神武紀31年4月)。日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとします。そしてそれに並べて,次の事実を紹介しています。伊奘諾尊は「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び,大己貴大神は「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼び,饒速日命は「虚空見つ日本の国」と呼んだと(神武天皇31年4月)。 このように,大和を支配していた神は,神武天皇以前にもいました。神武天皇の直前に大和を支配していたのが饒速日命なのです。天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊は,饒速日命の弟として,饒速日命の降臨の後に天降ったということになります。
じつは,東征前の神武天皇自身が饒速日命の存在を認めています。 塩土老翁は神武天皇に進言します。東の方に美しいよい国があります。青山が四周を囲んでいます。そこに「天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降る者有り」。それを聞いた神武天皇は述べます。その地は国を統治して天下に君臨するのに好都合なところであり,国の中心ではなかろうか。その「飛び降るといふ者は,是饒速日と謂ふか。何ぞ就きて(ゆきて)都つくらざらむ」(神武天皇即位前紀甲寅年)。 何のことはない。@神武天皇自身,饒速日命という神がいることを知っている。Aその饒速日命が先に大和に飛び降ったということを聞いて,B自分もそこに行って国を支配しようと決意するのです。
大和に侵入した神武天皇は,強敵長髄彦と戦います。この長髄彦が仕えていたのが,饒速日命でした。神武天皇は長髄彦と戦い,これを破ります。 長髄彦は言います。「嘗(むかし),天神(あまつかみ)の子有(ま)しまして,天磐船に乗りて,天より降り止(い)でませり。号(なづ)けて櫛玉饒速日命と白す」。饒速日命は,長髄彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)との間に可美真手命(うましまでのみこと)という子さえもうけていました。そんな経緯で饒速日命に仕えていたが,「夫れ(それ)天神の子,豈(あに)両種有さむや。奈何ぞ(いかにぞ)更に天神の子と称りて(なのりて),人の地を奪はむ」。すなわち長髄彦は,神武天皇が天神の子を僭称して土地を奪おうとしているのではないかといぶかるのです。 これに対し神武天皇は答えます。「天神の子亦多(さわ)にあり」と。そして,饒速日命が天神の子であればそれを表す物を持っているだろうから見せよと。長髄彦は,饒速日命の天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を見せます。神武天皇も同じ物を取り出して見せます。その「天表(あまつしるし)」を見て,長髄彦は畏まるのでした(神武天皇即位前紀戊午12月)。 こうして饒速日命は,神武天皇に帰順して,物部氏の遠祖(とおつおや)になったとされています。
饒速日命は,「天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降る者」であり,降った先の大和を「虚空見つ日本の国」と呼んだ神です。それは,天羽羽矢と歩靫を天つ神の子でした。 ところが日本書紀第10段第1の一書では,「虚空彦(そらつひこ)」が登場します。 彦火火出見尊を見た豊玉姫は,驚いて海神の宮の内に戻り,海神に言います。ただ人ではない人がいる。もし天から降ってきた人ならば「天垢(あまのかお)有るべし」。もし地から来たのであれば「地垢(ちのかお)有るべし」。まことに美しい人です。「虚空彦という者か」。 この「虚空彦」は,いったい何を指しているのでしょうか。 少なくとも,天降ってきた者を虚空彦と呼んでいたようです。そうした意味で,饒速日命も虚空彦の1人だったのです。
古事記はどうなっているでしょうか。 麗しい人がいるという豊玉毘賣の報告を聞いた海神は,自分で山幸彦を確認し,「この人は,天津日高の御子,虚空津日高ぞ」と叫びます。 ここで海神は,天つ神の子を虚空津日高と断定しています。これは,彦火火出見尊に限った別名ではありません。固有名詞ではないのです。神武天皇が「天神の子亦多(さわ)にあり」と言うのですから,饒速日命に限らず,天つ神の子は虚空彦と呼ばれたのです。古事記において,海辺で山幸彦に出会った鹽椎神は,「何(いか)にぞ虚空津日高の泣き患ひたまふ所由(ゆえ)は」と述べていました。
しかし日本書紀は,神武天皇に帰順してきた神ですから,小さくしか描いていません。日本書紀編纂者は,饒速日命の存在を小さく見せようとしています。 日本書紀は,饒速日命という神が大和を支配していたことを認めています。だから,神武天皇が戦ったのは饒速日命のはずです。長髄彦は,饒速日命の下で働く,単なる一将軍でしかありません。ところが日本書紀は,饒速日命をまったく叙述せず,一貫して長髄彦との戦いであるかのように描いています。本当は,長髄彦との戦いではなく饒速日命との戦いというべきなのです。 饒速日命は,長髄彦が帰順するときに,突然言及されるだけです。じつは,長髄彦の親分は饒速日命だったというわけです。戦いの中では,具体的に登場しません。 そして,天羽羽矢と歩靫という宝物を,なぜ長髄彦が持っていて神武天皇に差し出すのかも不明なのです。本来ならば,大将であり,天神の子であり,戦いの当事者たる,饒速日命が行うべきなのです。単なる一将軍が口をさしはさむ行為ではありません。 長髄彦の戦いは,構成上,明らかなインチキがあります。ところが学者さんたちは,この日本書紀のインチキをインチキとも思わず,長髄彦との戦いと呼んではばかりません。
ここまで考えてくれば,饒速日命は,もはや謎の神ではありません。謎どころか,日本書紀の神話の体系の中に,しっかりと組み込まれています。饒速日命は,神武天皇に先立って大和に降り,大和を支配しました。神武天皇はそれを知って,自分もそこを支配しようと考えました。そして,戦闘になりました。将軍長髄彦と戦い,神武天皇は勝ちました。饒速日命は,神武天皇に帰順して,物部氏の祖になりました。 ただ,帰順してきた神を詳細に描く必要はありません。だから影が薄いのです。戦い自体が饒速日命との戦いとされていません。あたかも戦闘の当事者ではないかのようなインチキな叙述ぶりです。 とにかく饒速日命もまた,天つ神なのです。日本書紀はそれを認めています。であればその系譜は,どこにつながるのでしょうか。 しかし,天皇の系譜につなげるならば,第9段第6の一書で「天火明命」が天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄として先に生まれたとし,第8の一書はそれを,「天照国照彦火明命」と呼んでいる点を見逃すことができません。 この「天照国照彦火明命」(第8の一書)に「櫛玉饒速日尊」(神武天皇即位前紀戊午12月)をくっつければ,旧事紀天孫本紀がいう「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」となるのです。神武天皇は,火明命の弟天津彦彦火瓊瓊杵尊から3世代後の神です(天津彦彦火瓊瓊杵尊,彦火火出見尊,ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト,神武天皇)。ですから,火明命すなわち饒速日命が,神武天皇に先だって大和を支配していたとしても,ぜんぜんおかしくありません。
学者さんは,饒速日命の世系に関する旧事紀天孫本紀の叙述を,天孫に付会した造作であり,天神ではあるが世系がわからないとしています。しかし本当にそうでしょうか。 第6の一書と第8の一書は,火明命が天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄として「天照国照彦火明命」と呼ばれたと述べています。「天照国照」とは,天も国も照らす支配者という意味以外にないでしょう。 たとえば,雄略天皇によって殺された市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)は,履中天皇の皇子であり,本来ならば皇位を継承してもおかしくありませんでした。その市辺押磐皇子は,顕宗紀では,「市辺宮に,天下治しし(しらしし),天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと)」として登場します(顕宗天皇即位前紀)。すなわち,「天万国万」という美称は,天の下を支配した者に対する美称なのです。「天照国照」もこれと同様です。 日本書紀は,饒速日命が神武天皇以前に大和を支配したと述べています。天津彦彦火瓊瓊杵尊の系統以外の天神で「天照国照」にふさわしい神は,饒速日命しかいません。だとすれば,第6の一書と第8の一書がいう「天照国照彦火明命」こそが饒速日命です。これらの短い異伝は,なんのために日本書紀に残されたのでしょうか。それを考えると,こうした結論しかないのです。
第9段本文の系図によれば,天津彦彦火瓊瓊杵尊には3人の子がいました。なのになぜ第10段本文では,火闌降命と彦火火出見尊しか登場しないのでしょうか。第10段は,有名な海幸彦山幸彦の話です。そこでは,末子である火明命がまったく無視されています。 第6及び第8の一書が叙述するとおり,天津彦彦火瓊瓊杵尊の子は,本来,火闌降命と彦火火出見尊の2人だけだったのではないでしょうか。だからこそ,海幸彦,山幸彦に関する日本書紀第10段の物語は,火明命を無視した2人だけの話になっています。 火明命は,実は天津彦彦火瓊瓊杵尊の兄であり,神武紀に出てくる饒速日命であり,尾張連の遠祖でした。
古事記における饒速日命(古事記では邇藝速日命)を検討しておきましょう。 古事記ライターもまた,邇藝速日命を小さく描いています。ところが,これがまたご都合主義の最たるものなのです。 土雲(つちぐも)を殺した神武天皇は,登美毘古(とみびこ)を討とうとします。また兄師木(えしき),弟師木(おとしき)を討とうとしたときには,しばし疲れました。そこで突然登場するのが,邇藝速日命(にぎはやひのみこと)なのです。 邇藝速日命は神武天皇の前に参上し,天神の皇子が天降ってきたと聞いたので,神武天皇を追って天降り,参上したと述べます。そして,天から降ってきた「天津瑞(あまつしるし)」を示します。しかしそれが何かは,明らかにされません。そんなことはもはやどうでもいいのです。天孫降臨の際出てきた猿田毘古神のように,天皇に仕える身であれば,あとはどうでもいいのです。 とにかくこれで,あっという間に神武天皇が「天の下治らしめき」となります。文献上,わずか数行です。具体性はまったくないし,文献としての価値もありません。 古事記における饒速日命は,初めから神武天皇の子分格です。しかも,神武天皇を助けるために馳せ参じたとまで言います。ここまで貶められ,卑屈になっています。もはや,神武天皇を引き立てるために,わずか数行登場させられる道化でしかありません。 日本書紀は,神武天皇に先立って大和を支配した饒速日命に敬意を払いながらも,できるだけ小さく描こうとしていました。ところが古事記は,その饒速日命を,単なる子分格にしてしまいました。
このように古事記ライターは,天火明命=邇藝速日命という古い伝承,日本書紀編纂者が異伝にして小さく押し込めた伝承を,一応無視しませんでした。しかし,悪意のソフィスティケイトをしました。一方で,日本書紀が採用した3人の子は継承しました。日本書紀本文と異伝の総合版のようなものです。 3人の子の名前は,どこから取ってきたのでしょうか。まとめた系図をごらんください。火照命だけが,どこにも見つかりません。あとは見つかります。
さて,天孫の子孫がどのように吾田という僻地に土着していったか。日本書紀の神話を見てみましょう。 第11段は,系譜だけを述べています。生まれたヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトから神武天皇に至る系譜を語るのです。 通説によれば,これらはすべて,稲に関する名を負っているばかりか,天照大神から生まれた正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊以下,皇統を受ける尊は,皆,稲に関する名をもっていることになります。
第9段第3の一書は,極めて短い異伝です。ですが,日本書紀編纂者が残したかった意図があるに違いありません。 一見何でもないような叙述ですが,なぜこうしたエピソードが,ことさらに第3の一書として掲載されたのでしょうか。第3の一書は,わずか6行の異伝です。ここだけを抽出して掲載した,日本書紀編纂者の意図があったはずです。 すでに検討したとおり,第5段第11の一書は,天照大神が養蚕と五穀を始めたとしています。五穀は「顕見しき蒼生(うつしきあおひとくさ)」すなわち人間が食べるものだと定め,高天原の農民の長である「天邑君(あまのむらきみ)」をおいて,稲については「天狭田(あまのさなだ)」「長田(ながた)」を作りました。 神吾田鹿葦津姫は,天照大神ゆかりの田と同じ名前の田を耕作していたのです。やはり吾田には,天照大神(当時は日の神)がいたのです。
豊玉姫に棄てられたヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは,豊玉姫の妹玉依姫(たまよりひめ)に育てられ,そのまま結婚します。 叔母が乳母である点はともかく,叔母と結婚するのは,神武天皇以後の系譜にもよくあることです。 ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは,「西洲(にしのくに)の宮」で死に,「日向の吾平山(あひらのやま)の上陵」に葬られます。これは,歴代天皇が営んだ都と葬送された場所を記す,日本書紀の他の叙述と同様です。 「西洲(にしのくに)の宮」は,神武天皇即位前紀で,東征前の神武天皇自身がもらす言葉,「此西の偏(ほとり)を治す(しらす)」に照応しています。「西洲(にしのくに)の宮」といっても,東に宮があるわけではありません。後世の強がりでしょう。 ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは,確かに「日向の吾平」にいました。そしてその子,神武天皇は,「日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)」と結婚します(神武天皇即位前紀)。 日向国の吾田邑。この片田舎が,天皇の故郷でした。
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