第38 海幸彦山幸彦の物語の体系的理解

 

体系的位置づけを考える

 さて,日本神話の最後を飾るのは,いわゆる海幸彦山幸彦の物語です。いわゆる日向神話です。例によって,日本書紀にしたがって,その体系的位置づけを考えてみましょう。

 日本書紀第10段本文は,いきなり「兄火闌降命,自づからに海幸(うみさち)有(ま)します。弟彦火火出見尊,自づからに山幸(やまさち)有(ま)します。」と始まっています。古事記もだいたい同じです。いかにも唐突です。

 天孫降臨の目的は,葦原中国支配だったはずです。第9段の天孫降臨の後,なぜ直ちに葦原中国平定の話につながらないのでしょうか。出雲に降らなかったことはいいです。南九州に降って,すぐに東征を開始していれば,まだわかります。なぜその後直ちに神武東征の話につながらないのでしょうか。物語として読むのであれば,当然,そうした疑問がわいてきます。


第10段の体系上の問題点

 問題点は,以下のように整理できるでしょう。

@ 天孫は,降臨後,鹿葦津姫との間に3人の子をもうけただけで死んでしまいました。その3人の子が,上から順に火闌降命,彦火火出見尊,火明命です。このうちの誰かが東征なり支配なりをするのかというと,そうではないのです。

A しかも,3人の子のうち,1人は無視されてしまいます。その理由はすでに述べました。

B 2人の子はいきなり海と山に分類されます。これはいったい何を象徴しているのでしょうか。

C 血統を継ぐのは山幸彦,すなわち山です。海=海人ではありません。これにも意味があるのでしょうか。

D 山幸彦=彦火火出見尊が,海神の娘豊玉姫と結婚してヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトを作り,それが更に豊玉姫の妹玉依姫を娶って神武天皇を生みます。矢を持つ山人が釣り針を持つ海人と交わり,海人の血が一層濃くなるような展開になっています。そのうえで,神武天皇が生まれてくるのでした。どうも,天孫が降臨しただけでは不十分だったらしいのです。

E 天孫の子孫は,天孫降臨以来179万2470年余りの歳月を吾田地方という,南九州西岸の僻地で生きながらえました。神武天皇の「東征」は,それから行われます(神武天皇即位前紀)。これもまた,吾田地方で海人と交わり,その血が濃くなるという展開です。


海幸彦山幸彦の物語は異質の夾雑物か

 結局第10段は,山人と海人が混血し,吾田地方で天皇の系譜を保ったというお話です。
 日本神話を,構成された1つの物語として読む私の立場からすれば,上記した問題点をひとつひとつ読み解いていくことになります。それなりに意味のあることだと思いますし,こうしたお話しが差し挟まれている理由があるはずだと思います。何しろ,日本書紀編纂者は,当代一流の知識人だったはずです。何となく日向神話をぶち込んだなどという編集作業をするはずがありません。

 しかし,天壌無窮の神勅だの,五部神の随伴だの,華々しくもにぎにぎしい天孫降臨の描写に目を奪われると,なぜ直ちに葦原中国を平定しないのか,なぜ直ちに神武天皇が東征しないのか,という疑問にさいなまれることになります。かの有名な津田左右吉がそうでした。

 ひとこと言っておくと,こうした疑問をもつ人は,日本書紀の以下の叙述をよく読んでいないことも確かなのです。

 天孫降臨後「179万2470年」余りの年月がたてば,天孫降臨と神武東征との間には,風が吹けば桶屋が儲かるという意味での事実的因果関係さえありません。ですから,天孫降臨は遂に実現されなかったと断定できるのです。それが証拠に神武天皇は,天孫が降臨して西の果ての辺境を治めていたが,今に至るまでに遠くはるかな地には村ができ,首長が支配し,境界をつくって,互いに抗争していると述べています(神武即位前紀)。神武天皇自身が,人それぞれ好き勝手に,葦原中国を支配している現状を告白しているじゃありませんか。
 いったい,国譲りという名の侵略は何だったのでしょうか。天孫降臨とは何だったのでしょうか。天壌無窮の神勅は,結局果たされなかったのです。国譲りという名の侵略も天孫降臨も,単なる修辞,お遊びなのですから,それに目を奪われてはなりません。

 叙述をきちんと読めばそうなります。

津田左右吉の考え方
 ま,とにかくそれは言わないことにしておきましょう。とにかく津田左右吉は,直ちに神武東征につながらないのはおかしいと考えました。
 そして彼は,この伝承の本来の形は,天津彦彦火瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征した話だった,とまで言い切ります。天孫の子が直ちに東征したはずだというのです。その根拠として,第11段第2及び第3の一書が,神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)の別名を神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれひこほほでみのみこと)であったとしている点,同第4の一書が磐余彦火火出見尊(いわれひこほほでみのみこと)であるとしている点をあげています。

 じつは,出雲の大己貴神について興味ある異伝を残した第8段第6の一書も,神日本磐余彦尊を神日本磐余彦火火出見天皇としています。
 ここでは,大己貴神の子である事代主神の子姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神日本磐余彦火火出見尊の皇后になったとしています。大己貴神の孫です。一方,彦火火出見尊が神日本磐余彦尊だとすると,その2世代前は天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の父正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊です。
 素戔鳴尊が誓約によって天照大神との間に生成した子が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊でした。一方,出雲に降ってから奇稲田姫との間にもうけた子が大己貴神でした。ですから,神々の系譜の世代数は合います。

 だとすると,津田左右吉の説にも根拠がありそうです。


学者さんの説の問題点

 しかし,日本書紀に残された叙述の断片から,本来あった伝承を再現しようという方法論自体が無理です。再現するに足る資料はどこにもありません。堂々と挿入された日向神話の問題点と真正面から向き合うことをしない,その態度自体が間違いです。私は,神話編纂者の編纂意図を探ろうともせず,本来あった伝承を再現しようなんて,思い上がりもはなはだしいと感じてしまいます。文献に対する冒涜だとさえ考えます。

 私が指摘したいのは,天孫降臨後なかなか葦原中国を平定しないという,叙述上の過誤を犯してまでも,海幸彦山幸彦の話を挿入しなければならなかった,日本書紀編纂者の意図です。
 これを明らかにしないことには,必ず,文献を読み誤ります。にぎにぎしくも華々しい天孫降臨の叙述に騙されてはいけません。


日本書紀第10段の体系的位置づけ

 日本書紀の神話の故郷は,出雲神話を除けば南九州地方でした。

 天照大神らの神々が禊ぎによって生まれたのは,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」であり,そこが日本神話の故郷でした。筑紫の日向は,現在の宮崎県を中心とした地域です。
 一方天孫は,「日向の襲の高千穂峯」に天下り,そこから国を求めて,「吾田の長屋の笠狭碕」に行きました。そこで姫と出会い,3人の子を作り,骨を埋めました。

 第10段の海幸彦山幸彦の物語は,「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりの国を舞台にしたお話なのです。兄の釣り針を無くした彦火火出見尊(山幸彦)は,海浜をさまよいます。もちろん,「吾田の長屋の笠狭の御碕」近辺の海辺に違いありません。すると塩土老翁が出現し,海神(わたつみ)の乗る駿馬は八尋鰐(やひろわに,大鮫のこと。)であり,それが「橘の小戸」にいると教えてくれます。それで彦火火出見尊は,塩土老翁と一緒に行って八尋鰐に会います。
 さてさて,この「橘の小戸」という地名は,もちろん,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」の「小戸の橘」です。伊奘諾尊が禊ぎをして,神々を生んだ場所です。

 要するに,天孫が住み着いたのは,古代の薩摩国にあった「吾田の長屋の笠狭の御碕」であり,現在の鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近だったということです。この近くに伊奘諾尊の子である塩筒老翁がおり,伊奘諾尊が禊ぎをした「橘の小戸」があったというのです。ですから,その近くには,淤能碁呂島もあったはずです。住吉3神も,元来はここにいたはずです。南九州の日向から薩摩近辺の海域には,海神が乗る八尋鰐がおり,海神の宮もここらへんにあったのです。

 ですから,出雲神話以外の日本書紀の神話は,南九州の吾田地方に住んでいた人々が,代々伝えてきた神話なのです。だからこそ天孫は,自分たちの故郷の近く,日向に降ってきました。だからこそ,降臨後は吾田地方にやってきて,そこで子孫を作って栄えるのです。日向から吾田地方に至る郷土色豊かな神話を展開し,その土地に降ってきた天孫がどのようにして土着していったのかを語るのです。

 第10段はそうした神話であり,天皇の出自を語り,吾田出身の神武天皇の東征につなげるうえで,必要不可欠の段なのです。

 そしてそれは,天照大神と高皇産霊尊という,2系統の神話伝承が混淆したことを示しています。


海と山の対立から始まる

 さて,日本書紀第10段本文は,「兄火闌降命,自づからに海幸有(ま)します。弟彦火火出見尊,自づからに山幸有(ま)します。」と始まっています。

 兄の火闌降命は,生まれながらに海の幸を得る霊力を持っていて,弟の彦火火出見尊は,生まれながらに山の幸を得る霊力を持っていたという書き出しで始まります。天孫降臨後,地上において初めて生じた子供が,海の霊力と山の霊力に分かれたというのです。人間の世界の同じ兄弟の話が,なぜこうも類型的・対立的に描かれるのでしょうか。

 海幸彦と山幸彦が交換するのは,幸を得る霊力の根本である,釣り針と弓矢です。しかし共に獲物が得られないので,海幸彦は弓矢を返します。しかし弟の山幸彦は,魚に釣り針をとられてしまい,返せません。海浜をさまよっていると,塩土老翁が海神の宮へ行く方法を教えてくれます。そこで海神の宮に行って,海神の娘豊玉姫と結婚します。吾田に帰ってきた山幸彦は,海神にもらった玉を使って,海幸彦を責めます。これに懲りた海幸彦は,今より永遠に山幸彦の家来になることを誓います。
 こうして海幸彦は,吾多隼人の有力者である,吾田君小橋の本祖となりました。これに対し,山幸彦と豊玉姫の子ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは,豊玉姫の妹玉依姫と結婚して,神日本磐余彦尊(神武天皇)をつくります。これがのちの,天皇の系譜につながっていきます。

 要するに,天孫の子孫が,地元の海洋の民と交わって,土着化したことを示しています。これが海幸彦山幸彦の物語の本質です。


神武天皇の血は山人の系譜である

 日本書紀編纂者は,神武天皇につながる血の系譜に,山人の血と海人の血の交流があったと言いたかったのです。そして,その系譜の基本は,山人の血なのです。

 天孫が降臨したのは,僻地の山の中でした。「日向の襲の高千穂峯」に天下って,国を求めてやって来たところが,海人の世界である「吾田の長屋の笠狭碕」でした。そこで事勝国勝長狭に出会い,国を献上されたのでした。主人公はあくまでも天孫です。海人であろう事勝国勝長狭が国を献上したのですから,海幸彦が山幸彦に服従を誓う以前に,そもそもの始めから,海幸彦の服従が約束されていたことになります。

 やはり,神武天皇につながる血の系譜は,山人系だったのです。山人がやってきて,海人を支配したのです。


山人を象徴するのは弓矢であり天羽羽矢であり高皇産霊尊である

 山幸彦は,幸を得る霊力の根本である弓矢を持っていました。これが,山人の象徴です。

 それは天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)です。

 饒速日命が天神の子である「天表(あまつしるし)」として所持し,神武天皇もまた所持していた天羽羽矢と歩靫です。それは,第9段本文で高皇産霊尊が天稚彦を派遣したとき,天稚彦に与えた「天鹿児弓(あまのかごゆみ)」と「天羽羽矢」です。さらにまた,高皇産霊尊が命令者となり軍隊を降臨させる第9段第4の一書の「天梔弓(あまのはじゆみ)」と「天羽羽矢(あまのははや)」です。

 弓と矢が,高皇産霊尊につながっていることに注意してください。

 前述したとおり,日本書紀第9段では,むしろ高皇産霊尊が主役であり,そのアイテムは真床追衾でした。玉,剣,鏡は,むしろ天照大神神話につながるものでした。
 そして一方,高皇産霊尊は,天羽羽矢とも結びついているのです。それは,神武天皇が天つ神の子であることを証明するアイテムでした。

 神武天皇につながっていく山幸彦,すなわち彦火火出見尊は,弓矢を持っています。それは,山人の系譜であり,高皇産霊尊につながる神話に属することを示しています。


天照大神は海洋神であり海人の神である

 一方天照大神は,南九州の日向から吾田地方で信仰されていた日の神です。日本書紀の顕宗天皇3年からは,対馬に日の神がいたことがわかります。当時,日の神信仰は,一般的に広がっていました。後に天武天皇の時代になって,天皇がいつき祭っていた日の神を,天照大神と呼ぶようになりました。日本書紀は,歴史の前後を問わず,後に天照大神になった日の神を,一括して天照大神と呼んでいます。
 そうした日の神が,南九州の日向から吾田地方で信仰されていました。伊奘諾尊が禊ぎにより天照大神等3神を産んだのは,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」でした。その「橘小門」「小戸の橘」「橘の小戸」の水底には,海神である底筒男命,中筒男命,表筒男命の3神がおり,海神の乗る駿馬八尋鰐もいます。結局,出雲神話を別にすれば,その他のすべての神話の舞台は,「橘小門」「小戸の橘」「橘の小戸」なのでした。

 だからこそ,天照大神(当時は日の神)も,この日向から吾田の海域にいます。それは,海人の神でした。海洋神でした。

 「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。……是の国に居らむと欲ふ。」と述べて伊勢に鎮座し,その「斎宮(いわいのみや)」は,五十鈴川の川上に建てられたにもかかわらず,「磯宮(いそのみや)」と呼ばれました(垂仁天皇25年3月)。天岩窟にこもった天照大神をおびき出そうとして鳴いた鳥は「常世の」長鳴鳥でしたし,天照大神を祈った幣(ぬさ)は,青い海水と白い波を象徴する青い幣と白い幣でした(第7段本文)。
 常世国は,海の彼方にある常住不変の国でした。それは,神仙の隠れたる国であり,俗人は行けませんでした(垂仁天皇後紀)。ですから,瀬戸内海という狭い海域ではなく,外洋に面した地域で成立した神なのです。


海人と山人の混交は2つの氏族の混交と天照大神と高皇産霊尊の混交を物語る

 私は,日本神話には,高皇産霊尊をいつき祭る伝承と,天照大神をいつき祭る伝承との,別系統の伝承があると考えます。

 高皇産霊尊をいつき祭る山人系の人々が,朝鮮から北九州を経て,南九州までやって来ました。

 日本書紀第6段第1の一書には,天照大神(じつは単なる日の神)が,宗像三神を,「筑紫洲」に天下らせて,「道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ。」と命令したとあります。日の神,すなわち天照大神は,すでに九州のどこかにいて,朝鮮からやって来る天孫を迎えるというのです。そのために,宗像三神を鎮座させたというのです。

 第6段第3の一書は,天降らせた場所をはっきりと述べています。この短い異伝は,そのために残されたのです。「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」に天下らせ,それは「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるといいます。これを名付けて「道主貴(ちぬしのむち)」といいます。道中の神という意味です。宗像三神は,もとは,宇佐にあって,朝鮮から来る天孫を迎えたというのです。

 宇佐を南に下っていくと,日向です。天孫降臨の地は,南九州の「日向の襲の高千穂」でした。

 天孫降臨など,所詮フィクションです。朝鮮からの渡来を,象徴的に語ったお話でしかありません。ただそこが,朝鮮からやって来て,現在の天皇につながっていると自負している人たちの聖地だったことは重要です。朝鮮からの渡来人は,遙か昔から徐々にやって来て,九州各地に定住したのでしょう。そしてその一部に,宇佐を通って日向に行き,さらに国を求めて半島を横断して,西海岸にある吾田の地にたどり着いた人たちがいたのです。彼らは,定住した吾田の地で,自らの来歴を語る神話を作り始めます。降臨するのは,定住地に近い高峰であり霊山です。それが「日向の襲の高千穂」です。

 一方吾田には,古来から海人が定住していました。主に漁労に携わっていました。そして,海洋神であり,後に天照大神と呼ばれる日の神をいつき祭っていました。高皇産霊尊をいつき祭り,弓と矢を神聖なものとする,朝鮮からやって来た人たちは,事勝国勝長狭から国を献上されたという伝承のとおり,その地を支配します。そして,吾田の海人と混血し,海人の血を濃くしていきます。天孫降臨後「179万2470年」余りの年月をかけて土着化していきます。

 その支配は,いわゆる収奪を伴う専制支配ではなく,血統が尊重される程度の,土着化した支配層による支配という程度でした。支配者階級と奴隷という,血の交わりを拒絶した専制支配などできませんでした。当時は,そんな力の差などありません。そもそもそれは,突然民族が大移動したというものではなく,少しずつ,じわじわと滲みわたるように広がった,交流ともいうべきものでした。朝鮮民族と日本民族という区別さえない時代のことです。どこからどこまでが後世言うところの日本で,どこからどこまでが後世言うところの朝鮮かもはっきりわからない時代です。ただ,先進文明は中国,朝鮮にありました。ですから,朝鮮から来た人々は,尊敬はされました。ただ,武力で支配するというほどではありませんでした。

 そうした交わりを,今でいう国境などなく自由にやっていたのが,朝鮮,九州,日本海沿岸地方でした。

 土着化していますから,生活レベルにそれほどの差はありません。ただ,その血筋をたどると,昔から吾田にいた海人ではなく,「日向の襲の高千穂」に降臨した天つ神の血統であるとか,先進国朝鮮から来た人々である,という程度のものでした。

 ですから,土着の日の神信仰との混交が始まります。

 海幸彦山幸彦の物語は,天皇の基本系譜たる山人がやって来て,地元の海人と混交して土着化したことを述べているのです。それは,高皇産霊尊と天照大神が吾田の地で出会い,混交し,神話を形成していったことを物語っています。日本神話にある高皇産霊尊と天照大神の2元性の根拠は,ここにあります。

 学者さんは,皇祖神の2元性といいますが,その内容がはっきりしません。また,正確に言えば,皇祖神の2元性という用語は不正確です。むしろ,高皇産霊尊中心です。神話の公定解釈である日本書紀第9段本文は,高皇産霊尊が命令者です。その他の異伝も,高皇産霊尊が中心です。天照大神が命令者となるのは,第1,2,4,6の一書のうち,第1の一書1つだけです。天照大御神を中心に据える古事記は,バイアスがかかった時代の人が書いたものです。日本神話の中では,異質なのです。それは,日本書紀第9段本文と一書の主人公が誰であるかを比較してみれば,誰にでもわかります。


高皇産霊尊と日の神の混交の実例

 こうした事情は,すでに検討した日本書紀の顕宗天皇3年に,明確に残されています。

 ここでは,月読命や天照大神は登場しませんでした。単なる月の神や日の神が登場します。一般に信仰されていた,地方神としての月の神と日の神です。そして,その地方神が,高皇産霊尊を「我が祖(みおや)」と呼んでいるのです。

 とすると,月読命や天照大神が,地方神としての月の神や日の神を統括し,代表するのではなかったことになります。それらを統括するのは,むしろ高皇産霊尊なのです。月読命や天照大神は,月の神や日の神と呼ばれていた地方神のうちのひとつにすぎないことになります。
 月の神信仰と日の神信仰は,大八洲国全体に広がっていました。そのうち,月読命や天照大神は,天皇につながる氏族が祭ったひとつの月の神であり,ひとつの日の神にすぎなかったのです。

 壱岐や対馬では,朝鮮との関係が強いからこそ,高皇産霊尊が「我が祖」となりました。地方神としての月の神や日の神の先祖としてこれを統括し,代表していたのです。高皇産霊尊と日の神との関係を正確に語った伝承だと思います。

 新しい文明を持った人々が,朝鮮半島からやって来ました。その人たちは,高皇産霊尊を信仰し,真床追衾や天羽羽矢を,高皇産霊尊のシンボルとしていました。高皇産霊尊こそが始祖でした。しかし,日本列島で土着化すればするほど,その原住民が信仰していた神の地位が高まります。日の神は,高皇産霊尊から独立して,次第に対等になります。吾田では,並立というほどではないけれども,日の神の地位は,朝鮮に近い壱岐や対馬よりは高い地位にあったようです。


高皇産霊尊=真床追衾は海人をも支配する象徴だ

 ここで,高皇産霊尊を象徴するもうひとつのアイテム,真床追衾が,日本書紀の海幸彦山幸彦の物語の中で,いかなる扱いを受けているかを考えてみましょう。

 真床追衾は天孫降臨時のアイテムですが,それとはまったく関係なく,しかもさりげなく登場する場面があります。日本書紀第10段第4の一書です。
 海神は,海神の宮を訪れた彦火火出見尊が真床追衾の上に座ったのを見て,これが天神の孫であることを知ります。海神は恐れ入って,「益(ますます)加崇敬ふ(あがめいやまふ)」。その後,海神の娘豊玉姫は,彦火火出見尊の子(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)を生み,真床追衾と草でくるんで,渚に置いて去ります。

 真床追衾は,海神が無条件であがめ奉る神のアイテムなのでした。渚に残された子が,決して卑しい生まれではないことを示すアイテムなのでした。真床追衾は,海人をも支配するアイテムなのです。海幸彦=海人=海神ないし日の神(後世の天照大神)が,山幸彦=山人=高皇産霊尊のアイテムである真床追衾をあがめ奉り,ひれ伏すという点を読み取らなければ,第10段第4の一書を読んだ意味がないのです。

 学者さんたちは,豊玉姫が子を真床追衾と草でくるんで,渚に置いて去った点について,こう言います。乳児をものに包んで水に投入し,浮かぶものは正しい出生であり沈むものは不正な出生であるという,審判をする習俗が反映していると。

 私は,そんな馬鹿なと叫んでしまいます。

 なぜ,真床追衾に注目しないのでしょうか。日本神話を,物語としてきちんと読んでいれば,当然突き当たる疑問です。だって,第9段で天孫降臨のアイテムとして出てきたのですから。それがなぜ海幸彦山幸彦の物語に登場するのか。何か意味があるのか。そこを考えるのが,普通の人間でしょう。日本神話をきちんと読む者の態度でしょう。
 私は,そうした問題提起ができないところに,日本書紀や古事記をきちんと読んでいない学者さんたちの毎日を見てしまいます。この人たちは,日本神話を研究していると言いながら,じつは,文献としての日本神話をきちんと読んでいません。他のお勉強はしているのでしょうが。

 私に言わせれば,余計なお勉強のしすぎです。不正な出産か否かは,ここではまったく問題になっていません。問題になってもいないのに,自分がお勉強した観点から問題を作って答えようとしても,なんの意味もありません。日本神話ファンを混乱させるだけです。試験の答案としても,明らかに落第です。


天羽羽矢は騎馬民族の証明か

 では,朝鮮から宇佐を通ってやって来た人たちは,騎馬民族だったのでしょうか。

 まあ違うでしょうね。何しろ吾田に,「179万2470年」も土着しちゃう人たちですから。
 何よりもここには,馬がいません。
 一応検討しておきましょう。

 馬は,むしろ五穀との関係で語られてきました。五穀と養蚕の始まりを語る第5段第11の一書は,殺された保食神の頭頂に,「牛馬化為る(なる)有り」としています。しかしここでの馬は,むしろ,農耕に使役される家畜として登場するのです。天岩窟で有名な第7段本文では,逆剥ぎにされる「天斑駒(あまのぶちこま)」として登場します。このお話は,農耕に対する反逆がモチーフとなっているのですから,これもまた,農耕に使役される馬です。

 なお,五穀と養蚕の始祖は天照大神とされていますが,本当は高皇産霊尊だったことは述べました。私かこれを,日本書紀の神話における「ねじれた接ぎ木構造」と呼びました。
 ですから,高皇産霊尊は,弓矢を持ち,五穀と養蚕を携えて朝鮮からやってきたことになります。

 確かに日本書紀の神話では,矛や剣がたびたび登場します。伊奘諾尊と伊奘再尊が生成途上の世界をかき回したのは「天之瓊矛(あまのぬほこ)」でした。「十握剣」,「草薙剣」等,枚挙にいとまがありません。
 ですが,登場する神々が馬に騎乗して移動するという描写はありません。軍隊が降臨する第9段の一書でさえ,重武装のくせに「遊行き(ゆき)降来りて(くだりて)」降臨するのです。「遊行き」とは,歩いてという意味でしょう。少なくとも騎乗してという意味ではありません。

 有名な日本武尊も,歩いて諸国を巡ったようです。五十葺山(いぶきやま,現在の伊吹山)の荒振る神を征伐しに出かけたときは,尾張国の宮簀媛(みやずひめ)の家から「徒に(たなむでに)行でます」とあります(景行天皇40年是歳)。すなわち,歩いて行ったのです。

 学者さんによっては,崇神天皇が騎馬民族であり,征服王朝を作ったとしています。しかしこの学者さんは,日本書紀を読んでいません。たぶん,日本神話を軽視しているのでしょう。


騎馬民族は来ていない

 応神天皇の時代になって,百済王は,阿直伎を遣わして良馬2匹を奉りました。応神天皇は,この馬を「軽の坂上の厩」で飼わせました。だから今(日本書紀編纂時),その馬を飼ったところを,「厩坂(うまやさか)」といいます(応神天皇15年8月)。

 この記事に登場する馬は,もはや農耕用の馬ではないのでしょう。農耕とは無関係の良馬が献上されたので,大事に飼ったという記事でしょう。当然これは,雄雌であり,繁殖用に供されたのでしょう。この馬は軍事用だったのではないでしょうか。

 景行天皇からさらに下った応神天皇の時代でさえ,良馬2匹が特別の貢ぎ物,貴重品として扱われています。騎馬民族であれば,良馬を受け取るのではなく,むしろ贈与する立場に立つでしょう。

 日本書紀の叙述と文言は,騎馬民族の渡来を否定しています。


馬が戦闘に使われるのは仁徳天皇以降だ

 次の仁徳天皇の時代になると,明らかに騎馬が登場します。
 仁徳天皇は,朝貢を怠った新羅を討つために将軍「田道(たぢ)」を派遣します。田道は,「精騎(すぐれるうまいくさ)を連ねて」,新羅軍の左方を攻撃し撃破しました(仁徳天皇53年5月)。ここに言う「精騎」は,騎兵のことです。応神天皇の時代に渡来した馬が,戦闘に使われ始めたようです。しかしまだ一般的ではなかったので,「精騎」を使って勝利した話が,ここに掲載されたのでしょう。

 仁徳天皇の子の履中天皇の時代になると,さらにはっきりします。
 履中紀は,住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の叛乱から始まります。去来穂別皇子(いざほわけのみこ,後の履中天皇)の妃(みめ)黒媛(くろひめ)を犯した住吉仲皇子は,去来穂別皇子を殺そうとして密かに軍を興して,「太子(ひつぎのみこ)の宮を囲む」。この時,平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね),物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね),漢直の祖阿知使主(あやのあたいのおやあちのおみ)の3人は,太子を「馬に乗せまつりて逃げぬ」。

 これは,歩兵が宮を囲んだが,馬に乗って素早く逃げたということでしょう。去来穂別皇子等は,「馳せて」大阪から倭を目指します。途中,竜田山越えのとき,数十人の歩兵が追って来ます。去来穂別皇子は,「何ぞ歩行ること(おいきたること)急き(とき)」,すなわち,歩行なのにどうしてあれほど速く追ってくるのか,敵だろうかと述べます。

 ここでの追っ手は「歩行」です。馬はまだ一般的ではなかったのです。この追っ手を捕らえた去来穂別皇子の一行は,ようやく石上神社にたどり着くのです。

 ここでは,馬が大活躍しています。馬があったからこそ,素早く倭(やまと)まで逃げられたのでした。しかし,まだ一般的ではなかった。だからこそ馬に乗って逃げたというエピソードが,エピソードとして成立しているのです。

 この履中天皇は,乗馬が好きだったようです。履中天皇5年3月,天皇は淡路島で狩りをしましたが,「河内飼部(かわちのうまかいべ)」が天皇に従い,馬の手綱をとりました。このころは,戦闘だけでなく,日常にも使われ始めたようです。


騎馬が一般化するのは允恭天皇以降だ

 履中天皇の弟の允恭天皇の時代になると,日常使われた例が出てきます。
 闘ゲ国造(つげのくにのみやつこ)は,のちに皇后となる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の家のそばを「馬に乗りて」行きます。そこで忍坂大中姫を見つけてからかいます(允恭天皇2年2月)。

 また,同じく允恭天皇の時,反正天皇の殯(もがり)を命ぜられた玉田宿禰は,人々が皆集まっているのに出席せず,さぼって酒宴を張っていました。これを見つけた尾張連吾襲(あそ)に,発覚を恐れて「馬一匹」を授けます。要するに賄賂です。馬1匹が,高価な賄賂だったのです。

 允恭天皇の子,雄略天皇の時代になると,馬は一般化します。市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を射(い)殺したのは,狩りに誘った馬上だったし(雄略天皇即位前紀),「甲斐の黒駒」は有名だったようですし(雄略天皇13年9月),その他あらゆるところに馬が登場します。

 このように,日本書紀の叙述から見ると,騎馬の風習が崇神天皇や応神天皇の時代に,一気にやってきたとすることはできません。応神天皇の時代から飼われ始め,徐々に広まっていったと見るべきです。


垂仁天皇や仁徳天皇は池や堤を作り反正天皇は五穀を作る

 問題は馬だけではありません。
 垂仁天皇は,高石池,茅渟池,倭の狭城池,迹見池をつくり,多くの池溝(うなで)をつくりました。その結果百姓豊かになり。「天下太平」となりました(垂仁天皇35年)。すなわち,国が豊かになり平和になることが,灌漑土木工事との関連で語られているのです。

 応神天皇も仁徳天皇も,池や用水をたくさん作ります。特に仁徳天皇は,大溝(おおうなで)を河内に作ってその一帯を潤し,「四万余頃」の「田」を得ました。それによりその一帯の百姓は大いに豊かになり,飢饉の心配がなくなったとしています(仁徳天皇14年)。また反正天皇の時代には,「五穀」がよく実り,百姓が豊かになって「天下太平」とされています(反正天皇元年10月)。

 このように,国が豊かになり平和になることは,常に,農作物との関連で語られているのです。


血を嫌う神伊奘諾尊は馬を飼い肉を食う騎馬民族ではない

 以上の事実の他に,神の性格という問題もあります。

 履中天皇は,淡路島で狩をします。その際,河内飼部(かわちのうまかいべ)を同行しましたが,彼らは目の回りに刺青をしていました。島の神伊奘諾尊は,その血が臭くて耐えられないと言います(履中天皇5年9月)。

 伊奘諾尊は,火の神軻遇突智を殺した神です(第5段第6の一書)。剣から滴った血から数々の神々が生まれました。それは,日本書紀の神話上,唯一無比の凄惨な場面でした。これほど血まみれの場面は他にありません。その伊奘諾尊が,たかが刺青の血が臭いと言う。これは,刺青の血が臭いというより,飼部が臭いと言ったのでしょう。飼部は,馬を飼う人々です。彼らが連れてきた馬が臭いと言ったのではないでしょうか。

 そもそも,血が臭いという神は,魚を食ってきた神です。肉を食ってきた神は,こんなことは言いません。
 伊奘諾尊を祖神としていつき祭る人々は,騎馬民族ではありません。


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