第39 三種の宝物の意味するもの |
日本書紀の天孫降臨に三種の宝物はない さて,高皇産霊尊は山幸彦であり,そのアイテムは,天羽羽矢であり真床追衾でした。これに対し海洋神であり日の神でもある,後代言うところの天照大神が海幸彦であり,そのアイテムは釣り針でした。そして私は,南九州西岸の吾田の地で,この2神が混交したと述べました。 ですが,一般には,鏡,玉,剣が,三種の宝物だと信じられています。これをどう考えればよいのでしょうか。結論から言えば,戦前の文部官僚も軍人も,コンパクトで一見平明な古事記しか理解できませんでした。ですから,現代に至るまで,三種の宝物が一般に流布してしまったのです。しかもそれが,古事記独特のいびつな「三種の宝物」とは知りもせずに。 まず何よりも,古事記を捨てて,日本書紀を把握しましょう。じつは,神話の公権的公定解釈である日本書紀第9段本文には,三種の宝物が登場しません。まったく無視されています。本文どころか,第9段の一書全体を見渡しても,三種の宝物は影が薄いのです。むしろ,高皇産霊尊とワンセットで登場する真床追衾(まとこおうふすま)が中心になっています。 日本書紀を整理すると,以下のとおりです。 (命令者) (アイテム)
高皇産霊尊が真床追衾で天孫をくるんで降臨させるというのが,むしろ原則です。世上いわゆる三種の神器,三種の宝物は,例外にすぎません。命令者が天照大神である伝承も,むしろ例外なのです。 第2の一書については,少し説明が必要です。 それはともかく,高皇産霊尊が鏡と結びついているのではありません。鏡は,あくまでも天照大神と結びついています。剣と玉がない理由はわかりません。高皇産霊尊とセットで登場する真床追衾が無視されているのは,天照大神の鏡に気圧されたからでしょうか。とにかくこの異伝は,小説的装飾が多く,素朴な伝承ではありません。そうした意味で,筋を通して古来の伝承を考える気にはならない伝承です。 要するに,古来の伝承の中では,天照大神と三種の宝物の伝承は異端だったのです。ただそれが,第1の一書として真っ先に取り上げられていることからすれば,有力な異伝だったとは言えるでしょうが。 古事記はどうなっているでしょうか。 「ここにその招(お)きし八尺の勾玉(やさかのまがたま),鏡,また草薙劍,……を副へ賜ひて,詔りたまひしく,『これの鏡は,專(もは)ら我が御魂として,吾が前を拜(いつ)くが如拜き奉(まつ)れ』」。 すでに述べましたが,日本書紀第9段第1の一書こそが,原初的な形の三種の宝物を語っています。古事記ではありません。ここには,鏡,玉,剣が並列的に並べられています。これが本来の三種の宝物です。古事記は,三種の宝物を並列的に並べたあと,鏡だけを特に取り上げて重視しています。その,鏡を重視した伝承が,第9段第2の一書なのでした。 ですから古事記ライターは,三種の宝物という観念(第1の一書)を前提に,わが鏡をいつき祭れという天照大神礼賛の異伝(第2の一書)をも取り入れて,古事記独特の三種の宝物を作り上げているのです。
さてここまでくると,高皇産霊尊とは関係なく,天照大神とだけ結びついた三種の宝物の神話とは,いったい何だろうかという疑問にぶち当たります。これまで検討してきたところによれば,@高皇産霊尊と真床追衾の伝承の方が古く,A天照大神と三種の宝物の伝承は新しい異伝である,という感じがいたします。 その前に,真床追衾の意味を検討しておきましょう。 高皇産霊尊は,天孫を「真床追衾(まとこおうふすま)」に覆って降臨させます。 確かに第10段第4の一書では,海神の宮を訪れた彦火火出見尊が真床追衾の上に座ったので,天つ神の子孫であることがわかったとしています。また同じく第4の一書では,豊玉姫が幼児ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトを真床追衾と草(かや)に包んで渚に置いて去ったとしています。 真床追衾は,王座に座る者の証明のようです。しかも,朝鮮,大陸系の神が行う儀式に関連しています。私は今まで,高皇産霊尊こそが,朝鮮からやってきた神だと論じました。 真床追衾は,まさに,高皇産霊尊を象徴するアイテムなのです。
では,三種の宝物の意味は何でしょうか。じつは,仲哀天皇8年正月の段に,三種の宝物の意味が書かれています。 筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)五十迹手(いとで)は,筑紫に遠征してきた仲哀天皇を船で迎えます。船の舳先には賢木(さかき)を立て,その上枝には八坂瓊,中枝には白銅鏡,下枝には十握剣をとり掲げています。そして五十迹手は,これらを奉った由縁を天皇に述べます。八坂瓊の勾(まが)れるがごとく天の下を支配しなさい,白銅鏡のように山川海原を見てください,十握剣を携えて天の下を平定してください,そうした意味なんです,と。 八坂瓊は,天の下支配の根拠を示すアイテムです。白銅鏡,すなわち鏡は,天の下を俯瞰する眼であり太陽です。十握剣は,天の下を支配する軍事力です。しかもこれらは,船に乗ってやってきた五十迹手ら海洋民,すなわち海人(あま)が自ら携えてきたのです。 真床追衾とは異なり,三種の宝物は,海洋神天照大神(当時は単なる日の神)と結びつくのです。
これを基に,私なりの解釈を加えてみましょう。 まず,八坂瓊の曲玉です。八坂瓊の曲玉は,第7段第3の一書に「八坂瓊の曲玉」として登場します。名前はまったく同じです。しかしそれは異伝でしかありません。やはり,本文をまず見るべきです。そこには,「八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)」とあります(第7段本文)。「御統」とは,たくさんの勾玉(曲玉)や管玉をひもで貫いて輪にした飾りで,頭や腕や手に巻いて使ったアクセサリーです。ですから,八坂瓊の曲玉を含んだ御統という意味です。 そしてこの言葉は,実は第6段本文にも登場していました。素戔鳴尊と天照大神が誓約をしてそれぞれの「物根(ものざね)」を交換し,神々を生み出す,あの美しくもリズミカルで,神話的香りの高い場面です。素戔鳴尊は,男装した女神天照が頭や腕に巻いていた「八坂瓊の五百箇の御統」を受け取り,それを「天真名井(あまのまない)に濯ぎて(ふりすすぎて),さがみに咀嚼(か)みて,吹き棄つる気噴の狭霧(ふきうつるいぶきのさぎり)に」(第6段本文)神を生んでいくのでした。 「八坂瓊の五百箇の御統」,すなわち「八坂瓊の曲玉」は,女である天照大神が身体につけていた装飾品であり,天照大神直系の子を生成した種であり,天照大神直系の子であることの証明なのです。
さらにそれは,素戔鳴尊の子であることの証明でもありました。 第6段本文の誓約による神々の生成は,「物根(ものざね)」を交換した上での生成であり,生命の基礎である卵子に精を吹き込んで誕生させたという意味で,基本は生殖行為なのでした。そこにすばらしい神話的,言語的脚色を加えたのでした。 ですから,「八坂瓊の五百箇の御統」,すなわち「八坂瓊の曲玉」は,素戔鳴尊の子であることの証明でもあるのです。前に論証したとおり,素戔鳴尊の子大己貴神は,神武東征以前に,天の下全体を支配していました。だから,天照大神の直系というだけでは片手落ちになります。素戔鳴尊の子孫であり,大己貴神とは異系統の子孫であることを証明するアイテムが必要なのです。 だからこそ,仲哀天皇を迎えた五十迹手は,八坂瓊の勾(まが)れるがごとく天の下を支配しなさいと述べました。八坂瓊の曲玉は,まさに天の下支配の正統性の根拠(天照大神の直系の子孫であり,同時に素戔鳴尊の子孫でもあること。)を示すアイテムなのです。
これは,しょせんフィクションです。誓約の叙述が,正当性の契機を述べるためのフィクションなのですから,玉もフィクションです。だからこそ,その後の日本書紀の叙述では,八坂瓊の曲玉は影が薄いのです。2つの神の関係を説明することなど,必要な時に必要なだけすればいいことであり,生きている人間の生活に根付いた信仰ではありません。 たとえば,水路工事に難渋した神功皇后は,武内宿禰に命じて「剣鏡を捧げて」神祇に祈らせます(神功皇后摂政前紀)。玉はありません。 日本書紀の叙述上は,要するに,鏡と剣なのです。玉はありません。 日本書紀からおよそ90年後の807年に成立した古語拾遺でさえ,「八咫鏡及び草薙剣の二種の神宝」が天孫に授けられたとしています。その他,神祇令・践祚条や延喜式・大殿祭の祝詞も,鏡と剣としています。 玉は,一貫して無視されているのです。
八咫鏡は,天照大神の象徴です。 第7段本文の天岩窟の場面では,「五百箇(いおつ)の真坂樹(まさかき)」に「八坂瓊の五百箇の御統」とともに掲げられ,天照大神を呼び出すときの祈祷に使われます。 だからこそ,仲哀天皇を迎えた五十迹手は,白銅鏡のように山川海原を見てくださいと述べたのです。八咫鏡,白銅鏡,すなわち鏡は,天の下を俯瞰する眼であり太陽であり,天照大神の象徴なのです。
草薙剣は,素戔鳴尊の象徴です。 第8段本文では,出雲に降った素戔鳴尊が八岐大蛇を退治して,その尾から草薙剣を取り出します。素戔鳴尊は,これを天つ神に献上します。すなわちこれは,猛き素戔鳴尊の象徴です。 だからこそ仲哀天皇を迎えた五十迹手は,十握剣を携えて天の下を平定してくださいと述べたのです。十握剣は,天の下を支配する軍事力の象徴であり,素戔鳴尊の象徴でもあるのです。
前述したとおり,南九州の西海岸,吾田地方にいた海人は,海洋神である日の神,後世言うところの天照大神をいつき祭っていました(海幸彦)。そこに,高皇産霊尊をいつき祭り,天羽羽矢を持つ氏族が朝鮮からやってきました(山幸彦)。こうして吾田の地において,2つの氏族の血が混じりました。朝鮮からやって来た人々は,吾田を支配します。だからこそ海神は,真床追衾の上に座る彦火火出見尊にひれ伏します(海幸彦山幸彦の物語)。 天孫が天降ってから179万2470年後,彦火火出見尊(山幸彦)の直系の子孫である神武天皇は,「東征」を決意します。 当時,大己貴神をいつき祭る人々が,天の下を支配していました。大己貴神は,三輪山に鎮座していました。これについては,日本書紀や古事記に残されている根拠を,これでもかと言うほどあげておきました。 天の下を支配していた大己貴大神は,大和国を「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼びましたが,次に河内大和地方を支配した饒速日命は,「虚空見つ日本の国」と呼びました(神武天皇31年4月)。そして神武天皇は,大和だけを支配して,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称え,「秋津洲」と呼びました。 こうして,吾田で混血し,高皇産霊尊に加えて日の神=海洋神(後世言うところの天照大神)をいつき祭った人々は,さらに大和の三輪山にやってきて,大己貴神と出会いました。 こうなると,大己貴神との関係を説明しなければなりません。それが,日本書紀第6段の誓約の叙述であり,神々を生むアイテムとしての玉なのでした。出雲支配の正当性の契機,天照大神が提供した卵子でした。 さて,日本書紀第9段の命令者とアイテムに戻ります。 本 文 高皇産霊尊 真床追衾 問題は,第1の一書です。玉をアイテムとする伝承はこれしかありません(古事記はこれから派生した伝承ですから,検討の対象外です)。玉は,大己貴神をいつき祭る氏族と天照大神をいつき祭る氏族との混交を説明しているのです。天照大神と出雲との関係を説明する玉。観念的な説明にすぎない玉。そして,実際の歴史では無視されてきた玉。持統天皇の時代でさえ,「神璽の剣・鏡」であり,玉は無視されていました(持統天皇4年正月)。 玉を堂々と登場させる伝承は,後代のものであり,かなり新しいはずです。それに比べて,高皇産霊尊と真床追衾の伝承の古さがわかると思います。
さて古事記ライターは,三種の宝物という観念(第1の一書)を前提に,鏡をいつき祭れという天照大神礼賛の異伝(第2の一書)をも取り入れて,古事記独特の三種の宝物観念を作り上げたのでした。ここでは,玉も剣も鏡も,一応,三種の宝物として並べられてはいます。しかしじつは,鏡だけが特別視されているのでした。3つの宝物は,並列ではありません。 古事記には,こうした新しさがあります。
それだけではありません。高皇産霊尊をいつき祭る氏族と日の神(後にいわゆる天照大神)をいつき祭る氏族の混交。これに加えて,大己貴神をいつき祭る氏族との混交。 三種の宝物は,高皇産霊尊+天照大神が,出雲の神と混交していった経緯を象徴しています。古事記の伝承は,極めて特殊であり,極めて巧みであり,だからこそ新しいものです。こうした観念の操作ができるのは,伝承として新しいはずです。 日本書紀も古事記も十把一絡げにして,三種の宝物が天皇の象徴であると考えてはいけません(これを全体的考察という)。日本書紀はそんなことを言っていません。そのなかの特殊な異伝を基に,古事記ライターがリライトしたものが,世上いわゆる三種の宝物,三種の神器なのです。
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