第40 海幸彦山幸彦の物語を検討する

 

古事記は日本書紀第10段の集成版だ

 さて,海幸彦山幸彦に関する古事記の物語を検討していきましょう。

 例によって,日本書紀との比較になるのですが,ここでは,今までとは様相が違います。愚かな古事記ライターを笑うのではなく,むしろその洗練を取り上げることになります。

 日本書紀第10段の本文と,その異伝である一書は,それだけを読んでいる限り,あまり面白くありません。だいたい大筋で一致していますし,一書の存在意義がそれほど明確ではないからです。しかし,第10段は,何よりもまず古事記を読むことによって見えてくるのです。なぜならば,古事記がその集成版だからです。この集成版と対比することによって,本文や一書の違いや価値が,しっかりと見えてくるのです。

 それにしても古事記ライターは,海幸彦山幸彦のいわゆる日向神話の場面では,絶好調です。それまでの高御産巣日神やら天照大御神とはおさらばして,いわゆる日向神話の世界で,全体的構成や体系的問題にとらわれることなく,筆をふるっているように見えます。材料は目の前にあります。それを駆使して,小説的才能を存分に発揮しています。


何を交換したのかがわからない

 とは言っても,やはり,きちんとリライトできなかったことを示す,恥ずかしい文章はあります。

 海幸彦と山幸彦の話は,海幸彦の釣り針と山幸彦の弓矢を交換するという場面から始まります。日本書紀でこのいわゆる幸替え(さちがえ)の部分を叙述するのは,第10段本文,第1の一書,第3の一書ですが,すべて弓矢(または弓)が出てきます。当然です。何と何を交換したかがわからなければ話が進まないからです。

 ところが古事記では,山幸彦が持っていたはずの弓矢が出てきません。裏返して言えば,山幸彦が釣り針を受け取ったことは述べられるのですが,海幸彦が山幸彦から何を受け取ったのかは,まったく述べられません。山幸彦が海幸彦に,「各(おのおの)さちを相易へて(あいかえて)用いむ。」と述べるだけです。そしてその後は,釣り針を失った山幸彦と,それを責める海幸彦を描写するだけです。

 あたかも,何と何を交換したかは読者が知っている,というような書き振りです。

 小さなことのようですが,いい加減な古事記ライターを知っている私には,見逃せません。それぞれの持ち物を交換したが,一方が返せなくなったというのが,このお話の本筋です。何を交換したかが,物語の出発点なのです。ですから,本当に原初的なお話しであれば,それをきちんと書くはずです。

 しかし,「さち」を返せなくなった者の方に叙述の焦点が向けば,返せなくなった物が何かだけに目がいきます。海幸彦が返したであろう弓矢は,もはや問題ではなくなるのです。

 こんなところにも,古事記ライターのリライトの跡がはっきりと残っています。


山幸彦が責められる理由がはっきりしている

 それが証拠に,古事記の叙述は,釣り針を失った山幸彦の責任と,それに対する海幸彦の怒りに,焦点をびしっと合わせています。だからこそ山幸彦は,「泣き患(うれ)へて海辺に」さすらい,鹽椎神(しおつちのかみ)に出会うのです。

 「ここに火遠理命(ほおりのみこと,山幸彦のこと),その兄火照命(ほでりのみこと,海幸彦のこと)に,『各(おのおの)さちを相易へて(あいかえて)用いむ。』と謂ひて,三度乞ひたまへども,許さざりき。然れども遂に纔(わづ)かに相易ふることを得たまひき」。しかし山幸彦は,その釣り針を失ってしまいました。

 幸替えを要求したのは山幸彦です。しかも,しつこく3度も要求したのです。しかし海幸彦はこれを許しませんでした。そして,最後の最後に,しぶしぶ承諾しました。

 ですから,交換してもらった釣り針を失うなど,もってのほかです。ここで出てくる釣り針は,ただの釣り針ではありません。食料を得る不思議な霊力があると信じられていた釣り針です。当然,海幸彦は怒ります。何度もしつこく頼むからしぶしぶ交換に応じたが,返せないとは何事だ。
 山幸彦は,一匹も魚が捕れないまま失ってしまったと告白します。しかし,海幸彦は,「強ち(あながち)に乞ひ徴(はた)りき」。すなわち,返せと強硬に主張しました。
 その気持ちはわかります。だからこそ山幸彦は,これまた大事な「十拳劔」を鋳直して,500の釣り針を作ったり,1000個もの釣り針を作りました。「十拳劔」は,武士でいえば命そのものです。それを鋳つぶしても,海幸彦は,「なほその正本(もと)の鉤を得む」と主張しました。

 一般には,釣り針を返せと強引にねじ込んだ海幸彦が悪く描かれます。しかし古事記は違うのです。強引に幸替えを要求したのは山幸彦だ。だからこそ,返せと要求する海幸彦は,相対的に,悪人ではなくなります。

 こうして,山幸彦が「泣き患(うれ)へて海辺に」さすらう理由が強調されます。そして,鹽椎神(しおつちのかみ)に出会う場面につながっていくのです。

 叙述としては,洗練されていると思います。


日本書紀の叙述をソフィスティケイトしたのが古事記だ

 このように古事記は,物語として非常に流れがよいのです。

 日本書紀はどうでしょうか。

 本文は,「始め兄弟二人,相謂ひて(かたらひて)曰(のたま)はく,『試みに易幸(さちがえ)せむ』とのたまひて,遂に相易(あいか)ふ」となっています。第1の一書も同様です。
 ですから,幸替え自体については,兄弟の責任は同等です。海幸彦は「益(ますます)復急め責る(せめはたる)」。山幸彦は,「憂へ苦びますこと甚深し」。こうなっていますが,そこまで攻める必要もないし,悩む必要もないでしょうと言いたくなってしまいます(本文)。

 第3の一書では,叙述上の流れの悪さが極端に出ています。幸替えを要求するのは海幸彦です。山幸彦はこれを許す立場です。ところが海幸彦は,山幸彦が申し出た数千の代償の釣り針を拒否して,怒りまくります。確かに釣り針をなくしたのは山幸彦の落ち度です。しかし,幸替えを要求したのは海幸彦自身ではないですか。少しは許してやれよ。

 要するに,日本書紀の本文も一書も,叙述の流れが悪いのです。しかも,古事記のように,山幸彦が3度も幸替えを要求したという伝承は,どこにもありません。
 これに対して古事記は,@ 山幸彦が3度も幸替えを要求したと叙述することにより山幸彦の落ち度を強調し,A なくなった釣り針に対する海幸彦の対応だけを叙述することにより,物語を簡明にしているのです。

 明らかに古事記の方が新しい伝承です。古事記ライターは,日本書紀を下敷きにして,洗練した物語を書いています。


五七調の台詞はいつの時代か

 そうした意味で気になるのが,釣り針を返せという時の海幸彦の台詞です。「山さちも,己(おの)がさちさち,海さちも,己がさちさち。今は各さち返さむ」。

 山の獲物も海の獲物も自分の道具で捕まえるのだから,お互いに返そうという意味です。
 問題は内容ではありません。「山さちも,己がさちさち,海さちも,己がさちさち」という部分は,明らかに五七調です。

 五七調の文章は,いつどの時代に成立したのでしょうか。それが一般的になるのはいつの時代でしょうか。


日本書紀の山幸彦が潜水艦に乗って海辺に到着するのは変だ

 さて,次は鹽椎神(しおつちのかみ)との出会いの場面です。海岸を憂えさまよった山幸彦は,鹽椎神に出会い,そのはからいで綿津見(わたつみ)の宮へ行きます。

 問題は,乗り物です。日本書紀第10段本文は,無目籠(まなしかたま)を作って,山幸彦を「籠(かたま)の中に内(い)れて,海に沈む」。そしてそれが,海神の宮に到着するという設定です。
 無目籠は,竹を隙間なく交互に編んで作った,編み目の詰んだ籠のような物です。その中に入れて海に沈めたというのですから,潜水艦のような物でしょう。

 これはこれで,ひとつの合理的な記述です。綿津見の宮は海中にあるのですから。しかしそのまま読んでいくと,「自然に可怜小汀(うましおはま)」すなわち美しい小さな浜辺に着いたときますから,読者はやはり混乱します。海中に浜辺なんてあるのか。浜辺ならばなぜ潜水艦に乗って海中に潜るのか。

 第1の一書も,同様に,潜水艦と「可怜小汀」のストーリーです。


古事記は不自然でないように叙述している

 これに対し第3の一書はちょっと違います。
 「無目堅間(まなしかたま)の小船を作りて」,海の中に推し放ったところ,「自然に沈み去る」のです。でもそれで,ちゃんと海中にある「可怜御路(うましみち,すなわち美しい道)」をたどり,海神の宮に至るのですから,予期に反して沈んだのではありません。船に乗って船出したが,ぶくぶくと沈没してしまったのではありません。「小船」とはいいますが,初めから海中を航行するために作られた「小船」であり,やはり潜水艦のような物です。

 ただ,海神の宮に着いたというだけで,「可怜小汀」は出てきません。ですから,読者が混乱することはないのです。「可怜」は,海岸ではなく海中にある道を褒める言葉として使われています。

 じつは,これと同様の経過をたどるのが古事記なのです。古事記における山幸彦もまた,「无間勝間(まなしかつま)の小船」で船出します。しかし,「自然に沈み去る」(第3の一書)点は省略するのです。船が沈むのはやはり不自然だからです。そのかわり,「味し(うまし)御路」があって,それをたどる点は第3の一書を採用しています。「可怜小汀」は出てきません。

 こうして,全体として,日本書紀本文と一書の不自然なところをカットし,読んでいて抵抗のない文章になりました。

 古事記ライターは,第3の一書をさらにリライトし,自然に読めるようにしているのです。


鹽椎神の企みをまとめて台詞にしたのは古事記ライターの配慮であり暴挙である

 自然に読めるという意味では,鹽椎神の台詞自体がそうなのです。

 日本書紀に登場する塩筒老翁は,「吾(われ)当(まさ)に汝の為に計(たばか)らむ」と述べるだけで(本文),どんな企みなのかが一向にわかりません。塩筒老翁は,山幸彦に何の説明もせず,無目籠を作ってその中に山幸彦を入れて海に沈めます。
 潜水艦などどこにもない時代のこと。山幸彦にしてみれば,殺されるのじゃなかろうかと,不安になるに違いありません。読者としても,いったいどうなるのかと,不安になってしまいます。第1の一書も第3の一書も同様です。

 ですが,だからこそ,塩筒老翁の神秘性が高まるのです。古来の神話らしいのです。確かに,物語としては不自然です。しかし山幸彦は,神秘的な塩筒老翁を信じて,わけがわからないまま海に沈んでいったととっておくのが,神話の正しい読み方なのでしょう。

 そうした,神話の奥深さとでもいうものが理解できず,我慢ならなかったのが古事記ライターでした。神の整理と羅列が好きなくせに,神話の本質や神秘的な話が理解できなかったのが,古事記ライターでした。
 我らが古事記ライターは,鹽椎神の企みを,すべて鹽椎神自身に語らせてしまいました。小船を造って山幸彦を乗せた鹽椎神は,出発前に説明します。これで船出すれば美しい道があるから,それをたどっていけば綿津見の宮に着く。門の傍らに井戸があり,その横に桂の木があるから,その上に登りなさい。海神の娘が見つけて相談に乗ってくれるでしょう。

 その説明の中には,「魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや),それ綿津見神の宮ぞ」という説明まであります。魚の鱗で造ったような壮麗できれいな宮殿という意味です。非常にわかりやすい。まるで,浦島太郎のお伽噺を聞いているような気分になります。

 とにかく,鹽椎神の神秘のヴェールをはぎ取り,鹽椎神自身に,あられもない説明をさせてしまったのが古事記ということになります。

 ところで,塩筒老翁の企みをまとめて台詞にしたという点では,第4の一書があります。これは,後に述べるとおり,従者と山幸彦との出会いが立体的,映像的で,古事記の叙述に最も近い異伝です。古事記ライターは,ここらあたりを参考にしたに違いありません。


山幸彦と豊玉毘賣の出会いの場面は古事記が一番美しいし巧みだ

 次に来るのが,山幸彦と豊玉毘賣の出会いの場面です。

 山幸彦は,鹽椎神が言ったとおり,井戸の脇の桂の木に登ります。すると,海神の娘豊玉毘賣の従者が,水を汲みにやってきます。井戸にかがみ込んで水を汲もうとしたその瞬間,水面に影がよぎります。はっと思って振り返り,仰ぎ見ると,そこには「麗しき壮夫(おとこ)ありき」。
 その山幸彦は,木の上から水をくれと言います。しかし,水自体は飲まずに,首にかけていた玉を吹き入れて,器にくっつけてしまいます。玉は,高貴なお方であることの象徴です。こうして,自分が高貴な出自であることを訴えます。

 従者は,玉がくっついたままの器で水を汲んで,豊玉毘賣に献上します。山幸彦のことは言いません。しかし,玉に気づいた豊玉毘賣は,「もし人,門の外にありや。」と問います。そこで従者は,今までのことを説明します。豊玉毘賣が玉に気づかなければ,山幸彦と出会うこともなく,そのまま話は終わっているという設定です。

 「奇し(あやし)」と思った豊玉毘賣は,ここで初めて外に出ます。山幸彦と出会った豊玉毘賣は,「すなはち見惑(め)でて,目合(まぐわい)して」,父たる海神に,「吾が門に麗しき人あり」と報告するのでした。

 どうです。素晴らしく映画的で,巧みな表現じゃないでしょうか。

 豊玉毘賣といきなり出会うのではありません。宮殿の奥にいる雅なお姫様は,水汲みなどしません。水汲みの従者を介して出会うのです。
 水を汲もうと,かがんだときに映る不安な影。はっとして上を振り仰ぐと,麗しい男が木の上にいます。不安な影は,麗しい男の影でした。その男が,女を見下ろしています。不安が,一瞬のうちに感動に転化します。高低差を使った立体的で巧みな描写。映画的な場面転換です。

 山幸彦は,玉で象徴されます。従者は,玉がくっついた器を持って宮殿にはいっていきます。それは,山幸彦が放った赤い糸です。従者の動線それ自体が赤い糸になり,豊玉毘賣に向かって伸びていくのです。
 そして雅なお姫様は,めざとく,高貴な者だけが身につけている玉に気づきます。もしや人がいるのでは。ここでめでたく,山幸彦が放った赤い糸は豊玉毘賣に結びついたのです。あとは出会うだけです。玉に気づかなければ,山幸彦との出会いはなかったでしょう。そうした男女の出会いの,はかなささえあります。
 従者の報告を聞いて確かめに行くのは,もちろん豊玉毘賣自身です。そして,たちまちのうちに「見惑でて,目合して」,男女の出会いが成就します。そこに,父たる海神は介在しません。

 私は,古事記のこの場面こそ,日本書紀と古事記を通じて,最高に現代的な場面だと思います。近代的という表現を突き抜けて,極めて現代的な表現です。そのまま映画にしてもいい。

 かつて,この場面のすごさを指摘した人がいたでしょうか。


しかし残念ながら日本書紀第10段第1の一書の異伝などのリライト版だ

 しかし残念ながら,日本書紀第10段第1の一書に紹介されている,さらなる異伝のリライト版でしかないのです。

 その異伝はこうです。豊玉姫の従者が水を汲もうとしたが,器に一杯にならなかった。かがんで井戸の中を見ると,笑っている人の顔が逆さまに映っていた。振り仰いで見ると,麗しき神が桂の木に寄りかかって立っていた。従者の報告を聞いた海神は,人を使わして誰か問いただす。
 桂の木に寄りかかっているだけでは,なぜ従者が気づかなかったという疑問がわきます。木の上にいたというところが,古事記ライターの工夫です。

 本文にも,振り返るという動作は出てきます。しかし,水を汲む動作に続く振り返るという動作が,いかにも平面的で,劇的な印象を作れずに終わっています。やはり,井戸の底の水面に映った影に驚き,上を見上げて山幸彦を発見するのでなければ面白くありません。また,振り返ったときに,山幸彦がすぐそこにいるというのもいただけません。なぜ気づかなかったのかという疑問がわくからです。

 その他,第1の一書から第4の一書までには,@従者が水を汲む,A水面に影が映る,B振り返って仰ぎ見る,C山幸彦が木の上にいる,という要素が原初的な形で,あるいは洗練された形で散らばっています。しかし,これらの要素すべてをそろえ,しかも玉を付け加えて赤い糸を連想させる叙述は,古事記だけです。

 古事記の叙述には無駄がありません。たんたんたんと,必要最小限の文章を連ねていきます。たとえば,映像的なことではもっとも古事記に近い第4の一書は,「人影の水底に在るを見て,酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫を見つ」としています。しかし,「酌み取ること得ず」は無用というばかりか,劇的効果を著しく減殺しています。古事記は,「水を酌まむとする時に,井に光ありき。仰ぎ見れば,麗しき壯夫有りき」となっています。じっくりと読み比べてみてください。

 物語のプロット,構成要素,無駄を省いた文体。そのどれをとっても完成されているのが古事記です。逆に,日本書紀の本文や異伝には,ごつごつした読み応えの,原初的な伝承が残されています。


第10段第4の一書はひどい

 話はそれますが,映像的なことではもっとも古事記に近い第4の一書は,いい加減です。

 その書き出しは,兄である火酢芹命が山の幸を得て,弟である火折尊が海の幸を得たという始まりです。これは逆です。弟の火折尊が本来は山幸を得ていたが,海に出て釣り針をなくしたというのが話の発端だったはずです。そんな間違いを平気でする出来の悪い伝承なのです。

 また,たとえば,以下の叙述があります。
 塩筒老翁は,釣り針をなくして憂いさまよっていた彦火火出見尊(火折尊)に対し,八尋鰐を紹介する。八尋鰐は海神の乗る駿馬である。八尋鰐は8日で海神の宮に連れて行ってくれる。しかし八尋鰐は,「我が王の駿馬は一尋鰐魚(ひとひろわに)」であり,1日で海神の宮に行けると言う。そこで「今我帰りて」海神の宮にいる一尋鰐を呼んでくることになり,彦火火出見尊は海浜で待つ。8日待っていると,一尋鰐がやってきた。こうして彦火火出見尊は一尋鰐に乗って海神の宮へ行った。

 これを一読してお話の破綻がわかったでしょうか。

 八尋鰐は一尋鰐を呼ぶために片道8日で海神の宮に行きます。その話を受けて一尋鰐が直ちに出発すれば,1日で彦火火出見尊が待つ海浜に到着します。合計9日です。8日待ったというのは誤りです。
 そんなことよりも,八尋鰐がわざわざ片道8日かけて一尋鰐を呼んでくるのを待っているより,そのまま乗っていった方が早いはずです。8日で海神の宮へ行けます。

 こうした矛盾は一見微笑ましい。しかし,昔から本当に人口に膾炙した伝承であれば,こうした誤りは必ずどこかで訂正されはずです。子供に語っている老人が,9日じゃないの,そのまま八尋鰐に乗っていった方が早いんじゃないの,と反論されて笑われるようなものは,伝承ではありません。そうした嘲笑をかいくぐって鍛えられたものが,立派な伝承というものでしょう。


豊玉毘賣が自分で山幸彦を見に行く

 さて,従者の報告を受けて「奇し(あやし)」と思った豊玉毘賣は,ここで初めて外に出ます。山幸彦と出会った豊玉毘賣は,「すなはち見惑(め)でて,目合(まぐわい)して」,父たる海神に,「吾が門に麗しき人あり」と報告します。

 前述したとおり,従者の報告を聞いて確かめに行くのは,豊玉毘賣自身です。そして「見惑でて,目合して」,男女の出会いが成就するのです。あくまでも男と女の出会いを描いているのですから,自分で見に行きます。父たる海神は関与しません。
 古事記ライターは,絶好調です。

 前述した第10段第1の一書の異伝は,従者から報告を受けた海神が,人を使わして誰なのか聞かせたとしています。王者は自分で見に行きません。雅な姫も自分で見に行きません。それはそれで伝統的な王者の対応の仕方なのですが,これでは,男女の出会いが台無しです。
 第4の一書は,山幸彦が木の上におり,立体的な描写という意味で一番古事記に近い異伝でした。しかしここでは,従者が山幸彦の登場を報告する相手は,海神になっています。そして,直ちに山幸彦の歓待の場面に移ってしまうのです。豊玉姫はヒロインになっていません。

 やはりこの点でも,古事記の方がはるかに洗練されています。古事記ライターは,豊玉毘賣を,一貫してヒロインとして扱っているのです。


虚空津日高は高貴な方なのでなぜここにいるのかを問わない

 麗しい人がいるという豊玉毘賣の報告を聞いた海神は,自分で山幸彦を確認し,「この人は,天津日高の御子,虚空津日高ぞ」と叫びます。

 ここで海神は,天つ神の子を虚空津日高だと断定しています。一方,神武天皇自身が「天神の子亦多(さわ)にあり」と言うのですから(神武天皇即位前紀戊午12月),山幸彦に限らず,天つ神の子は虚空津日高と呼ばれていたのです。確かに,海辺で山幸彦に出会った鹽椎神は,「何(いか)にぞ虚空津日高の泣き患ひたまふ所由(ゆえ)は」と述べていました。してみると,うら若い豊玉毘賣はまだ知りませんでしたが,鹽椎神や海神のような大人の神は,天つ神の子を虚空津日高と呼んで,尊敬していたようです。

 門に虚空津日高がいることに驚いた海神は,早速,山幸彦を「御饗(みあえ)」して,豊玉毘賣と結婚させてしまいます。天つ神の御子,虚空津日高がなぜここにいるのか,それは確認しようとしません。

 しかし,「玉」であることだけは確かです。海神さえも平伏すべき高貴な存在だと知っているからこそ,海神は,何も考えずに娘を結婚させるのです。なぜここにいるかなんて,失礼な質問なのです。

 だからこそ古事記ライターは,山幸彦と海神が挨拶したとか,ご機嫌いかがとか,「客は是誰そ。何の以(ゆえ)にか此に至(い)でませる」(第1の一書の異伝)とかいった余計な描写は一切しません。直前に「すなはち見惑(め)でて,目合(まぐわい)して」,父たる海神に「吾が門に麗しき人あり」と報告しているのですから,あとは遘合(まぐわい)に至る儀式をするだけのことのようです。

 古事記の描写には,まったく無駄がありません。古事記ライターは絶好調です。古事記ライターにとって山幸彦とは,疑念を差し挟む余地もない「玉」だったのです。


虚空津日高の接待方法は日本書紀の集成版だ

 さて,「御饗」とは,天皇やその御子をもてなす饗宴のことをいいます。いわゆる接待です。古事記が叙述する接待は,「海驢(みち,アシカのこと)の皮の疊を八重に敷き,亦キヌ疊八重をその上に敷き,その上に坐せて,百取(ももとり)の机代の物(つくえしろのもの)を具(そな)え」というものでした。

 海驢の皮の畳はアシカの皮の敷物です。キヌ畳は絹の絨毯です。百取の机代の物は,100もあるくらいたくさんの食台に乗せられたご馳走です。言ってみれば,虎や熊の敷物を八重に重ね,その上にペルシャ絨毯あたりの高級絨毯を八重に重ね,その上に山幸彦を座らせて,次々に出てくる満貫全席のような大ご馳走をさしあげたというようなもんです。

 「玉」である山幸彦をなんとかつなぎ止めて娘と結婚させようという,海神の強い意思が伝わってきます。

 ここで,日本書紀第10段本文と一書等の異伝をまとめてみましょう。

      アシカの皮の敷物 絹の絨毯 百取の机代の物
古事記      ○      ○      ○
本 文      ?(八重の畳)?      ×
第1の一書    ×      ×      ×
第2の一書    ?(八重の畳)?      ?
第3の一書    ○      ×      ○
第4の一書    ?(真床追衾)?      ×

 要するに古事記は,全部さしあげています。八重の畳を発展させて,アシカの皮の敷物と絹の絨毯にして,百取の机代の物をも付け加えた,本文や異伝の集成版なのです。


百取の机代の物

 さてここで,「百取の机代の物」を考えてみましょう。これは,天孫降臨後,神阿多都比賣すなわち木花の佐久夜毘賣との結婚話にも出てきます。大山津見神は,木花の佐久夜毘賣との結婚に喜び,その姉石長比賣をそえて,「百取の机代の物」とともに奉りました。

 要するに,姫を献上するときの常套語なのです。

 古事記は,幾人かのライターが分担して叙述しているのではありません。ただ1人のライターが書いています。それは,この「百取の机代の物」という言葉の使い方以外にも散見されます。


ドラマティックな出会いがよく描けている

 豊玉毘賣と結婚した山幸彦は,海神の宮に3年住みます。山幸彦は,海神の宮にわざわざやって来た理由を話しません。海神も,山幸彦は無条件の「玉」ですから,ここに来た理由を問いません。ただただ,天つ神の御子が娘の豊玉毘賣と結婚して,幸せに暮らしてくれればよいのでしょう。「百取の机代の物」といい,敷物といい,下にも置かない丁重な扱いです。そして2人は3年間幸せに暮らしました。

 3年後に山幸彦は,「大きなる一歎(なげき)」をします。そこで初めて「その父の大神,その聟(むこ)に」問います。どうしたのですか。「此間(ここ)に到(き)ませる由は奈何に(いかに)」。山幸彦は,初めて,海神の宮に来た理由を述べます。海神は,魚を集めて問います。すると魚たちは,「赤海・魚(たい)」が,喉にとげが刺さってものが食べられないと嘆いていると言います。そこでその喉を探ると,釣り針が出てきました。

 ここらへんから,海神が「大神」になります。こうした適当さを笑うのは,もう止めましょう。天つ神の御子を「聟」と呼んでいる無礼さも,見ないことにしましょう。叙述に夢中になっている,絶好調の古事記ライターの「礼(いや)」なき振る舞いには,目をつぶりましょう。

 さて,山幸彦は,釣り針を探しに海神の宮に来たことを,なぜ3年間話さなかったのでしょうか。

 山幸彦自身が強引に頼み込んで,やっと手にした釣り針。それをなくしてしまったからこそ,海幸彦から強硬に責め立てられました。落ち込んで海辺をさすらいました。釣り針は何としてでも探さなければならないはずです。「その海~の女,見て相議(あいはか)らむぞ」という鹽椎神の言葉を信じて海神の宮に来ました。その予言どおり豊玉毘賣と出会えました。であれば,釣り針の話をしてさっさと帰ればいい。それが,海神の宮まで来た目的だったはずです。

 しかしそれが言えなくなってしまいました。豊玉毘賣と出会った瞬間,今までのことはすべて忘れて,「すなはち見惑(め)でて,目合(まぐわい)して」という関係に陥ったのです。釣り針の話をすれば帰らなければならない。いや,その瞬間,釣り針のことなど頭から飛んでしまったのでしょう。

 古事記ライターは巧みです。2人の関係を,「すなはち見惑でて,目合して」に凝縮しています。結構よくできたお話だと思います。


しかし日本書紀第10段本文は鈍くさい

 古事記を読むと,日本書紀第10段本文が,鈍くさくなります。

 第10段本文によれば,歓待された山幸彦は,問われるままに,海神の宮に来た理由を述べます。海神は,釣り針を探そうと,魚を集めて問います。すると魚たちは,「唯赤女(あかめ)…赤女は鯛魚(たい)の名なり…比(このごろ)口の疾(やまい)有りて来ず」と言うので,召して口を探ると,果たせるかな,失った釣り針が刺さっていました。山幸彦は,こうして釣り針を手に入れました。

 と,こうなっています。釣り針を手にしたのであれば,すぐに帰ればいい。ところが第10段本文は,段落を変えていきなり,「已にして彦火火出見尊,因りて海神の女豊玉姫を娶きたまふ」と語り始めてしまいます。そして,古事記が述べる3年後の嘆息を語り始めるのです。

 古事記との決定的な違いは,海神の宮に来た理由を述べて鯛の口に刺さっていた釣り針を探し出す場面が,豊玉姫との結婚の前に語られるという点です。古事記は,前述したとおり,結婚3年後の嘆息に続いて描かれます。

 第10段本文は,読者に,目的の釣り針を手に入れたのに,なぜ帰らないのかと,考えさせてしまうのです。確かに恋愛ゆえに帰らなかったことはわかりますが,恋愛の激しさ,劇的効果という点では極めて平板なので,帰らなくなった理由がぼやけているのです。めでたく釣り針を手に入れたけれども,「一の美人」豊玉姫に目がくらんだのかな,という感想を惹起させるだけで終わります。

 このように,古事記ライターは,日本書紀第10段本文のプロットを入れ替えることにより,劇的な効果を獲得しています。古事記がいかに巧みか。実際に読み比べてみるとよくわかります。


日本書紀第10段本文も一書も山幸彦がなぜ3年間海神の宮に留まったのかはっきりしない

 日本書紀の一書はどうなっているでしょうか。

 第1の一書は,彦火火出見尊が海神の宮に着いたとき,海神の従者が「何の以(ゆえ)にか此に至(い)でませる」と問うたとしています。しかし,それに応じて山幸彦が説明したとは書いていません。要するに,海神の宮に来た目的は曖昧なままに終わります。3年後の歎きの場面になって海神が釣り針を探し始めますが,してみると,それまでは彦火火出見尊が来た目的を知らなかったようです。知っていたら,3年経って初めて探し始めるというのもおかしいでしょう。要するに,プロット自体が曖昧です。物語として完成されていません。

 第2の一書は,3年留まるどころか,すぐ帰ったようです。山幸彦は,海神の宮に来た理由を述べます。すぐに釣り針探しが始まり,めでたく探し当てます。豊玉姫と結婚したかは定かでありません。豊玉姫との恋愛よりも,潮涸瓊の玉の叙述に焦点を当てたかったようです。
 第3の一書もまた,海神の宮到着と共に,やって来た理由を述べます。しかし釣り針探しは始まらず,3年経って帰ろうとする時にようやく始まります。
 第4の一書は,「云云(しかしかいう)」という省略がはげしいので,筋がわかりません。

 日本書紀の一書は,いずれも,釣り針を探しに来た山幸彦がなぜ3年間海神の宮に留まったのかという点が,曖昧なままです。豊玉姫に惹かれたようですが,そこがしっかりと描かれていませんから,3年後に初めて釣り針探しが始まる理由がわからないのです。


「すなはち見惑でて,目合し」で一気に解決したのが古事記だ

 だからこそ私は,伊邪那美命のヨモツヘグイを論じたとき,ここにもヨモツヘグイがあると考えました。共食の思想があると論じました。

 古事記を読まず,日本書紀の本文や一書だけを読んでいると,そう論じたくなるのです。釣り針がどうなったかにかかわらず,帰れなくなった理由があるのではないか。海神の宮に来て「共食」してしまったから,帰れなくなっていたのではないか。釣り針を探しに来たことを海神に伝えたが,海神の出したご馳走を食べてしまったからこそ,異界である海神の宮の住人になってしまい,帰れなくなったのではないか。しかし豊玉姫との生活は幸福だった。帰れないし帰りたくなかったのが真相だ,と考えたのです。

 それはそれとして,とにかく,日本書紀は,本文も一書も,釣り針を探しに来た山幸彦がなぜ3年間海神の宮に留まったのかという点が曖昧で,物語として鈍くさい。また,プロットがはっきりせず,物語としてわかりにくい。

 これらと古事記を読み比べてください。地上に帰ることも忘れて3年間同棲した理由は,「すなはち見惑(め)でて,目合(まぐわい)し」たからこそです。それを,無駄を極限まで削ぎ落とした簡潔な文章で語っています。「故(かれ),三年(みとせ)に至るまでその國に住みたまひき」という,その「故」という接続は,強烈です。有無を言わせません。

 逆に,ごつごつした日本書紀の方が,伝承としての古さを感じさせます。古事記は,これを下敷きにしてリライトしたのでしょう。


「赤女」はいったいどんな魚なのか

 さてここで,鯛に注目しましょう。古事記も日本書紀第10段本文も,鯛の口ないし喉に釣り針が刺さっていたのでした。

 前述したとおり第10段本文は,「唯赤女(あかめ)…赤女は鯛魚(たい)の名なり…」としています。地の文は,「赤女」というだけです。この赤い魚が鯛なのか伊勢海老なのかはわかりません。第1の一書には,「赤女……或いは云はく,赤鯛といふ」という異伝があります。これは,赤女ではなく赤鯛だという異伝ですから,赤女か赤鯛か,異論があったのです。第3の一書は,はっきりと「鯛女(たい)」だとしています。第4の一書では「赤女」と「口女」が登場し,「赤女は即ち赤鯛なり。口女は即ち鯔魚(なよし,ボラのこと)なり」としています。

 いずれにせよ,古来あった文献では,「赤女」が何であるか混乱があったのです。そこで日本書紀編纂者は,異伝である一書を総合して,「赤女は鯛魚(たい)の名なり」という結論に至ったのです。ただ,この部分は小さい字で挿入されていますから,後代の注釈かもしれません。

 これに対し古事記は,何の疑問ももたずに「赤海・魚(たい)」だとしています。古事記ライターは,躊躇することなく,釣り針が刺さっていたのは鯛だったとしているのです。
 何も悩まずに書けたのです。


口に刺さっていたのか喉に刺さっていたのか

 古事記は,釣り針が鯛の「喉に」刺さっていたとします。しかし日本書紀にこのような伝承はありません。本文も一書もすべて,「口」です。口に刺さって「口の疾(やまい)」にかかっていたとしています。

 確かに,釣り針が引っかかるのは魚の口です。喉までかかることはあまりありません。しかし古事記は,「頃者(このごろ),赤海・魚(たい),喉にノギありて,物得食はずと愁(うれ)ひ言へり。故,必ずこれ取りつらむ」としています。
 喉にとげが刺さってものが食べられないと嘆いている鯛がいる。釣り針が引っかかっているのではないか。早速,鯛を召して「喉を探れば,鉤ありき。すなわち取り出でて,洗ひ清(す)まして,火遠理命に奉りし」となる。このお伽噺的展開。創作的な展開。

 古事記の方がよっぽど気が利いていると思います。


海神の呪いの内容

 さて,海神は,釣り針に呪いをかけて,山幸彦に渡します。

@ 「この鉤は,おぼ鉤(ち),すす鉤,貧鉤(まぢち),うる鉤」と言って,後ろ手に与えよ。

A 海幸彦が「高田(あげた)」を作れば,あなたは下田(くぼた)を作り,海幸彦が下田を作れば,あなたは高田を作れ。私は水を掌っているから,海幸彦は3年で貧しくなるだろう。

B もし海幸彦が恨んで攻めて来たら,「鹽盈珠(しおみつたま)」を出して溺れさせなさい。もし助けを求めてきたら,「鹽乾珠(しおふるたま)」を出して生かしなさい。

 顕し世界(うつしせかい,現世のこと。)に戻った山幸彦は,そのとおりにします。果たせるかな海幸彦は「稍愈(やや)に貧しくなりて」,攻めてきました。そこで鹽盈珠で溺れさせ,助けを求めたときは鹽乾珠で生かしました。こうして海幸彦は,山幸彦に従いました。


貧しくなることだけが問題なのだから「貧鉤(まぢち)」だけで足りるのではないか

 さて,@の呪いの言葉は,この釣り針はぼんやりする針,猛り狂う針,貧しくなる針,愚かで役立たずの針,という意味です。生活力があってすばしっこい者とは正反対になるという呪いです。

 しかし結局のところ,海幸彦が「稍愈(やや)に貧しくなりて」という事実だけが問題です。であれば,「貧鉤(まぢち)」という呪文だけが必要であり,他は不要ではないでしょうか。私はそう考えます。

 そうした目で日本書紀第10段を見ると,やはりそのとおりなのです。

 本文は,「貧鉤」と言えというだけです。
 第1の一書は,「貧窮の本,飢饉の始,困苦の根」。要するに貧しくなって飢えて苦しめという呪いです。
 第2の一書は,「貧鉤,滅鉤(ほろびち),落薄鉤(おとろえち)」。これも,貧しくなって滅び衰えよという呪いです。

 これに対し第3の一書は違います。「大鉤(おおぢ),ススノミヂ(すすのみぢ)、貧鉤(まぢち)、ウルケヂ(うるけぢ)」。これは,用語は違いますが,古事記と同じ呪文です。

 しかし第4の一書は,「汝が生子(うみのこ)の八十連属(やそつづき)の裔(のち)に,貧鉤,狭狭貧鉤」。お前の子々孫々,未来永劫までも貧しく貧しくなれという呪いです。

 日本書紀の伝承のほとんどは,貧しくなれという1点だけを問題にしています。ぼんやり,猛り狂う,愚かで役立たずという要素を加え,しかも古事記と一致しているのは,第3の一書だけです。

 古事記は,なぜ不要な呪文を載せる第3の一書を採ったのでしょうか。考えられるのは,日本書紀の一書の中では,一番詳しかったからという理由です。


日本書紀第10段第3の一書と同じだ

 じつは第3の一書は,鯛から釣り針が出てきて以降の筋が,古事記とまったく同一なのです。

 古事記は,以下のプロットをたどります。

@ 3年後の歎きの場面と海神の宮に来た理由の開陳。
A 鯛から釣り針が出る。
B 海神が呪文を授ける。
C 高田と下田の話。
D 鹽盈珠と鹽乾珠を授ける。
E 一尋鰐(ひとひろわに)が山幸彦を送る。
F 海幸彦の服従の話。

 これに対し第3の一書は,以下のとおりです。

@ 3年後の歎きの場面はなく,いきなり「帰りたまはむとするに及至(いた)りて」と始まる。
A 鯛から釣り針が出る。
B 海神が呪文を授ける。
C 「一尋鰐(ひとひろわに)」が山幸彦を送る。
D 鹽盈珠と鹽乾珠を授ける。
E 「高田」と「下田(日本書紀ではクボ田)」の話。
F 海幸彦の服従の話。

 話の順序が若干前後しているだけです。鰐を集めて,その中から1日で山幸彦を送り届ける「一尋鰐」が出てくるのは,第3の一書だけです。「高田」と「下田(日本書紀ではクボ田)」の話が出てくるのも,第3の一書だけです。
 このように第3の一書には,古事記に出てくる特徴的なお話が揃っています。


話の展開としてはどちらが整っているか

 どちらが先かという,拙速な発想は止めましょう。お話の展開としてはどちらが整っているかという点を考えてみましょう。

 もちろん,古事記の方が整っています。

 第3の一書は,3年経ってなぜいきなり山幸彦が帰ることになったのかが,さっぱりわかりません。これに対し古事記は,3年後の歎きがあって,そこで初めて海神の宮に来た理由がわかって,鯛から釣り針が出てと,スムーズにつながっていきます。

 古事記では,海神が山幸彦に授ける事柄が,B 海神が呪文を授ける,C 高田と下田の話,D 鹽盈珠と鹽乾珠を授ける,とまとめられており,その後,E 一尋鰐(ひとひろわに)が山幸彦を送る,F 海幸彦の服従の話,という具合に,スムーズに流れています。しかし第3の一書では,C 「一尋鰐(ひとひろわに)」が山幸彦を送る話が,B 海神が呪文を授ける,の後に割り込んでおり,話が停滞しています。時間的順序が逆なのです。

 このように,まったく同じ材料を使いながら,古事記の方がはるかにまとまっているのです。

 私には,古事記ライターが第3の一書をリファインしたとしか思えません。


叙述も古事記の方が物語的だ

 それは,叙述上,古事記の方が物語的であることからもわかります。

 たとえば一尋鰐の場面は,まったく同じようでいて,そうでもありません。古事記は,1日で送り奉るという一尋鰐に対して,「然らば、汝送り奉れ。もし海中(わたなか)を渡る時,な惶畏(かしこ)ませまつりそ」と告げて,「すなわちその鮫の頸に載せて,送り出しき」となっています。

 すなわち,海の中を行くときに恐ろしい思いをさせないようにしなさいとの忠告が入っているのです。しかも,鰐の首に乗せてともあります。これは,リライトしているうちに興が乗って付け加わったお話でしょう。

 さらに古事記は,「佐比持神(さひもちのかみ)」の由縁話を付け加えています。

 山幸彦は,海神の宮に帰る一尋鰐の頸に「佩かせる紐小刀(ひもかたな)」を付けて帰しました。だからその一尋鰐は,現在,「佐比持神」だというのです。
 この「佐比(さひ)」は,日本書紀第8段第3の一書で素戔鳴尊が八岐大蛇を切った「韓鋤(からさひ)の剣」の「さひ」です。また,神武天皇の兄稲飯命(いないのみこと)は,暴風雨に会い,人柱となって入水して,「鋤持神(さひもちのかみ)」となりました(神武天皇即位前紀戊午6月)。

 鮫の歯は,ナイフのように鋭い。それ自体をナイフとして使えるくらいです。鮫が佐比持神と呼ばれたことはよくわかります。


山幸彦が潮満瓊と潮涸瓊を使って海幸彦を従える

 さて,鹽盈珠と鹽乾珠(潮満瓊と潮涸瓊)について,ひとこと言っておきましょう。

 要するに,海幸彦から借りた釣り針を返せばすむはずです。それが手に入ったのだから,ことさらこうした物をもらって,海幸彦を責めさいなむ必要はありません。
 古事記によれば,しつこく3度も幸替えを要求したのは山幸彦です。今さら海幸彦を責め苛むなんて,逆恨みじゃありませんか。

 なぜ,鹽盈珠と鹽乾珠のお話しがくっついているのでしょうか。

 海幸彦(火照命)は,「隼人吾多君の祖」です。日本書紀第10段本文によれば,「吾田君小橋等が本祖」です。この由来を語るために,鹽盈珠と鹽乾珠があるのでしょう。潮の満ち引きは永遠不変のものであって,人力でどうなるものではありません。海人は,その自然の法則に従って生活しています。それを支配できるということは,海人の生活や社会を支配したことを意味するのです。

 山幸彦は,海神の娘豊玉毘賣と結婚し,海神の「婿」として,海の世界すなわち海人をも,支配しようとしているのです。


鵜葺草葺不合命の出生譚もスムーズにつながっていく

 さて,次にくるのは,鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の出生譚です。

 豊玉毘賣は,天つ神の御子は海原で生むべきではないといって,わざわざ山幸彦の世界に「自ら參出」ます。そこで,鵜の羽を茅葺きにして産室を造ります。葺き終えないうちに誕生したのが,鵜葺草葺不合命です。

 ここも物語がスムーズです。山幸彦は顕し国に帰り,海幸彦を従えて「汝命の晝夜(ひるよる)の守護人(まもりびと)」としています。こうして山幸彦は,天つ神の御子として,晴れて正当な継承者となりました。こうなったら次は,お世継ぎの誕生です。豊玉毘賣は,早速,わざわざ海神の宮から参上して,じつは妊娠しているのよ,と伝えます。

 絵に描いたようなドラマです。

 これに対し日本書紀第10段本文での豊玉姫は,海神の宮を発つ時に妊娠を告げます。じつは妊娠しており,程なく生まれてくるから,産室を造って待っていてくれと述べます。
 しかしこの時点では,山幸彦は海幸彦を従えていないし,果たして山幸彦が天つ神の後継者になるのかさえ決まっていません。その状況で妊娠したわよ,と伝えられるのは,結構厳しいものがあります。第10段本文は,そうした現実を考えさせてしまうのです。

 お話としては,古事記のように,海幸彦を従えて晴れて後継者となった後に,妊婦豊玉毘賣が出現するのが正しい。古事記ライターは,過去の伝承を咀嚼して,子供向けの童話を書いた,とでも言いましょうか。

 第3の一書は,海幸彦を平らげた後に,「是より先に,豊玉姫,天孫に謂して臼さく」として,じつは海神の宮を離れるときに妊娠を告げていたのだとしています。しかしこれでは,時間的順序が逆になって,話が流れません。
 であれば,海幸彦を平らげた後,豊玉毘賣がやって来て妊娠を告げるという方が,はるかにスムーズなわけです。

 古事記ライターは,そつなく仕事をやり遂げています。


ヨモツヘグイと豊玉毘賣の出産シーンはヘタ

 豊玉毘賣の出産もまた,ヨモツヘグイないし共食の思想の延長上にあることは,前述しました。

 古事記の場合は,叙述に意を用いるあまり,その劇的な効果を減殺してしまっています。古事記ライターは,出産を見てはいけない理由を,呆気ないほど素直に説明してしまいます。
 「凡て(すべて)他国(あだしくに)の人は,産む時に臨(な)れば,本つ国(もとつくに)の形をもちて産むなり。故,妾(あれ)今,本の身をもちて産まむとす。願はくは,妾(あ)をな見たまひそ」。

 そんなこと言われれば,見たくなるのが人情だ。何の理由も示されず,「絶対に見ないで」と言われるからこそ,「その言を奇し(あやし)と思ほして」となるのではないでしょうか。ここまで説明されてしまったら,むしろ,「わかった見ないよ」と答えるのではないでしょうか。

 それはともかく,山幸彦が「その言を奇し(あやし)と思ほして」という一句が,この過剰な説明で死んでしまうことは確かです。

 日本書紀では,鵜葺草葺不合命の出産に言及しない第2の一書以外,すべて単純に,見るなというだけです。第4の一書は「云云(しかしかいう)」となっていますが,これも同様でしょう。

 要するに,日本書紀以上に饒舌で説明的で物語風なのが,古事記なのです。

 ただ,その後の叙述はしっかりしています。豊玉毘賣は,「八尋鰐(やひろわに)に化(な)りて,匍匐ひ(はい)委蛇ひき(もこよひき)」となっています。すさまじい光景です。山幸彦は,驚いて逃走します。豊玉毘賣は,それを恥と受け取ります。そして,生んだ御子を置いて,海と顕し国との境を閉じて,海神の宮へ帰ってしまいました。


玉依毘賣の役割がはっきりしない

 古事記のいわゆる日向神話の最後にくるのが,玉依毘賣に託した歌です。豊玉毘賣は,山幸彦を恨んではみたものの,その恋しさに耐えられず,「その御子を治養(ひだ)しまつる縁(よし)によりて,その弟,玉依毘賣に附けて,歌を献りたまひき」。そうして,2人がやりとりした歌が紹介されます。

 問題は歌そのものではありません。玉依毘賣の役割がはっきりしない点です。玉依毘賣は,「その御子を治養(ひだ)しまつる縁(よし)によりて」という叙述によって,わずかに登場するだけなのです。

 古事記ライターは,玉依毘賣を叙述する意思が全くありません。とにかく2人がやりとりした歌の紹介に主眼があり,玉依毘賣については,その叙述のために必要最小限度で触れざるを得なかったという書き振りです。
 そして,玉依毘賣が鵜葺草葺不合命を養育していることが前提になっています。養育していたので,そのついでに歌を託したという感覚です。いかなる経緯で玉依毘賣が御子を養育し始めたのかは,まったくわかりません。というよりも,玉依毘賣が御子を養育していたのは,古事記ライターと読者との共通の認識であったようにも受け取れるのです。

 古事記のこの書き振りだけをにらんでいると,玉依毘賣に関する物語が,とことん省略されていることがわかります。そうでなければ「その御子を治養しまつる縁によりて」とは書けません。

 玉依毘賣が御子を養育していたという伝承があることを知っていることが,古事記ライターと読者との間の,暗黙の前提なのです。それを知らない者,古事記しか読んだことがないという人にとっては,極めて唐突で理解しにくいのです。


古事記はやはりリライト版だ

 日本書紀第10段本文での玉依姫は,豊玉姫が出産するのに,一緒について来ます。

 第1の一書は,一緒に来たのかどうかわかりませんが,「玉依姫を留めて,児を持養(ひだ)さしむ」というのですから,一緒に来たのでしょう。豊玉姫は帰ってしまいましたが,玉依姫が残って養育したのです。
 第2の一書は,そもそも豊玉姫の出産について触れていません。
 第3の一書は,「玉依姫を将(ひき)いて,海を光して来到(きた)る」。そして,御子がたいそう端麗であると聞いて自ら養育したかったが,道理が通らず,玉依姫を派遣して養育したといいます。その時に,豊玉姫が玉依姫に歌を託したとしています。
 第4の一書は海神の宮に連れ帰った御子を,海中に置くべからずといって,玉依姫に託して顕し国に送り返したといいます。

 このようにみてくると,古事記ライターは,第1の一書や第3の一書を知っていたというべきです。そしてその知識を当然の前提として,「その御子を治養しまつる縁によりて」と書いたのです。


歌物語が整理されている

 豊玉姫は,恋しさに耐えきれずに,「その御子を治養しまつる縁によりて」玉依毘賣に歌を託し,山幸彦に奉りました。これに対し山幸彦は歌を返します。それが以下の2首です。

@ 赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
A 沖つ鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝(いね)し 妹は忘れじ 世のことごとに

 @は,赤玉はその緒まで光るが,白玉のようなあなたの姿はさらに貴い,という意味です。Aは,鴨が寄りつくあの島で一緒に添い寝した妻のことは,永遠に忘れない,という意味です。きちんと呼応しています。

 じつはこの歌は,第3の一書に登場しているのです。順序は逆で,豊玉姫が帰ったときに山幸彦が詠んだ歌としてAが紹介され,その後養育のために派遣された玉依姫に託した歌として@が紹介されています。

 まず女が歌って,男が返歌する。古事記ライターはこっちを選びました。


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