第41 神々の黄昏

 

雄略天皇4年2月

 さて,日本神話も,いよいよ最期を迎えることになります。

 雄略天皇は,葛城山で狩りをします。そのとき,天皇に似た,背の高い人が現れます。雄略天皇は「是神なりと知しめせれども」,全く動じない。かえって,果敢にも「何処(いずこ)の公(きみ)ぞ」と問います。それは葛城に坐す一言主神(ひとことぬしのかみ)でした。
 雄略天皇と神は,それぞれ対等に名乗りあって,馬の轡(くつわ)を並べて一緒に狩りを楽しみます。日が暮れて狩りを終えた後は,神が雄略天皇を高取川のあたりまで送ってくるほどでした。これを聞いた時の人々は,雄略天皇を,「有徳天皇」と呼びました(雄略天皇4年2月)。


雄略天皇のイメージ

 雄略天皇は,先の安康天皇が眉輪王によって刺殺されたことを知るや,皇位継承権のある兄弟を殺し尽くして皇位についた,生命力旺盛な天皇です。要人を殺し尽くすという点では,歴代の天皇の中で傑出しています。それは一つの才能でしょう。

 また,童女君(をみなぎみ)という采女(うねめ)を召して一晩で孕ませましたが,自分の子であると信じませんでした。

 見かねた物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が,一晩のうちに何度召したかと問うと,「七廻喚しき(ななたびめしき)」と,いけしゃあしゃあと答えます。これを聞いた物部目大連は,(原文には書いていませんが,たぶん笑って),清き身体で一晩仕えたのだから疑うべきではない,と諫めます。
 これを聞いて初めて,雄略天皇は,生まれた女の子を自分の皇女(ひめみこ)として養育し始めました。

 「童女君」という名前自体が意味深です。子供だったことは明白です。周囲が諫めるのを無視して,「童女」を強引に召したのでしょう。だからこそ,子供が妊娠するはずがないと踏んだのでしょう。一晩で「七廻喚し」ても,妊娠するはずがないと確信したのでしょう。

 確かに,生命力旺盛な天皇ではあります。

 しかし,感性は欠落しています。こうした感性の欠落とやりたい放題が,力強い天皇像を作っているようです。私には理解できませんが。
 感性が欠落している雄略天皇は,すぐにキレて,家来を殺すことが多かった。人々は震え上がり,「大悪天皇」とも呼びました。

 武烈天皇も,意味もなく人を殺しました。孕んだ女の腹を割いて胎児を見たとか(武烈天皇2年9月),人を木に登らせてその木を切り倒して殺すのを楽しみにしたとか(同4年4月),水路を流れ出てくる人を三叉の矛で刺し殺すことを楽しんだとか(同5年6月),裸の女に牡馬をあわせて性器が潤んでいる女は殺したとか(同8年3月),とんでもない暴虐ぶりです。

 武烈天皇の暴虐は単なる変態であり,酒池肉林を楽しんだ中国皇帝の退廃を感じさせます。これに対し雄略天皇は,日本書紀を読む限り,文化のかけらも感じさせない人間ではありますが,極めて現実的で生命力あふれる人間でした。

 その雄略天皇は,神を恐れませんでした。神と対等になろうとしました。だからこそ人々は,「有徳天皇」と呼んだのです。
 一部の学者さんは,「大悪天皇」という称号に矛盾すると考えるようです。そうではありません。神を恐れなかったところを「有徳」と呼んだのです。


雄略天皇7年7月

 雄略天皇は,三諸山(三輪山)の神の姿を見たい,捕まえてこいと述べます。家来は,三諸山の大蛇を捕まえてきます。
 大蛇を前にした雄略天皇は「斎戒(ものいみ)したまはず」,すなわち,神に会うときのお約束である斎戒沐浴をまったくせず,単なる人に会うときと同様に,その大蛇を見ます(雄略天皇7年7月)。

 たいしたものです。この時はさすがに,まなこ輝く大蛇の迫力に気圧されましたが,とにかく,神を神とも思わない雄略天皇の剛毅さと,若い人に特有の浅はかさとが見て取れます。

 こうして,日本神話の神々は没落していきます。

 「神代紀」,すなわち狭い意味での日本書紀の神話のあと,神武,綏靖,安寧,威徳,孝昭,孝安,孝霊,孝元,開化,崇神,垂仁,景行,成務,仲哀,神功,応神,仁徳,履中,反正,允恭,安康ときて,雄略天皇に至ります。

 崇神天皇は,その名前のとおり神をあがめ祭りました。神の託宣に逆らった仲哀天皇は死にました。雄略天皇以前に,神をここまで貶める天皇はいませんでした。雄略天皇は,神を否定して,自らの目の前にある現実しか信じませんでした。類い希なる「大悪天皇」であり,「有徳天皇」でした。

 雄略天皇のあと,清寧,顕宗,仁賢,武烈,継体,安閑,宣化,欽明と続いていきます。雄略天皇の後,日本書紀の神話の叙述は影を潜め,現実の人間世界が急速に拡大していきます。


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