結論とあとがき

 

古事記はいい加減な書物だ

 古事記は変な書物だ。

 初めて古事記を読んだときの感想です。古色蒼然という読後感はありません。むしろ,1本筋が通っていて,新しさを感じさせます。明快かもしれません。ところが本当に明快かというと,矛盾がたくさんあります。わけのわからないところもたくさんあります。全体がもやもやしているようでもある。
 日本で一番古い書物だから,その程度の矛盾はあって当然なのか。神話とはそういうものなのか。

 私は納得できませんでした。

 矛盾を解決するためには,クロスレファランスしかありません。矛盾のように見えても,古事記ライターの責任ではなく,古来の日本神話自身の問題ではないのか。クロスレファランスすれば,ライターの編纂意図以前の,伝承の真実が見えてくるのではないか。

 しかし古事記は,取り付く島がありませんでした。とっても変,と言うほかない。古事記を三読した結論です。

 ですから,日本書紀を読んでみました。これは,古事記よりもはるかに錯綜しています。異伝がたくさんあります。
 しかし,一見錯綜しているようでいて,よく考えると,きちんと物事を考えさせてくれる書物でした。考える材料がいっぱいありました。特に神話の部分はそうです。面白がって読み込んでいくうちに,自分なりに日本書紀の神話を把握できたように思います。そこで,古事記の神話を読み返してみました。

 ところがこれが,とんでもなくいい加減な書物だったのです。


日本神話をおっかなびっくり論ずる人たち

 私は,自分を客観化したいと考えました。素人の私が考えていることなど,はるか昔に誰かが気づいて書いているはずだ。それが私の信念でした。その分野の専門家が他の分野に首を突っ込むときは,誰しもそう考えるはずです。

 ところが,本屋さんで関連書物やいわゆる注釈書をあさってみても,私のようなスタンスで日本神話を読み,疑問をもった人がいないのです。古事記神話どころか,日本書紀の神話でさえ,きちんと読み切った人がいるのかどうか,疑問です。

 学者さんたちは,造作,造作,で切り捨ててしまいますから,神話を離れて,民俗学や神話学等の観点から,日本神話を読み直そうとします。それはそれで1つの学問かもしれませんが,日本書紀や古事記を手にとって読み進める,物語読者の立場に立った解説は皆無です。注釈書を手にとっても,この部分をどう理解したらよいのかという,物語読者の疑問には答えてくれません。それどころか,その文章からして,日本神話自体の一言一句をろくに読んでもいないことが明白だったりしますから,信用する気にもなりません。

 私は,学者さん恐るるに足らず,と確信しました。

 学者さんの注釈は,おおむね近視眼的です。物語としての日本神話全体を捉えたうえでの注釈ではありません。クジラを解体して,その肉片を,さあ味わってくれというような注釈です。しかも,古事記を偉大な古文献として崇め奉る立場を,決して崩そうとしません。


日本神話を物語として読む

 一方,物語読者として日本神話を読む人たちは,日本神話を全体的総合的に捉えて,ぼんやりした総体を紹介するだけで終わっています。それ以上一歩も出ていないと言ってよいでしょう。人によっては,それを面白おかしく説いて,市民の身近なものにしようという工夫があるくらいです。

 日本神話とて物語です。物語作者がいて,物語読者がいます。

 日本書紀の神話について言えば,数々の伝承に基づいて,日本書紀編纂者が1つの物語にまとめました。そして,いわば正伝とも言うべき本文に反する異伝を,一書として残しました。ですから,これらを比較検討することによって,日本神話の真実に迫れるはずです。
 古事記は,ある1人のライターがまとめた文献です。これはこれでバイアスがかかっていますから,そのバイアスの程度を推し量りながら読むことができます。
 こうして,この2つの書物の関係を考えていくことができます。

 このように,日本神話は,立体的な世界を構築しているのです。それを解き明かさなければなりません。その作業を放棄し,「記紀神話」によれば,という平面的な把握しかしてこなかったのが,今までの学者さんや読者だったのでしょう。「記紀神話」によればという全体的思考は,捨て去らなければなりません。

 読者としてはどうすればよいのでしょうか。

 まったく簡単です。種々の文献を駆使する学者の立場を捨て,物語読者の立場にたって,日本神話を読めばよいのです。矛盾,疑問,その他に答えるには,日本神話を物語ととらえ,物語作者の叙述意図を考えなければなりません。そのためには,信じる信じないはともかく,造作だの政治的書物だのと四の五の言う前に,物語をそのまま受け入れる必要があります。
 考古学的事実に反する,民俗学的におかしい,という議論は,そのあとの問題です。日本神話を把握したうえで,ゆっくりやるべき問題です。


日本書紀と古事記の関係

 私は,人に頼らず,自分の頭で,日本書紀,古事記の叙述意図を考える書物を作るしかないと考えるようになりました。
 私は物語読者です。しかも,古事記に対して,何の借りもありません。つまらないものはつまらない。おかしいものはおかしいと,心の中ではっきり腑分けしながら読み進めました。その結果がこの本です。

 その結論は,古事記駄本説ないし古事記無価値説です。風土記は別にして,日本神話の骨格は,日本書紀の神話にあります。

 具体的にはこういうことです。

 日本神話をきちんと理解するためには,古事記を読んではいけません。日本書紀の神話だけで足ります。古事記を読んで日本書紀の神話を歪曲してはいけません。古事記には,日本書紀と対等に,日本神話を論ずる資格がありません。だからこそ,日本書紀を読む際に,古事記を参照しながら読んではいけません。日本書紀は日本書紀として,古事記から独立させて読むべきです。

 しかし,古事記を読むときに,日本書紀を参照しながら読む作業は必要です。日本書紀こそが,日本神話の骨格を語っているからです。また,古事記だけを読んで日本神話を知ろうとするなど,もってのほかです。確かに古事記はコンパクトで読みやすい。しかし,古事記だけを読んでいると,私がかつて陥ったように,思考停止状態になってしまいます。矛盾があるけれど,しょせん神話はこうしたものかと考えて,お伽噺の世界に遊んだりするだけで終わります。

 日本書紀と古事記は,そういった関係にあります。


「記紀神話」という言葉は廃語にすべきだ

 以上の意味で,いわゆる「記紀神話」という言葉は,日本書紀と古事記を対等に扱っている点で不当であると考えます。それだけでなく,日本神話をのっぺりした平面的な神話と考え,全体的な把握で満足する,1つの標語である点でも不当だと考えます。こんな頭では,立体的な日本神話は把握できません。

 私は,「記紀神話」という用語を,断固,廃語にすべきであると考えます。日本神話を引用するときは,「日本書紀第9段本文によれば」とか,「日本書紀第9段第1の一書によれば」とか,「古事記によれば」と言うべきです。その際,なぜ本文によらなかったのかとか,なぜ一書や古事記によらなかったのかという問題が生じます。それをきちんと解決しておかなければなりません。ですから,常に,引用者の見識が問われます。日本書紀と古事記の神話をどう捉えているかが,常に問われるのです。引用する理由を,簡潔なコメントですませられる見識が問われるのです。

 この意見には異論もあるでしょう。しかし,今までの学者さんたちや研究者が,「記紀神話」の一言一句をきちんと分析し理解したうえで発言していなかったことは,明らかです。「記紀神話によれば」と書き出すことにより,読者を,あたかも論者が記紀神話全体を把握しているかのような錯覚に陥らせます。ところが実際には,日本書紀と古事記を斜め読みし,全体的総合的把握の下に,論者に都合のよいところをつまみ食いして,論拠として引用しているだけなのです。

 私は,「記紀神話によれば」という語り口は,日本神話を語る者として恥ずかしいことだと考えています。この語り口が,戦後長期間にわたり日本神話論を停滞させ,学問にまで高めませんでした。

 何よりもまず,文献としての日本書紀,古事記から,日本神話を読み取ることが先決です。叙述と文言をきちんと把握すれば,日本神話がよく身につきます。筋の悪い議論を無視できるようになります。駄説に人生を惑わされなくなります。考古学や民俗学や神話学その他は,そのあとに始めても遅くありません。


この原稿の表現の問題

 冷静に学問を論ずるならば,それなりの表現があります。余計なことは言わずに,淡々と,叙述と文言を連ねていけばよいのです。

 しかし,そうした文章に限って,人々は無視します。読む人は読むのですが。
 ですから,この原稿には,挑発的な表現が,結構出てきます。

 感情を表に出すか。どの程度出すか。文章表現に悩むところです。学術論文のように淡々と書くだけが,一番楽なのですから。

 挑発的表現もありますが,すべて,それなりの根拠を示してあります。どうか,全体を読んで評価していただくように。くれぐれもお願い致します。


残された問題

 じつは私は,古事記序文をあえて無視しました。古事記序文をめぐっては,古事記偽書説などの問題があり,そんなことにかかわりあいたくなかったからです。

 学者さんたちの論争は,古事記本文の叙述と文言をきちんと読んだうえでの議論になっていません。
 「増補改訂版・古事記成立考」(大和岩雄著・大和書房)は,古事記偽書説の急先鋒です。それなりによい本だと思いますが,古事記本文の内容自体を丹念に検討したわけではありません。しかもこの著者は,「序文が偽りであっても,現存『古事記』の古典としての価値は,消えるものではない」,と主張しています(同書294頁)。

 こうなると,あなたは本当に古事記を読んだのか,という問題になります。私は,古典としての古事記神話の存在意義自体を問うているのですから。

 古事記本文の叙述と文言を俎上に載せていないわけですから,古事記偽書説をめぐる論争は,成熟した議論ではありません。序文だけを切り取って議論しているだけです。本質的な議論になるはずがありません。当たり前のことです。

 私は,何よりもまず,古事記本文の神話が何を語っているのかを知りたかったのです。古事記序文については,別の機会に考えてみたいと思います。


著作権の問題など

 私は,2002年1月29日に岩波文庫版日本書紀全5巻を購入し,初めて日本書紀を読みました。都合3回読みました。そしてその年の10月初めには,日本書紀の神話に関する論文に着手し,その後3か月間,夢中になりました。

 本文にも書きましたが,すべてのきっかけは,日本書紀第1巻第1頁にある「故曰はく」の前後に,明白な論理矛盾があるという発見です。
 私は,これで,日本書紀が読めると直感しました。

 こうして完成した「日本書紀・神話メモ」と題する原稿を,翌2003年3月に,GA社に持ち込みました。その後古事記についても考察を進め,「日本書紀の神話」,「古事記の神話」という2つの原稿を作りました。これは,同年11月初めに,GE社に持ち込みました。翌2004年2月には,再度GA社に,「日本書紀の神話」を持ち込みました。その後,日本書紀の神話と古事記神話に関する2つの原稿を合体させた方が総合的に日本神話を語ることができると考え,「日本書紀の神話と古事記」という表題の下,原稿を作成しました。

 2004年8月には,S社とH社に,「日本書紀の神話と古事記」と題する原稿を送付しています。そのうちH社に対しては,「日本書紀の神話と古事記」の原稿の中の「古事記を笑う」という項目の部分を抜粋し,「古事記を笑う」という表題の原稿に作り替えて,2004年11月24日に送付しました。

 その後,「古事記を笑う」というコンセプトの下で原稿を煮詰め,前出GE社に,2004年12月9日から2005年5月11日にかけて,ほぼ14回に分けて,「古事記を笑う」という表題の原稿を送付しました。内容はもちろん,日本書紀の神話を理解したうえで,古事記神話を笑うというものです。

 表題は変遷していますが,発想や内容は,2002年1月から10月までの間,何度も日本書紀全体を読み込む中で得たものです。

 本来は,日本書紀の神話を読む,という原稿でした。しかし,それでは誰も見向きもしない。編集者も含めて,相手は,せいぜいのところ,古事記しか読んでいない人たちばっかりだ。古事記を検討しなければ読んでもらえないということがわかりました。幸い私は,ワープロを前にして,一人静かに古事記神話を笑っていました。だったらこれを前面に押し出そう。

 この原稿には,そうした変遷があります。ですから,日本書紀のすべての一書まで,きちんと述べていません。日本神話全体と古事記を検討するのに,必要な限りで述べています。

 出版社とのやり取りに関しては,当時の書簡やファイル等がきちんと残っています。本原稿に関する後日の紛争予防のため,上記のとおり,本原稿を公開するに至る経緯を明記しておきます。

 こうした経緯ですから,著作権は保持します。無断転載は禁止します。引用する場合は,表題と著者名と出典を明記してください。日本神話の読み方,すなわちひとつのアイデアとして論ずる場合も,表題と著者名と出典を明記してください。


Top page
Close