はじめに |
神功記をいかに読むか 神功皇后は,神懸かり的だと言われている。だからこそ,神功記(正確に言えば,仲哀記の中にある神功皇后に関する叙述)や神功紀の叙述を,皆,軽んじている。 しかし,文献として残っている以上,その価値がゼロ,すなわち,なきに等しい=無視すればよい,というわけにもいくまい。古事記ライターの苦労や,何らかの叙述意図は読み取れるはずであるし,それが,文献としての古事記の,最小限の価値であろう。そこからものを考えていけるはずである。 じつは,古事記ライターの叙述意図は,きわめて単純である。要するに, @ 神功皇后が,皇統を断絶させた反逆者であることを知っているのに, 神懸かり的になるのは,天皇位の簒奪を,神の権威によって説明したかったからなのだ。この点では,日本書紀も同じだ。 とにかく,古事記ライター自身が,神功皇后によるクーデターがあったこと,応神天皇で王朝が交替したこと,を明白に語っている。神懸かり的な叙述に惑わされていると,これが読み取れない。
なお,方法論は,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」と同じである。この論文は,その方法論の,「神功記」に対する応用,すなわち各論である。 古事記という文献の叙述にしがみつき,それを立体的に駆使して,古事記ライターが言いたかったことを突き詰めてみる。だから,余計なお勉強はしない。学者さんが言っていることは,とりあえず無視する。まず,自分の頭で考えてみる。学問的知識や先学の学説という,虎の威は借りない。 だから,素養はいらない。初めての人にもわかる内容になっているはずだ。 ただ,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」でも,くどいように述べたが,この論文は,叙述を追及するといかなる真実が浮かび上がるか,ということを考えたものであり,叙述そのものを信じているのではない。 とりあえず,叙述から何が浮かび上がってくるかを,考えたのである。
最近,一部で,古事記序文偽書説が再燃しつつあるようだ。三浦佑之・「古事記のひみつ」・吉川弘文館が,今年(2007年)の春,古事記序文偽書説を打ち出した。しかし,当然のことだが,古事記序文偽書説自体は,古事記本文とは関わり合いがない。 問題は,古事記本文である。 ひとつの本を書くとき,著者は,構想,展開,言葉の吟味など,いろいろなことを考える。古事記ライターが,古事記序文が述べるとおりの,ある1人の,本当の天才だったのなら,それなりの成果があるはずだ。 ところが,それがない。古事記本文を読んでみても,論理的思考力はおろか,古事記序文言うところの,文章に秀でた天才の成果がない。むしろ,アラが目立つ。 これについては,神話を対象として検討した「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」で,論じ尽くした。 ただ,神を中心にして,文章を良くまとめる人ではある。また,歌を理解した人でもあるようだ。しかし,いずれにせよ,たいしたライターではない。 神功記に限って言えば,古事記ライターは,過去の文献を机の上に置かず,記憶だけを頼りに書き流したように見える。それだからこそ,難解で晦渋な日本書紀の神功紀に比べ,よっぽど明快になっている。 学者さんたちは,こうした読み込みをしない。文献としての古事記本文を読み込むのではなく,古事記の,外形的学術的歴史的あり方から,いわば第三者的に批評するだけだ。古事記という文献の,いわば周辺事態を,外形的学術的歴史的にいじくっているだけだ。その格好の材料が,序文というわけだ。 いつまでたっても,古事記本文の「叙述」そのものが吟味されることはない。 それが,伝統的な古事記序文偽書説であり,その他大勢の,何百年と続いてきた古事記学者の態度である。本文の「叙述」を吟味しないという点では,まったく同じである。 古事記序文偽書説をめぐる論争は,いつまでたっても,古事記本文の叙述を緻密に読もうとする者にとって,なんの糧にもならないのである。
テキストは,インターネットで公開されている「国文学研究資料館本文データベース検索システム」から,岩波日本古典文学体系本をダウンロードし,適宜,岩波書店の倉野憲司校注「古事記」を使った。 著作権は保持する。引用する場合は,著作権法上の引用の原則に従ってほしい。1つのアイデアとして引用する場合も,出典を明らかにしてほしい。 なお,言うまでもなく,「仲哀記」とは古事記の仲哀天皇に関する記述部分であり,「仲哀紀」は,日本書紀の仲哀天皇に関する記述部分である。 以下,仲哀天皇(神功皇后の夫)の父,成務天皇の叙述から検討してみる。 |
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