第2 仲哀天皇殺し |
神功皇后と仲哀天皇の対立 さて,ここからが,いよいよ本題だ。 息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと),すなわち神功皇后の物語が,ここから始まる。 以下,それを検証しよう。 仲哀天皇は,「熊曾國(くまそのくに)」を撃とうと決断し,自ら琴を弾き,神功皇后に神を降臨させる。建内宿禰(たけしうちのすくね)は,その状況を確認する第三者,すなわち審神者(さにわ)=神判者である。 神功皇后は,「神を歸(よ)せたまひき」。すなわち,神がかりの巫女である。 神と政治との関係については,すでに,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」の「第24 偉大なる大国主神の正体」のうち,特に「神を祭ることは政治と不即不離である」「日本書紀の叙述から祭政一致の現実を知る」で論じた。 神と政治は,不即不離である。古代人には,現代人と同様の合理的判断能力がある。しかし,情報量は少ない。だから,判断できない。不安だ。だから,神を頼る。 神の託宣であれば,誰でも納得する。そのために巫女がいた。政治的判断にあたって,巫女の託宣は,重要な判断資料となる。端的に言えば,神の託宣が,そのまま政治的判断になる。それで,皆が納得する。戦争にも行く。 政治的判断=巫女が述べる託宣。現実の政治権力を握っていると思われる仲哀天皇と,巫女である神功皇后の意見が対立するのだ。 神功皇后は,「西の方に國有り。金銀(くがねしろがね)を本(はじめ)と爲(し)て,目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)の珍(めづら)しき寶,多(さは)に其の國に在り。吾(われ)今其の國を歸(よ)せ賜はむ」と言う。 「西」という感覚が,極めていい加減である。「筑紫(つくし)の訶志比(かしひの)宮」から見て新羅は,北か,北西であろう。古事記ライターの叙述がいい加減なのか。でも,それはいい。とにかく,仲哀天皇が言う熊曾國ではなく,まったく正反対の方向の,新羅を撃とうというのだ。 これに対し仲哀天皇は,対立する。「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば,國土(くに)は見えず。唯大海のみ有り」と。 まっとうな意見である。 確かに,筑紫の「西」には,何もない。北や北西には朝鮮半島があるが,「西」には,大海があるだけだ。だから,仲哀天皇の主張の方が,筋が通っている。出鱈目を言っているのは,神功皇后と,そこに憑依した神の方だ。 だから,神功皇后に降臨した神は「詐(いつはり)を爲(な)す神」だと言ったのも,理解できる。合理的思考をしているのは仲哀天皇であり,ゴリ押し的思考をしているのは神功皇后である。仲哀天皇が腹を立てて,神の降臨を促す琴を,「押し退(そ)けて控(ひ)きたまはず,默(もだ)して坐しき」というのも,理解できる。
すごい叙述である。 仲哀天皇がここまで言っている。神功皇后と,その神を,詐欺師だと言っているのだ。しかしそれよりも,これに対する神功皇后の答えが,またすごい。 「爾(ここ)に其の神,大(いた)く忿(いか)りて詔りたまひしく,『凡(およ)そこの天の下は,汝(いまし)の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向ひたまへ』とのりたまひき」。 神の怒りは,そのまま神功皇后の怒りである。そして,あろうことか,たかが地方豪族出身の「大后」が,天皇に対して,この世界はお前が支配するところではない,お前は黄泉国へ一直線(一道)に行け,と言うのだ。 死ね,と言うのだ。 立会人であるはずの建内宿禰(たけしうちのすくね)も,腰が引けている。「恐(かしこ)し,我が天皇(すめらみこと),猶(なほ)其の大御琴あそばせ」。琴を弾けというのだ。 こんな叙述を読むと,仲哀天皇は,もはや権力者ではなかったのかも知れない。実権は,ヤマトにいる香坂王や忍熊王が握っていたのかもしれない。
仲哀天皇は,しぶしぶ琴を弾いた。しかし,突然琴の音が途絶えるや,火を挙げて見ると,仲哀天皇は死んでいた。 これもまた,異常である。 仲哀天皇は,日本書紀においては,こんな不自然な死に方はしない(仲哀天皇8年9月)。 ところが古事記では,仲哀天皇は,明らかに,神や神功皇后の言うことを聞かなかったから死んだのだ。しかも,死因が不明である。 西に国はない,ただ大海あるのみ,と述べた仲哀天皇の合理性からすれば,2人のうち,どちらかが殺したのだ。 はっきり言えば,神功皇后が殺したと考えるほかない。
と言うのも,仲哀天皇死亡後の処置が,これまた極めて異常だからである。 少し長いが,引用せざるを得ない。 「殯宮(あらきのみや)に坐(ま)せて,更に國の大幣(おおぬさ)を取りて,生剥(いきはぎ),逆剥(さかはぎ),阿離(あはなち),溝埋(みぞうめ),屎戸(くそへ),上通下通婚(おやこたはけ),馬婚(うまたはけ),牛婚(うしたはけ),鷄婚(とりたはけ)の罪の類(たぐひ)を種種(くさぐさ)求(ま)ぎて,國の大祓(おほはらへ)を爲(し)て,亦建内宿禰沙庭(さには)に居て,神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覺(さと)したまふ状(さま),具(つぶ)さに先(さき)の日の如くにして,『凡そ此の國は,汝命(いましみこと)の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。』とさとしたまひき」。 「殯宮(あらきのみや)に坐(ま)せて」とは言っている。 しかし,実際にやったことは,殯(もがり)の儀式ではなく,大祓だった。殯(もがり)とは言っているが,その儀式の叙述はなく,大祓(おおはらえ)の叙述が続くのだ。 要するに,罪穢(つみけがれ)を償うために筑紫国から品物を取り立てた。これは,原始的な,一種の罰金である(これについては,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」の「第17 天の石屋戸速須佐之男命の追放の仕方を考える」で論じた,速須佐之男命に科された「千位の置戸(ちくらのおきど)」参照。)。 それだけでなく,天皇の死を,生剥,逆剥,阿離,溝埋,屎戸,上通下通婚,馬婚,牛婚,鷄婚の罪の類(たぐひ)と同じものとみなして,そうした罪を「種種求ぎて(くさぐさまぎて)」,すなわち,そうした罪を全部集めて,大祓(おおはらえ)の儀式をして,国中を清めたというのである。 そしてその挙げ句の果てには,神功皇后の腹の中にいる品陀和氣命(ほむだわけのみこと)こそが,天の下を支配する者だと定めたというのである。 この部分,本当に忌まわしく,恐ろしい叙述だ。神功皇后には,底知れぬ恐ろしさがある。 この異常さに気付かない学者さんや研究者が,あまりにも多い。
大祓(おおはらえ)の中身も,醜悪でおぞましい。 生剥,逆剥は,獣を生きながら皮をはいだり,逆剥ぎにする罪。 これらは,社会的秩序を乱す重大な罪であり,その罪が国中にたまると,大祓(おおはらえ)により,一斉に祓い清めるのがならいだった。 そうした罪を「種種求ぎて(くさぐさまぎて)」,すなわち,そうした罪を全部集めて,仲哀天皇の死と共に祓ったというのだ。 仲哀天皇の死は,国を汚すものだったのだ。 速須佐之男命(すさのをのみこと)が行った行為と同等であり,人糞をまき散らす行為や,近親相姦,獣姦等の行為と同じとみなされ,きれいさっぱりと祓い清められたのである。 こうして,仲哀天皇の死という事実さえも,この世の中から抹消した末に,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)を支配者に指名したのである。 天皇の死は,殯(もがり)の宮で,時間をかけて悼まれるはずである。それが常識である。ところがここでは,それが行われていない。大祓と共に祓われた天皇がいるだろうか? 仲哀天皇の死は,自然死や病死や事故死ではなく,他殺死だったからこそ,その罪を祓うための大祓が必要だったのではないだろうか?
じつは,殺人=他殺の後に祓禊(はらえ)をした実例が,古事記自身の中にあるのだ。 履中記を見てみよう。履中記といえば,墨江中王(すみのえのなかつみこ)の反乱だ。 墨江中王(すみのえのなかつみこ)が反逆した。 翌日ヤマトに戻った水齒別命は,「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(みそぎ)爲て,明日參い出でて~の宮を拜(おろが)まん」と言う。 水齒別命は,卑劣な殺人を行ったわけだ。それを承知しているからこそ,祓禊(みそぎ)が必要だった。 神の宮とは,石上神宮のことである。石上神宮に関する議論はさておき,三輪山と並び,ヤマトにおける極めて神聖な場所であったことは,間違いがない。そこに,将来の履中天皇が逃げ込んでいた。 これに対し,仲哀天皇の死後行われたのは,水齒別命個人の禊ぎではなく,国を挙げての大祓だった。国家的行事だった。規模が違う。 個人の卑劣な行為以上の,何かがあったと見なければなるまい。
あまりにも,おぞましい叙述だ。日本書紀はどう叙述しているか。 日本書紀は,仲哀天皇の死を,他殺とはしていない(仲哀天皇9年2月)。神の意思に従わなかったから,寿命を縮めたとしている。仲哀天皇の過ちは,神の意思に逆らったという,その1点だけだから,祓え(はらえ)に関する叙述も,淡々たるものである。 「罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて」,という一節で終わっている(神功皇后摂政前紀)。 これと比較しても,古事記の大祓(おおはらえ)が,いかに異常であるかがわかるというものだ。
仲哀天皇殺しを根拠付ける事実は,大祓(おおはらえ)だけではない。 もし仮に,仲哀天皇の死が自然死や病死や事故死であったならば,ここで,皇位継承問題が起こるはずである。正確に言えば,一定期間の殯(もがり)の後に,皇位継承手続きを行うべきである。 ところがこれが,まったく無視されている。他殺だったからこそ,皇位継承手続きが無視されているのだ。 先の引用を,もう一度引用しよう。 國の大祓(おおはらえ)をして,「亦建内宿禰沙庭(さには)に居て,神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覺(さと)したまふ状(さま),具(つぶ)さに先(さき)の日の如くにして,『凡そ此の國は,汝命(いましみこと)の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。』とさとしたまひき」。 すなわち,大祓(おおはらえ)の後,直ちに神の託宣(仲哀天皇よ,死ねという託宣)を再確認し,神功皇后と建内宿禰(たけうちのすくね)だけで,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)が世継ぎだと決めているのだ。 神の託宣は,仲哀天皇生前のものと同じで,「具(つぶ)さに先(さき)の日の如く」だったというが,やっぱりそうだよネ,神に逆らった仲哀天皇が悪かったんだよネ,死ぬ運命だったんだよネ,なんていう,仲間内での自慰的確認行為であったに違いない。 この異常な叙述に気付かない研究者が,あまりにも多い。
ヤマトには,香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)がいる。仮に本当に,神功皇后が「大后」で,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)が「太子」だったのであれば,堂々とヤマトに連絡して,皇位継承の手続きをとればよいだけのことだ。 なぜ,それをしない? 神功皇后は,仲哀天皇の死に対する神の託宣を事後的に再確認し,天皇の死をヤマトに連絡することもなく,勝手に神の託宣で後継者を決めている。 本当に,「大后」や「太子」だったのだろうか。この,あまりにも手際のよい死後処理は,いったい何を物語るのか。 少なくとも,ヤマトとは,異常なほどの緊張関係があったのであろう。「大后」とか「太子」と言うのは,古事記ライターの脚色だ。 すんなりとは即位できない事情があったはずだ。そして,仲哀天皇の死後処理の手際よさからすれば,計画的な殺人だったのではないかと思われるのだ。 自然死や病死や事故死の後,初めてクーデターの決意をしたとは思われない。
それだけではない。そもそも,胎児が皇位継承者たり得るのだろうか。 聖武天皇や文武天皇については,その母親や関係者が,皇位につける年齢に達するまで,首を長くして待っていた。皇位につくには,周囲の者が尊敬できる,一定の年齢に達していないと駄目である。生まれてもいない胎児など,皇位継承順位を論ずるのも愚かである。子が生まれて外祖父になることを願った摂関家を考えてみるがよい。 胎児に,皇位継承の資格はない。 ちゃんと生まれていた香坂王(かごさかのおう)か忍熊王(おしくまのおう)が,まず継承すべきである。 神功皇后は,こんな駄話に,頼るしかなかったのである(神功皇后が実在かどうかわからないから言い換えると,古事記ライターは,こんな駄話に,頼るしかなかったのである)。それ以外に,品陀和氣命(ほむだわけのみこと),すなわち後の応神天皇の正統性を根拠付けるものはない。 いや,じつは,もう1つある。 これも,駄話ですね。仮にそういった民間伝承があったのだとしても,皇位継承の根拠にはなりません。これは,すでに述べたとおり。 このように,神功皇后と応神天皇の正統性については,確たる根拠が見つからない。出てくるのは,神懸かり的なお話しばかりだ。これが神功記や神功紀の特徴である。
胎児には皇位継承の資格がない。それどころか,さらに言えば,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)は,本当に仲哀天皇の子だったのかという疑問さえある。 日本書紀によれば,仲哀天皇が死んだのは仲哀天皇9年2月5日である。ここからいわゆる神功皇后摂政前紀となり(子供が生まれていないのに摂政と呼ぶこと自体おかしいが,慣例に従っておく),その年の12月14日に応神天皇が生まれる(神功皇后摂政前紀12月)。 受胎後,誕生まで十月十日と言われている。十月十日後は12月15日。人によっては,応神天皇は仲哀天皇の子ではなかったという人が出てきても,おかしくはない。 日本書紀編纂者もこれには気付いたようで,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)を「宇瀰(うみ)」で生んだとしたあと,一書を掲載している。 ちなみに古事記は,仲哀天皇の死を,「壬戌(みづのえいぬ)の年の6月11日に崩(かむざ)りましき」とする。神功記の最後にある叙述だ。
日本書紀は,仲哀天皇の死をどう捉えているだろうか。 日本書紀は,仲哀天皇が病死だったとし,他殺説を否定している(仲哀天皇9年2月の本文。異伝は,戦死とする)。しかし,神功皇后と応神天皇に正統性がないことは,はっきりと叙述している。神功紀が,突出して神懸かり的になっているのは,こうした理由からだ。 @ 「是(ここ)に,皇后(きさき)及(およ)び大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね),天皇の喪(みものおもひ)を匿(しな)めて,天下(あめのした)に知(し)らしめず。 要点は,こうだ。 @ 仲哀天皇の喪を隠した(当然,皇位継承問題は生じない)。 A 神功皇后は,天皇の死を天下が知ったら,秩序が乱れるだろうと述べた。 B そこで,橿日宮(かしひのみや)の防備を固めた。 C 一方,穴門の豐浦宮(とゆらのみや)で,密かに殯(もがり)を行わせた。 D しかし,新羅の役のため,葬送はできなかった。 |
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