第3 神のごとき戦功
 
 
ヤマトにいる香坂王や忍熊王が怒るのは当然だ

 仲哀天皇の死は,隠された。それは,いつ露見したのだろうか。おそらく,神功皇后がヤマトを目指して進軍する直前だろう。

 ヤマトにいる香坂王や忍熊王は,怒ったに違いない。本来ならば,どちらかが皇位を得ているはずだ。品陀和氣命(ほむだわけのみこと)は,仲哀天皇の死亡当時,胎児にすぎない。


(以下,突然ですが,香坂王と忍熊王へのインタビューを,中継致します)

 皇位?笑っちゃう。天皇になりたいなら,おとといおいで。
 そうだな,17歳くらいになってからおいでヨ。
 時代は下って,平安時代になってから,やっと,幼児でも天皇になれたんだぞ。摂関家や上皇やらの都合でね。
 それが胎児じゃ,話になんないヨ。あんたヨ。わかる?常識あンのか?あーン?

(酒を飲んでおられるようですが,中継を続けます。)

 確かに神功皇后は「大后」だったかもしンないけどヨ。だけンど,子供,産んでないじゃないか。それじゃ,つなぎの女(おんな)天皇にもなれないヨ。
 それが摂政かよ。わっかんネエなあ。誰がそんなこと言った?日本書紀書いた人か?

 わかるだろ?天武天皇が死んだ後の,持統天皇を気取ってもらっちゃ困る。
 持統には子供がいたヨ。それでも,あそこまで苦労したんだよ。藤原不比等という賢臣がいてもね。それはわかるよなあ。(と,空を見るような目線)。

 それとも,神功皇后を持統天皇になぞらえる研究者がいるってか?
 へ????

(もう,べろんべろんのようです。本音が聞けますので,記者は,このまま実況を続けます)

 えっ?あんなに言ってやったのに,あいつ,ヤマト目指して来やがったって?
 仲哀が死んだなんて,俺ア,知らネエぞ。今,初めて知った。

 時間稼ぎだったんだなッ。こンのヤロウーーーーーッ。
 死んでたんなら,皇位継承手続きはどうなった?
 仲哀が死んだことを隠したヤツが,悪いに決まってるだろ。
 そんなヤツ,悪人だ。

(突然,哀願調になって)

皆さんどう思います? ウウウッ・・・(涙,涙,涙)。・・・?

(一転して)

俺の立場はどうなる? 俺が天皇だろうが。おらあーーーっ。

(とにかく,全国のファンの皆さんにご意見を。おらあーーーっじゃ,〆になりませんので)

 ヤマトに知らせず,筑紫で子供を産んでから,摂政なんて肩書きつけて,新羅征伐なんて戦果ひっさげて,カッコだけつけて,ヤマトを征服しに来やがったンだな。くっそう。許しちゃおかねエ。

 しっかし,「新羅の役」なんて,何の正統性もないじゃないか。私闘(中継局の注:単なる個人的な争い。隣近所の,変に意固地なジジイとの詰まらぬ争いも,私闘である)じゃないか。ヤマトの政権が,国として行った戦争じゃない。国家が遂行した戦争じゃない。後三年の役の源義家(みなもとのよしいえ)みたいなもんじゃないか。
 う・・・? どうだア・・・?

 誰が何と言おうとも,俺様が天皇様だ。神功のやり方は汚いーーーッ。こいつーーーううう。とんでもない朝敵だ。絶対に許さんぞ。

(少々,お聞き苦しい点がありました。謹んで,お詫び申し上げます。)


 以下,筆者の記述に戻る。

 朝敵。そう,朝敵である。胎児にも幼児にも,皇位継承の資格はないから。真実(じつは,叙述のうえでの真実)は,上記インタビューのとおりだったろう。

 でも,歴史は非情だった。ごり押しで押しまくった神功皇后が,ナント,勝っちゃった。叙述上はネ。

 ヤマトにいた香坂王と忍熊王,悲運のほど,ご推察申し上げます。ご愁傷様でした。


日本書紀の叙述は至極まっとうだ

 日本書紀の叙述を見ておこう。

 神功皇后が海路でヤマトを目指したとき,「時に香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ),天皇崩(かむあが)りましぬ,亦(また)皇后西(にしのかた)を征(う)ちたまひ,あはせて皇子(みこ)新(あらた)に生(あ)れませりと聞(き)きて,密(ひそか)に謀(はか)りて曰(い)はく,「今(いま)皇后,子(みこ)有(ま)します。群臣(まへつきみたち)皆(みな)從(したが)へり。必ず共に議(はか)りて幼(わか)き主(みこ)を立(た)てむ。吾等(われら)何(なに)ぞ兄(このかみ)を以(も)て弟(おとと)に從(したが)はむ」といふ」。

 香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)が仲哀天皇の死を知ったのは,やはり神功皇后がヤマトを目指したときだった。

 その他の内容は,見てのとおり。

 日本書紀編纂者も,神功皇后を祭り上げたいのは同様だ。だから「密(ひそか)に謀(はか)りて」なんて言ってるが,別に謀議や密談をする状況じゃありません。
 香坂王と忍熊王は,正々堂々と,神功皇后には従えないと言ったのでしょうね。


壬申の乱以上の大戦争に劇的な勝利

 壬申の乱は,時の権力者に刃向かって勝利した,古来まれな劇的な勝利だったと言われている。
 しかし,日本書紀や古事記の叙述と文言からすれば,歴史上の事実かどうかは別として,それ以上に劇的な勝利を収めたのが,神功皇后である。

 神功皇后と忍熊王の戦いは,大戦争だったようだ。

 戦場は,河内あたりから始まって,山城,逢坂(京都府と滋賀県の県境),琵琶湖畔にまたがっている。いわゆる畿内を揺るがした,壬申の乱に勝るとも劣らない,古代の大戦争だったと言ってよい。

 日本書紀によれば,忍熊王側は,「東国の兵を興さしむ」。すなわち,東国の兵士まで集めた,いわば東vs西の大戦争だったわけだ。

 だからこそ日本書紀編纂者は,神功紀に力を込めている。

 クーデターという事実関係については,嘘をつけない。だから,万世一系の天皇を説明するために,しゃかりきになって,神功紀を神の叙述で埋め尽くそうとしている。新羅の役が,神懸かり的叙述に終始するのも,ひとえに,神功皇后の偉大さを引き立てるためなのだ。

 また,叙述の分量も異常だ。次にくる応神紀以上の量を割いている。日本書紀全体の中で,1つの結節点を形作るほどの分量である。


二権力分裂論

 筆者は,初めて神功記を読んだとき,以下のような疑問をもった。

@ 仲哀天皇は,なぜヤマトに宮を定められなかったのか。

A 仲哀天皇は,なぜ,北九州に宮を定め,天の下を支配したのか。

B その時ヤマトにいた忍熊王や香坂王とは,どんな関係だったのか。

C 仲哀天皇の妻,神功皇后は,なぜ,新羅征討を単独でできたのか。背後にいるヤマトとはいかなる関係だったのか。

 ここから出る結論は,ヤマト,筑紫の,権力分裂論しかない。

 仲哀天皇の代になって,ヤマトを出ざるを得ない,何らかの紛争が生じた。そこで,筑紫方面に宮を構える政権ができたのだ。ヤマトから追放された者たちが,筑紫に居を構えた。ヤマトもまた,筑紫まで力が及ばなかった。

 筑紫で力を蓄えた神功皇后は,クーデターを起こして勝利した。後になって,天皇の途切れのない歴史が必要になった。その時古事記ライターは,神の権威で神功皇后を飾ったが,仲哀天皇がヤマトを支配したとは,書けなかった。

 ヤマトを無視して新羅遠征をするなんて,尋常ではない。ヤマトの政権を無視できた政権が,筑紫にあったのだ。

 古事記を読むと,こうなる。


学者さんらが作り出した神話

 おそらく,以下のような神話が,現代に流布している。

 仲哀天皇と神功皇后は,初めはヤマトにいたのだが,筑紫遠征に出かけ,仲哀天皇は死んだ。神功皇后がヤマトに戻ろうとした時,忍熊王らの反乱に遭遇し,勝利した。

 しかし,古事記を読む限り,そんなことは,どこにも書いてない。例えば,「忍熊王の反乱」というのは,後代の学者さんが作った表題にすぎない。

 筆者は,日本書紀と古事記をごっちゃにするな,という考え方をもっている。ごっちゃにする全体的思考が,日本神話論を「学」に高めなかった。だから,「記紀神話」という言葉は廃語にすべきだと考えている。

 詳しくは,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」の「第1 方法論の問題」を参照されたい。


神功皇后の名前の由来

 さて,こう考えてくると,神功皇后の名前の由来もわかる。

 神功皇后は,ごり押しで押しまくって,「神」のような大勝利を挙げた。赫々たる「戦功」を遂げた。だから,「神功(じんぐう)」なのだ。

 よく言われることだが,「神」を名前にもつのは,神武天皇,崇神天皇,応神天皇の三者である。だが,神功皇后もそれに加えて良い。

 神功皇后は,まったく根拠のないところに生まれた,空想の産物ではない。少なくとも,神のような戦功を遂げた女性に関する,伝承があったはずだ。

 だからこそ,神功皇后=息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)は,播磨国風土記などに出てくる。
 中央で作られた神話伝説が地方に広まった,それが風土記だという一部学説は,机上の空論でしかない。

 
 
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