あとがき |
筆者は,以上のように神功記(正確に言えば,仲哀記)を読んだ。 すっきりして,何のもやもやもない。仮に,仲哀天皇殺しがなかったとしても,神功皇后がクーデターを決行したので,その正統性を,神の意思で取り繕おうとしていることだけは,最低限明白である。 ところが,これがわからない人が,あまりにも多い。人の悪口は言いたくないが,学者さんでさえ,神話伝承の森にさまよい込んで,同じところをいつまでもグルグル回っている。 最近出版された,中西進著作集2「古事記を読む二」(四季社)も,その例だ。182頁以下を読んでみよう。 中西進は,例の仲哀天皇死後に行われる,大祓(おおはらえ)と品陀和氣命(ほむだわけのみこと)への神の託宣を,「宗教的な表現」ととらえる。そして,「以上のごとき,濃厚な宗教性は何に由来するのであろうか」と,問題提起する。 まるで,人ごとみたいな問題提起だ。 そして,先学の,「海の彼方から海神が浜辺にやって来て,海浜に子を生む信仰があり,海神を海浜で祭る行事が,当時行われていたという。それを反映して神功皇后が応神を生む話ができ上がったと考えるのである」という学説を紹介する。 1つの文献,古事記序文を信じる学者さんの立場からすれば,1人の天才ライターがまとめたはずの古事記のここに,日本書紀とは違って,なぜ大祓(おおはらえ)が出てくるのか。なぜ品陀和氣命(ほむだわけのみこと)が支配者になるという神の託宣があるのか? 物語を読んでいく読者の疑問に,何も答えていない。 筆者は,これを,クジラの解体と呼んでいる(「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」「第1 方法論の問題」「何よりも学者さんたちが悪い」)。 神功記は,こんなことを考えるのに,格好の材料なのである。
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