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-浄土往生20年-
「直道菩薩様御講義 その一 "人間病-統合失調症”」

2005年8月8日、私もついに63才になつた。この63年間を思い起こせば、 自分でも感心する位、自由奔放に生きてこられた。これも一重に女房殿をはじめ、私と関わった 大勢の方々の協力があっての事と大変感謝している。 原田君事、御恩返しのつもりで、柄にもなく今、流行のホ-ムペ-ジを通じて私の観たこと、 聞いたこと、感じたこと等をこのコ-ナ-で書いていきます。

まずは、好きなことばを記します。
「信じるか 信じないか、高度な知識から恩恵をこうむるか、それとも嘲笑と疑惑の中にその知識を
投げ捨ててしまうか、それは各人にまかせよう」
(G・アダムスキ)
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
平成4年の2月頃、突然、円形脱毛症になり、一晩でまゆ毛まで抜けてしまった。
最初は、どうせ神経か疲れから来ているのだろう位に軽く考えほおって置けばその内治るだろう、
と気にも留めなかったが、1年近く経過しても生えてきません。
これは、病院に行かないと治らないのではと考え、家の近くにある「二和病院」の皮膚科へ行き、
薬を貰って付けたが全然だめ。
次は、「千葉大学病院」の神経科に行ったが、これも進展なし。
イライラするし、気は滅入って来るし、これでもスタ-にはなれなかったが、20年間俳優を職業とした男だ!
生き恥を晒す位なら死んだほうがましだ、「八甲田山」で死んだと思えば・・・
そんな荒んだ気持ちのとき、
映画スタ-を夢みて東京へ来た頃に親父がよく手紙を呉れたのを思い出し、なんとなく読んでみたくなった。
押入れから、手紙の入っているダンボ-ルを取り出し中を開けると、手紙と一緒に巽 直道先生の書かれた
「病・この治りやすきもの」昭和48年9月発行の本が出てきました。
本を開くと「贈・巽 直道」と書いてありました。
記憶を辿って行くと、東京へ出て来るとき、先生が「もし病気になるようなことがあったら、
この本を読みなさい。”治る、治る、すぐ治る”の反復の技術で病気なんかすぐに治るから」と言って、
餞別に下さったのを思い出しました。
これまでは、病気といえば風邪をひいたり、下痢をした位しか経験がなかったので、本の事はすっかり忘れ
ていました。
よし!この本を読もう、書いてあるとうりに実行しようと決心しました。
読み進んでいくと「精神の法則」にぶつかりました。これなんだ!これに気づかなかったんだ!これが
円形脱毛症の正体なんだと解りました。目の前が明るくなり円形はそれから少しして嘘のように治った。
高校生のとき、ボクシングの県大会決勝戦の前日、風邪のため38度5分の熱をだした。
一生に一度のチャンスなので無理を押して出場した。リングに上がると少し足がふわふわとしたが、
試合の方は、実力以上の力を発揮出来てウエルタ-級のチャンピオンになった。
リングから降りてきたとき風邪は完全に治っていた。
又、20才の時、原因は分からないが両の手のひらに無数のイボができた。神戸の三宮に在る。今は、在るかどうか知らないが「金沢病院」で診察を受けたところ、お医者さんが「これは精神的ものだからほおって置いてもすぐ治りますよ」と言われた。根が楽天家なのかどうか、その言葉で安心しイボのことは忘れていた。
何日か経って思い出し、包帯を取ると跡形もなく治っていた。
東宝映画「八甲田山」の撮影のとき、体感温度零下30度、雪の中でフンドシ一丁になって、狂い死にの
シ-ンを演じたとき、肌は一瞬にしてこげ茶色になり、歯はかみ合わずぶるぶると震えていたが、
監督の「よ-い!」の一言で震えはピタっと止まった事を覚えている。
これら全て”精神が肉体を支配している”のだと言うことが理解できる。
本を読み終わったとき、巽 先生はすごい人だったんだ!と感動しました。
こんな立派な方だとは・・・亡くなられてから気付いても後の祭り!
だから今、皆さんに少しでも知って貰おうと思い、柄にもなくこんな文章を書いています。
原田君事

人生の優勝劣敗を決定づける精神(こころ)の法則がある。人間のからだも、この法則に支配されている。
精神の第一法則
思いこむことは必ず実現する!
精神の第二法則
習慣的なプラスの感情は人生を勝利に導き
習慣的なマイナスの感情は人生を劣敗に導く。
精神の第三法則
第一次のマイナスの感情は劣敗の原因となり
第二次のマイナスの感情は劣敗に拍車をかけ
第三次のマイナスの感情は劣敗に安住せしめ
第四次のマイナスの感情は劣敗を再発せしめる。
精神の第四法則
気にすれば気にするほどわるくなる!


ぽえむ・動画


”名人三田光一氏の遠隔透視” 直道会初代会長 巽 直道 著
私は2回にわたって、神境通と真我出行とを書いた。本稿はそのつづきである。今度は「現姿」という名称にした。仏典には、よく「現身」いう言葉が使ってあるのだが、身となると、どうも肉体という感じが強いとおもったので、姿の文字を試みに使ってみた。しかし姿にも肉体の感じがあるようである。そのものずばりの名称をつけることは実にむつかしいものだが、いろいろと試みているうちに、これがいちばん良いという名称が見つかりはしないかという期待で、3度も名称を変えてみたのである。
神境通では雑阿含経、維摩経、観無量寿経の3経典から引用した。しかし、これは遠い昔のことである。真我出行ではヒマラヤの聖者と新約聖書とから引用した。ヒマラヤの聖者は、古いことではないが、場所がインドでは実感にとぼしい。新約聖書は仏典と同じように古すぎる。そこで、この度は日本での現姿を紹介することにした。それは、超心理では偉人といってもよい三田光一氏の現姿である。
濃飛日報主催の実験会
三田光一氏は透視の名人であった。特に遠隔透視は実に見事であった。箱の中の透視は、ときには間違えることもあつたが、遠隔透視は、まず、百発百中であった。この遠隔透視には、現姿を必要とする場合が、しばしばあった。真我が出行して目的地へ行く道が分からない場合がある。そんな時には、姿を現して、誰かに道を尋ねなければならないからである。
私の手許に三田光一氏の新聞切抜帳が3冊そろっている。子息が死の直前に私に托したものだが三田氏が生前に、自分の手で克明に作成したものであって、超心理学界としては国宝級のものだと私は思っている。そこで、この切抜帳を筆写して福心会報に連載しているのだが、そのような実例が時々でてくる。一例を挙げてみよう。
大正5年10月10日午後6時より、明治座で濃飛日報社主催の実験会があった。その時の遠隔透視は、入場者から提出された問題が8件あった。そのうちの一つは
「金津廓、大門通、十八楼の玄関の所にある床置の模様如何」
という質問であった。この遠隔透視について、濃飛日報は次のように報告をしている。
「第8問題、金津廓十八楼云々は、問題が問題とて、三田氏の霊が、十八楼に至る間の経路、稲川楼へ一寸立ち寄りし等の光景を詳細説明して、大喝采を博した」(同12日付濃飛日報)
その翌日の同新聞は次のように報告している。
『三田氏は瞑想中、十八楼の仲居に、いろいろ話を聞いた旨を語った。それにつき、万事に研究的なる自覚会員中島君は、あるいは十八楼の仲居が、その際に何か感ずるところはなかったかと、翌朝わざわざ十八楼へ行って聞いてみたそうだが、仲居の答えには、
「同夜、なんだか妙な人が玄関へ入ってきて、なにやら二つ三つ、しゃべって出て行ったので、不思議なこともあるものだと思った」とのことであった。そこで時間を考えてみると、三田氏が透視すべく瞑想しつつある時間と、妙な男が十八楼へ行った時間とが、ほとんど同時刻であるのみならず、仲居のいう、その人の人相と相酷似せるのに、中島君は一驚を吃し、その神秘的事実を大いに不思議がっているとのことだ』(同13日付濃飛日報「摩訶、不思議。三田氏の霊が十八楼の玄関に現れた」と題する記事より)
これは明らかに三田氏の現姿だ。

私は念写してもらった 赤崎寅蔵
三田さんの超心理能力は実にすばらしかった。昭和8年11月12日、岐阜新聞社主催の公開実験は、さきに報告したが、まもなく私自身が念写されようとは、その時、夢にも思っていなかった。
岐阜公会堂での実験を伝え聞いた友人たちは、ぜひ念写に立ち会いたいものだと言い出した。それが実を結び、三田さんの快諾を得て、昭和9年3月7日と期日が決定した。ところが私は、山口県下へ出張しなければならなかった。まことに残念だったが、却ってそれが縁となり、念写による私の写真が後世までまで残ることになったのである。
当日の参会者は22名。準備ができたとき、いつものように「だれを写しましょうか」
と、三田さんは立会いの人々にはかった。楠公さんを写してもらいたいと提案されたが、結局、疑う余地のない人をということにjなって、みな顔を知っているが、今この席にはいない私を写してもらうことにきまった。2分間ぐらいで写るのだが、三田さんは歯をくいしばり熱湯の汗を流した。
「きれいに写りました」
という三田さんの言葉で、委員に選ばれた人たちが、その乾板を持って写真屋へ走った。写真機なしで、見事に私の姿が写っていた。
註。写真はその時の記念である。上の方に四角にはめこんであるのが、念写による私の写真である。前列の中央は三田光一氏。



昭和37年11月13日 巽 直道先生による念写。「月光の図」と名づけられたもの。枕元の原板に仰臥姿勢で。
念写の再興について
直道会初代会長 巽 直道
福来友吉博士のころは、特殊能力のある人でなければ念写はできない、と思われていた。
透視から念写に進んだ人びとばかりだったからである。
ところが私の確信は、念写は誰でもできる、ということであった。
なんでもないふうに思われるこの確信が念写を再興させたのだが、それは、難病のほと
んどをいとも簡単に治しうる治癒力を、人間誰もが持っていることの実証から生まれた
のであった。自然治癒能力と超心理能力、この二つは全く縁がないようにみえるけれども
人間の心という一点で結びついている。だから、自然治癒能力の探究と念写の再興とが
結びついたのであった。
1 念写と治病との触れ合い
ちょうど20年前、抜難病苦を主とした抜苦の実践をはじめた。
そして、それが今日までつづいている。その初期に「人間病」という言葉を発見した。
医学の進歩のおかげで、どの伝染病舎も閑古鳥がないている。人類にとっては大きな福音だが、
その反面、このすばらしい医学にも大きな矛盾がある。それは、どの大病院にも患者があふれている
ことである。伝染病舎と同じように、医学が進歩すれば入院患者の数は激滅しなければならないはず
であるのに、現状は、その正反対である。抜難病苦によって、この矛盾と取り組んでいるうちに、
私の頭にひらめいたのが「人間病」であった。この言葉は、医学が難病苦を解消しえない矛盾の多くを
解決してくれたのであった。
人間病とは、動物には少なくて人間だけに多い病気、という意味である。人間と動物との、いちじるしい違いは大脳皮質である。人間は新しい皮質がよく発達しているが、動物はそうではない。
仏教の教えにしたがえば、古い皮質による受・想・行の心の働きがあるのは動物であり、これらに、
新しい皮質による識が加われば人間ということになる。だから、人間病を定義づけると、大脳皮質の新しい部分による識をマイナスに使うことによって起こる病気、となるだろう。だから極端な言い方をすると、人間病は人間が動物以下に転落している哀れな姿なのである。
心と病気との関係、ここに念写との最初の触れ合いがあった。
抜難病苦の実践をとおして、私の頭の中にひらめいたもう一つの言葉は、
「思いこむことは必ず実現する!」
であった。これを人間病に活用すると、奇蹟かと思われるほど、みごとな治病効果を発揮した。思い込むというのは、内なる意識に深く刻みつけることで、こむに重要な意味がある。
この簡単な言葉を、現代医学に絶望し、苦悩のかぎりをつくしている人びとに与えることによって、
数え切れないほどの多くが助かっていった。それはすべて人間病だったからである。神経痛、リウマチ
ゼンソク、高血圧といったような、ありふれた病気はもちろんのこと、全聾、全盲でさえ治っていった。
カリエス、テンカン、スモン、癌といった難病中の難病もあった。ということは、大学病院でも長引いて
なかなか治らない難病のほとんどは、人間病であることを意味していた。
このように報告をすると、ほとんどの人びとは、医学の盲点に気づいていないが故に、
「そんなことが本当であれば、医者も薬もいらないではないか」
と、きまったように反撥をする。人間は生まれたときから、自分では気づいていないが、未知の
すばらしい能力を授けられている。この場合は、人間自身の内に秘められている治癒能力だが、
今までの知識と経験とから、はみ出ているものだから、事実であるのに事実として認めることは容易
ではない。この点、念写の場合と好一対である。
思いこむことは必ず実現する!治病の”こころの法則”ともいえるこの言葉は、念写を成功させる為の”こころの法則”でもあった。この法則の活用という点では、治病も念写も同じことであった。
2 念写能力は誰にもある
イエスは難病なおしの名人であった。人びとは、これを治病の奇蹟と呼んだ。しかし、今日では奇蹟が奇蹟ではなくなっている。なぜならば、イエスが治した病気はみな人間病であった。したがって治病の方法は、「思いこむことは必ず実現する!」の活用に他ならなかった。
「汝の信ずるごとく汝になれ!」
これは、中風から立ち上がらせるときに百卒長に与えたイエスの言葉だが、言い方をかえると、「思いこむことは必ず実現する!」である。
「汝の信仰、汝を救えり!」
これは血漏の女に与えた言葉だが、別の言葉でいえば、
「汝のおもいこみ汝を救えり!」
である。人間は誰でも、放っておいてもマイナスに思いこみやすいが、プラスの思いこみは容易ではない。とくに難病の場合は、常識では不可能にちかい。これは念写の場合も同じである。そこで信仰ということになる。信仰は、プラスに思いこむための最高の技術といえるからである。
したがって、イエスの治病の奇蹟は誰にでもできることがわかる。換言すれば、誰にでもできることを、イエスは実行したにすぎない。その証拠に、イエスの弟子にもできたし、私もやっている。また、私の弟子もやっている。名人のイエスと、凡庸の私たちとでは、むろん比較にはならないが、ともかくも、イエスの真似ごとはできている。
仏教に、よく知られている一切衆生悉有仏性という言葉がある。私たちを小学校の一年生とすれば、仏さまは大学の教授にも等しいと、私は思っているのだが、一年生の子供は教授になりうる素質があるように、私たちのような凡夫も仏さまになれる素質があるというのが、この言葉の意味である。それならば、イエスと同じ素質を授けられている私たちに、イエスの真似ごとができるからといって、なにも不思議がることはない。このような見地にたつならば「念写は誰でもできる」という考え方がでてくる。
福来博士のころは、さきにもいったように、透視能力者だけに念写ができた、だから、透視のできない者には念写はできない、と考えたとしても無理からぬことである。しかし本来、透視能力は人間誰にも備わっているのだから、透視の経験のあるなしによって、念写ができるか、できないかが決まるのではない。透視と同じように、念写能力もすべての人々に備わっているのだから、誰でも念写を成功させることができると私は考えた。この考え方が念写を再興させるにいたった主な因である。
同じことが超心理能力一般についてもいえる、と私は思っている。人間誰もが、その能力を潜在させていることは、水泳の能力を誰もが持っているのと同じである。しかし、やっと泳げる程度の人もおれば、世界記録を持っている人もいるというわけで、超心理においても、能力に差があるのは当然である。
3 念写は成功した
実父 原田 治
マイナスの思いこみはマイナスの感情を発生させる。それが長くつづくと、生きる力を抑圧して病という形をとって具体化し、さらに増悪させ、固定させる。これが人間病である。だからプラスの思いこみによって、マイナスの感情をプラスに転じたら、生きる力、癒す力が抑圧から解放されて、その人間病は消滅する。しかも、それは奇蹟かと疑う人がいるほど、みごとな消滅ぶりである。そして自然治癒力の偉大さを、はっきりと見せてくれる。これを要約すると、
「治る!と思いこめた瞬間からその病気は全、軽快に転じる!」
ということなのである。きわめて単純な治病法だが、一般常識にはないことだから、理解するのは容易ではない。また、医学的療法を含むあらゆる治療法に絶望している病人が、治ると思いこむことは非常にむづかしい。さらにまた、治った後の再発の防止も、かなりむづかしい。結局、毎日2~3時間の講座を持たざるをえなかった。
講座では受講者に応じて、人間病に関係のあるいろんな問題にふれることになるのだが、人間探求、特に想念についての講話が多くなるのは、その性質上、当然のことであった。そして三田光一氏の超心理実験が、よく話題になった。熱心に受講をつづけていた赤崎寅蔵氏(全日本海員組合の長老)が三田氏と親交があったことも、その話題を豊富にした。だから、グル-プの人たちの多くは念写にたいする知識があり、「念写は誰でもできる」という私の言葉を受け入れていた。だが、それから先がなかなか進まなかった。
「思いこむことは必ず実現する!」誰にも、この思いこみができなかったのである。観念的には「誰でもできる」という言葉を受け入れていても、現実に「「私にもできる」と思いこめる人はいなかった。できると思いこめないのに、どうして、フィルムを買いに行く気持ちがおきよう。現実的には五里霧中に等しいのだから、なおさらのことである。ところがグル-プに加わってまだまもない原田治氏が、この気持ちを起こしてくれたのである。
原田治氏が私の講座に、初めて出席したのは昭和36年2月5日であった。三男の治章君は左耳が全く聞こえなかった。その聾が2月17日、第二回目の受講中にあいたのである。父の治氏が涙をこぼしたのも無理はない。自分にも治らぬ神経痛と水虫とがあった。それも簡単に治った。一番苦しかったのは20年以上も続いている頭部盲貫弾片創による頭痛であったが、それも見事に消滅してしまった。
心と癒す力との超常の関係を体得した、直情実行型の原田氏は、利他の行として、3月はじめから極楽寺で抜難病苦の実践に乗り出した。多くの難病苦の人々が立ち上がっていったが、特に私の印象に残っているのは、森永武彦氏のひどい胃下垂、三木章法さんの叔母さんの、世にも稀なる大ゲップが治ったことである。
塩田という婦人が心臓病で受講に来たときのことであった。真夜中に原田氏の顔が見えたと報告してきたとき、「これは仏教で言っている神境通ではないだろうか。それなら私にも念写ができる」と、原田氏は思い込むことができた。そして4月23日午前2時ごろに「天・中・主・般若」の文字の念写に成功した。26日には「直道」の二字に成功した。これが、私たちのグル-プでの最初の念写である。
この成功はすでにしるしてきたように、人間にとって、一番深刻で、一番普辺的な人間病からの解放によって発見されたところの、
思いこむことは必ず実現する!
人間病は誰でも治せる!
念写も誰でもできる!
という言葉が実を結んだのであった。そして、その詳細を福心会報創刊号に発表した。そのうちの一部を抜き書きしてみよう。

昭和36年6月5日 原田 治による念写。

昭和36年6月5日 原田 治による念写。

昭和37年7月5日 原田 治による密着念写。

昭和37年7月27日 原田 治による密着念写。

昭和37年1月20日 三男,
原田治章による念写(DPの文字が出ている)

昭和37年2月4日午後1時50分~午後2時0分 原田治章による念写、場所は直道会。

昭和37年2月2日午後10時頃 原田 治による念写.。
「夜の10時頃、誰も入ってくるなよ、と家の者にいっておいて、生まれてから初めての念写をしたわけです。4枚のフィルムをいれた紙袋を敷布団の間に入れて、字の書いてあるザラ紙を1枚ずつ、真っ暗がりにおいて、そうして1番上のフィルムと、こう思うのですね。それから”天”という字ですね。天うつれ、うつれ、天うつれ、うつれとこうやっているわけです。そうしていると、ザラ紙に書いた天の字がですね、電灯の下で見るふうに、パッとでてくるんです。眼はつぶっとるんですがね。そして、すうっと消えてしまったんです。<あっ、これで写ったな>と思って、紙を横へやり、今度は”中”の字です。中うつれ、うつれとやっていると、やはり同じようになったんです。こんな調子で”主”と”般若”の2枚をやって、すぐ子供に現像させたんですが、それが見事に失敗です。全体が、真っ黒けです。しかし、よく見ると、何やら写っとる気もするんですね。もういっぺんと思って、第2組の4枚もやったんですが、これも失敗です。<けたくそが悪いなあ>と思いながら12時過ぎに寝たんです。残りの4枚のフィルムを洋服ダンスの引出しにしまいこんでね--。しかしどうしてもあきらめられんねやな。むっくり起き上がって、般若心経を10篇ぐらいもあげたですかね。それから念写をしたんですが、それが成功したわけです」
一晩に12枚のフィルムに念写している。8枚が失敗したのに、また起きて午前2時という真夜中に念写している。私にも念写できる、という強い思い込みの勝利でなくて何であろう。また、透視の経験はなくても念写はできるという私の予想の的中でもあった。
それはともかく、今になってから考えるのだが、第1回目の念写は成功していたのだ、という気がしてならない。それから後にも、ちょっと見ると、真っ黒だがよく見ると立派に念写されているという例が少なくなかったからである。
なお、天・中・主の3文字は天之御中主神のそれである。般若は、毎日の私の講座で般若心経を解説していたからである。直道の2字は私の法名であるのはいうまでもない。
4 念写実験の普及
原田治氏の念写の成功は、私たちグル-プの人々に強い自信を与えた。それは「原田さんにできたのだから、私にも必ずできる」と思い込ませたことである。だから誰もが、といっても、いつも講座に参会している少数の熱心な人たちだけだが、念写の実験に乗り出し、その後は念写、念写で明け暮れたものである。
私たちにもできるという自信が、なぜえられたのであろうか。それは、原田氏が特殊能力者でなかったからである。はじめから特殊能力の所有者だと認めていると、あの人と私たちとは人間が違うのだ、だからあの人には念写ができるのだ、ということになったに違いない。ところが原田氏は、長年の難病を治したいためにグル-プに参加し、その目的を達したのだから、他の人たちと、まったく同じレベルにあった。だから、同氏の念写を自分の眼で見、実験の経過を自分の耳で聞いた人々は、仏教の開経偈で示されている「見聞受持」で、私にだって念写はできる、という信念を得たのである。この意味において、同氏は念写再興の第一の功労者だといえるだろう。

昭和36年6月29日 原田 治による念写、直道会のマ-クのみを念写しようとして注念せるに、鳳凰の羽根模様が同時に念写画面に随伴してあらわる。

昭和36年7月16日 原田 治による念写。
念写、念写で明け暮れたと言ったのだが、原田氏の成功を契機として、続々と、念写が私のアルバムを賑わしていった。しかし、自然にそうなったのではない。誰でも気軽に実験ができるようにしなければならなかった。それには、簡単に実験用フィルムを入手できるのでなければならなかった。これが第一用件であった。そこで私は、行きつけの写真館アルプスで、一重の黒遮光紙で作った袋に、手札型ネオパンSSを1枚だけ入れ、さらに市販の角封筒で密封したのを作ってもらい常時1,2ダ-ス、手元に置いて置く事にした。そして求めに応じて1枚でも2枚でも、すぐ、実費で渡せるようにした。なんでもないことのようだが、この方法が念写の普及に大変役立った。
新参会者に対しては、次の方法が効果的であった。新しい人々は、ほとんどが念写の知識は皆無である。いま直面している、難病苦から救われたいという、只一つの、切実な目的のために受講に来ているのだから、人間病の講義には耳を傾けるが、念写の話には無関心である。興味を示したとしても、それは人ごとで、自分とは何の関係もないと思うからである。だから進んで実験をしてみようとする人はまずないといってよい。ところが、あらゆる手段をつくしても、どうにもなおらなかった自分の難病が全、軽快に転じると、その人の眼に嬉し涙が光る。半信半疑で受講していたのが、全幅の信頼に変わる。その頃を見計らって、「○○さん、100円出しなさい」とよびかける。100円の意味が解らないから、怪訝な表情になるが、僅かな金額だから私の要求に応えてくれる。引き換えに念写用フィルムを2枚渡して、「あなたもできますよ。このフィルムに念写してごらんなさい。きっと写りますよ」というと、とたんに、その人は顔をほころばせる。そして、生まれてから初めての念写をやってみる気になる。この場合、先に100円を受け取らないで、フィルムだけを差し出して「あなたもやってごらんなさい」と呼びかけても、「私なんかにはとても--」と、しり込みをしてしまうものである。念写を普及させるためには、時と場所に適した方便がいるという一例である。
以上を要約すると、原田氏の成功によって、急速に念写実験が普及したのだが、その理由は、
1抜難病苦の講座が開かれており、毎日、何人かの人々が受講に来ていたこと。
2..気軽に入手できるように、いつも念写用フィルムをたくさん用意していたこと。
3.新たな参会者にたいしては、よき方便を使ったこと。
この3点にあったと私は思っている。

昭和55年7月19日 東京直道会・羽村栄園氏による念写(神奈川県川崎市百合丘の自宅から兵庫県
養父郡八鹿町”豊楽寺”への遠隔念写。)