ずっと変わらないで、なんて、そんな我侭は言わない。


だけど、ねえ。


そんなに急がないで。
成長する速度を緩めて。
私が覚悟を決めるまで、もう少しだけ待っててよ。


























―――亮の学校は準々決勝で負けた。




最寄駅から家へと、夕暮れの街をぼんやり歩いていたら、唐突に後ろから後頭部を叩かれた。
びっくりして振り返ると、思いっきり渋い顔をした亮が、立ってて。


「りょ……」
「メール読まなかったのかよ、お前」
「よ、読んだ、けど」
「じゃあ何で先に帰ってんだアホ!メールで送った場所にいねーから、何かあったのかと思ったじゃねーか!」
「……待ってるなんて返事した覚えないもん!」
「20歳過ぎた女がもんとか言うな!」
「20歳過ぎたら言っちゃいけないなんて決まりはないでしょ!」


ものすごく低レベルなやりとりをひとしきりした後、亮はむっつりと黙り込んで歩き出した。
ここでわざと別の道を行くのも変なので、仕方なくその隣に並ぶ。
顔を見られるのを避けたくて、真横じゃなくて半歩くらい後ろに下がる感じで。
その微妙な位置から、肩に背負ったテニスバッグが亮の歩調にあわせて揺れる様や、真っ直ぐ前を見ている横顔を、ただ何となく、ぼんやりと見ていた。


試合の後、亮が寄越したメールはとても亮らしい、簡潔な文面で。
『会場前のサ店で待ってろ』って、ただそれだけ。
いつもだったら指定された通りに待ってただろうけど、今日はどんな顔して亮を待っていればいいのかわからなくて、逃げるようにして会場を後にした。


今まで一度も観に行くことを許してくれなかった年下の幼馴染が、初めて『観に来いよ』と誘ってくれたテニスの試合。
観客席にいる間に周りから聞こえてきた噂話で、対戦校が関東大会で一度負けた相手だってこととか、関東大会で負けたはずの亮の学校は大会開催地の推薦枠で全国大会に出れることになったんだとか、知らなかったいくつかのことを知った。
そして、私が初めて観たその試合で亮自身は勝利したけれど、結果的に亮の学校は負けてしまった。
同じ相手に、二度までも。


試合を観に行ったことはなかったけど、亮にとってテニスがどのくらい大事なものかは、自分なりに知ってたつもりだった。
随分と昔から伸ばしていた髪を引き換えにしても構わないくらい、大事なもの。
ボロボロに負けて、打ちのめされて、それでも捨てないで、傷だらけになって必死に這い上がって、取り戻すことは叶わなかったはずの場所さえも取り戻した。
何度も何度もギリギリのところで道を掴みとって、必死に走って、走り続けて。
なのに負けてしまった。
終わってしまった亮の夏。


そんな亮を前にして、何を言えばいいかも、どんな風に接したらいいかも、わからなくて。
だから逃げたのに。




(なんで待ってろなんて言ったの)
(どうして追いかけてくるの)
(なんで)






―――なんで、私に観に来いなんて言ったの。






ぐるぐると考え込んでいたその時、不意に亮がこちらを振り返った。
正面から目があってしまって、思わず足が止まる。
いつもと変わらない仏頂面から咄嗟に視線を逸らして、一歩後ずさったら。


「おい、足元!」
「え?きゃっ……」
!」


前触れなく、かくんと膝が落ちて視界が揺れた。
亮の手が伸びて私の腕をしっかり掴む。
カキ、だかパキ、だか、そんなような音が足元で響いた。
亮の腕に支えられたまま足元を見下ろすと、下水道の蓋に開いた穴にミュールの踵が見事にはまっていて。
そっと足を上げたら、ぱっきりキレイに折れたヒールは下水道の中に落ちてしまったようで、影も形もなかった。
見るも無残な姿になった新品のミュールを見下ろして、呆然と呟く。


「……嘘ぉ……」
「ったく、何やってんだ、お前はよ」
「コレ買ったばっかりなのに……」
「今更言ったってしょーがねーだろ。それよか怪我してねーか?」
「え?……痛っ!」


亮に訊かれたのとほぼ同時にヒールの折れた方の足に体重をかけたら、びりっと痛みが走った。
腕から離れた亮の腕が肩を抱いて支えてくれる。
夕暮れの所為で少しわかりづらかったけれど、素足の足首は僅かに腫れてきているようだった。


「捻ったみたい……」
「アホ」
「うるさい!あ、イタタタタ」
「……ちっ、しかたねーな」


肩を支えていた手のひらが離れて、視界からすとんと亮の姿が消えた。
驚く私の耳に、足元から声が聞こえてきて。
慌てて視線を下に送ったら、亮がこっちに背中を向けて屈み込んでた。


「おら、負ぶされ」
「え!?」
「早くしろって。あ、バッグは持てよ」
「い、いい!私歩ける!」
「いいから早く乗れ!」
「ちょっ、ちょっと!亮!」


後ろ手に掴まれた腕を引っ張られて、無理やり担がれた。
肩越しに前に引っ張られた手に、亮のテニスバッグの持ち手を握らされる。
そのまま亮はひょいと立ち上がってさっさと歩き始めた。


「恥ずかしいー!」
「別に誰も見てねーだろ」
「そういう問題じゃないよ!下ろしてってば、ねえ!」
「うるせーよ、耳元で喚くな!」
「ね、ねえ、ホントに自分で歩けるから……」
「足捻ってる上に片方だけ踵が折れた靴でどうやって歩く気だよ。いいから大人しく負ぶわれてろ」
「う……」


言い返せなくて口を噤むと、背中越しに微かな振動が伝わってきて、亮がちょっと笑ったのがわかった。
大通りから道を折れて人気のない住宅街へ。
見慣れた街並みの中を、亮はいつもより少しゆっくりした歩調で歩いていく。
時折立ち止まって、背中の上の私を揺すり上げて、また歩き出す。
ジャージ越しの背中から伝わる体温はあまり高くない。
私と、私に持たせてる自分のテニスバッグと、両方一人で抱えてるようなもんなのに、亮の息は少しも乱れる様子を見せなかった。
ジャージの肩と、亮の被ってるキャップの上から見える景色は、いつもの自分の視点よりも少し違って見えた。




いつの間にこんなに身長が伸びたんだろう。
いつの間にか、こんなに背中が大きくなって、肩幅が広くなって。
私の知ってる亮じゃないみたい。
まるで、普通の、大人の、男の人みたい。




「―――
「……な、何?」


ぼんやりとそんなことを考えていた時に、いきなり名前を呼ばれて、どきりと心臓が跳ねた。
鼓動が早くなったこと、背中越しにバレてるんじゃないかと思いながら、声だけは一生懸命平静を装って。
そんな私の様子に気付いているのかいないのか、亮の口調は至って普通で。


「今日はありがとな、観に来てくれてよ」
「う、うん」
「負けちまったけどな」
「……でも、亮は勝ったじゃない」
「運が良かったんだよ」
「そんな」
「もっといいとこ見せるつもりだったんだけどな」
「……すごい、カッコよかったよ?」
「疑問形かよ」


そんなふうに言って亮は声を上げて笑った。
私も、少しだけ笑う。
私は負けてしまった亮になんて声を掛ければいいんだろう、とか考えて逃げてしまったのに、亮は普通に自分から試合のことを話す。
負けたという事実から目を逸らさずに、真っ直ぐに現実を見据えて。
それを乗り越えて、強い眼差しで先を見つめている。


大きくなったのは身長や、背中だとか肩だとか、そんな外側だけじゃなかった。
いつの間にか、内側も、大人の男の人になってた。






亮の背中の上で揺られながら、さっきより少し落ち着いて、でも少しだけいつもより早い自分の心臓の音を聞きながら、首を伸ばして亮の横顔を見た。
すっかり幼さの抜けた、男の人の顔。


「……亮」
「あ?」
「何で今日、試合見に来いって言ってくれたの?」
「何でって、それは……その、なんつーか、だ」
「ん?」


首を傾げて答えを促すと、急に余裕を失くした表情が、薄く赤い色に染まった。
眉間にしわがよって、仏頂面がますますひどくなる。


「ね、何で?」
「……うるせーな!何でもいいだろ!」
「良くない。ずっとダメって言ってたのに、何でよ?」
「お前が毎回毎回観に行きてーってうるせーからだ!一回見りゃ満足するだろ!」
「何それー。じゃあ満足してないって言ったら、次も観に行っていいの?」
「俺は今日の試合で引退だ!」
「テニスの推薦で大学部も氷帝に行くんだから受験ないじゃない。練習試合とか何かしらあるでしょ?」
「…………」
「楽しみにしてるね」


にっこり笑ってそう締めくくったら、亮はますます赤くなった顔で苦々しげに「わかったよ!」と呟いた。
急に子供に戻った幼馴染の横顔を見ながら、私は心の中で、少しだけほっとしていた。






誰しも、子供のままではいられなくて。
大人への階段を、一段一段、確実に昇っていく。
それはどうしたって避けられないことなのだけれど。


でも、ねえ。
そんなに焦らないで。
成長する速度を緩めて。
私も覚悟を決めるから、だから、二人で。





「ん?」
「次は、今日よりもっといいとこ、見せてやるから」
「……うん」






長い時間かけて空を巡る彗星みたいに。
―――ゆっくり、大人になりましょう。






















新しいミュールが欲しいという願望の現われです。

06/06/08UP