その人は大抵いつも文庫本を一冊買っていく。


「お願いします」
「あ、はい。ありがとうございます」
「袋はいらないので、カバーだけお願いできますか?」
「かしこまりました」


大きな手のひらの中で、ただでさえ小さな文庫本は更に小さく見える。
いつもとは比べ物にならないほど、慎重に、丁寧に紙のカバーをかけてから
それを差し出すと、彼は穏やかに笑って、どうもありがとう、と言う。
代金を払って店を出て行く広い背中を見ながら、ぼんやりと考える。
手渡すその一瞬に、私の手の震えが伝わっていたらどうしようとか。
今日買っていった本の厚さからするに、新しいのを買いに来るのは二日後かしらとか。
そんな風に考えながら、私は彼がまた店に来るのを待ち続ける。


ただ見つめるだけのこの想いが伝わることなんて、はなから期待してはいない。
でもひとつ願いが叶うなら彼の名前くらいは知りたいな、と思っていたある日。




いつものように文庫を一冊手にとってレジに来た彼の手から
その本を受け取ろうとしたところへ明るい声が響いた。


「あれ、タカミネさん!お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ様」


彼よりも幾分若い男の人の発したその響きに心が波立った。




『タカミネさん』、それが彼の名前。




思っても見ない形で願いが叶って、私は自分で思ってた以上に浮かれていたらしかった。
いつものようにカバーをかけた本を手渡す瞬間、意図せずに言葉がこぼれた。


「―――いいお名前ですね」


言ってからしまったと思った。
知り合いでも何でもない、ただの店員にそんなこと言われても、タカミネさんだって困るだろう。
けれど、彼はにこりと優しく笑って。


「ありがとうございます。貴方のお名前も素敵だと思いますよ」


そう言って私の胸のネームプレートを指し示した彼の笑顔が照れくさそうに見えたのは、
私の目の錯覚……ではないと思う。








05/04/08〜05/05/26 Web拍手にて公開
05/05/27 再公開