喉を滑り落ちて流れ込んで。
胸の中、甘い香りが弾けて溶けた。
夏祭りのソーダ水
祭囃子が遠くに聞こえた。
浴衣の裾を気にして履き慣れない下駄をカラコロ鳴らして、やっとのことで辿り着いた集合場所。
予想してはいたけど、案の定誰もいないのを目にして、私の口からは大きな溜息が零れた。
「あーあ……」
集合時間は六時半。巾着の中から取り出した携帯のデジタル表示が示す今の時間は七時。
いつの間にか届いていたメールを開くと、ちゃんからだった。
『どうしたの?来るって言ってたのに来ないから、みんな心配してるよ?あと十分待ってこないようなら先に行ってるからね。とりあえずこれ読んだら連絡よこすこと! 』
因みにメールを受信した時間は四十分過ぎ。
ちゃんたちのことだから、メールでの宣言通り十分は待ってくれてたんだろうけど。
もうメールもらってから二十分くらい経っちゃってるもんなー……さすがにいる訳ないかぁ……。
お母さんってば出掛ける直前にお使いなんか頼んでくるんだもん、もうちょっと早くに言ってくれればいいのに。そりゃ引き受けちゃった私も私だけどさ。
もう一つ溜息を零してから、とりあえずちゃんにメールしようと携帯を開いた時、後ろでざっと砂利を踏む音がして、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。
「―――?」
「……佐伯くん?」
振り返った視線の先にいたのは佐伯くん。
今日来るって言ってたっけ……言ってたとしても、なんで今ここにいるんだろう。
いつもの制服でも、はたまたよく見かけるテニス部のジャージでもなく、和柄プリントのTシャツにジーンズ。
見慣れない私服姿の佐伯くんにドキドキしながら名前を呼び返すと、佐伯くんはジーンズのポケットに指を引っ掛けたまま、私の目の前まで歩いてきて止まった。
「もしかして、も遅刻組?」
「も、って……じゃあ佐伯くんも?」
「うん、部活の後片付けに少し手間取っちゃってさ。もう誰もいないだろうと思ったらがいたからびっくりしたよ」
「私は、お母さんにお使い頼まれて支度が遅れちゃって」
「そうだったんだ。どうやら遅れたのは俺達だけっぽいね」
「……みたいだねぇ」
今日の集まりはクラスの有志で計画したもので、行き先ははっきりしてる。
学校から程近い神社で毎年やってるお祭り。
結構大きなお祭りで、この辺の人はこぞってやってくるから人出もかなりのもので、メールや電話で連絡は取れても先に行っちゃったメンバーと落ち合うのは、多分、かなり、難しい。
佐伯くんもそれはわかっているからか、少し考え込むような表情になった。
せっかく気合入れて浴衣着たのにな……。
どうしたもんかと途方にくれて開きっ放しの携帯に視線を落とした私の傍で、佐伯くんがぽつりと言った。
「とりあえず行こうか?」
「―――え?」
バカみたいに口をぽかんと開けて聞き返した私に、佐伯くんはにっこり笑って。
「せっかく出てきたのに帰るのもなんだしさ。うまくすれば皆とも会えるかもしれないし」
「あー、そう、だね……」
なんでもない事のようにさらっと言ってくれたけど、それってつまり、佐伯君と二人でお祭りに行くって事で。
正直に本音を言えば、ものすっごーく嬉しい、んだけど。
学校内外の佐伯くんのファン(って、私もその一人だけど)に知れたら、タダじゃすまない気がする。
でも、せっかく浴衣も着てきたんだし、佐伯君と二人で話せる機会なんてそうそうないし。
うう、でもやっぱりバレた時の事が怖いなぁ……。
躊躇っていると、佐伯くんはやわらかい笑顔のまま、私に一歩近付いた。
「―――俺と二人で行くのは嫌?」
「い、嫌だなんて、全然そんなことないよ!」
「そっか、良かった。じゃあ行こう」
言葉と同時に、極自然な仕草で私の右手を取る。
思ってたよりも大きくて少しごつごつした手のひらにしっかりと手を繋がれて、いきなりのことに驚いている私に佐伯くんはまた笑いかけて、そっと繋いだ手を引っ張って歩き出した。
浴衣に下駄の私に合わせてくれている、とてもゆっくりした歩調。
半歩先を歩きながら、時折振り返ってくれる佐伯くんの笑顔に否応なく心拍数が上がる。
一秒ごとに早くなる心臓の鼓動が、繋いだ手から佐伯くんに伝わっていないことを祈りながら、私は懸命に下駄を鳴らしてTシャツの背中を追いかけた。
祭り会場は予想以上の人出で、佐伯くんが庇ってくれなければ私は前に進むことすら出来なかった。
あまりにすごい人込みに早々に音を上げた私に、佐伯くんは嫌な顔一つしないで夜店が並ぶ通りを途中で抜けて、境内の片隅に合祀されているお稲荷様の社の前まで連れていってくれた。
用心してかたく結んでいた帯は崩れずに済んでいたけど、纏めた髪は見事にぐしゃぐしゃ。
く、苦労したのになぁ、あそこまで綺麗に纏めるの……。
鏡を見て思わず溜息をついた私に不意に佐伯くんの手が伸びた。
思わず肩に力の入った私に、佐伯くんは小さく笑って取れかかっていたピンを抜き取ってくれた。
「はい」
「あっ……ありがと……」
めちゃくちゃ過剰反応しちゃったよ……恥ずかしい……。
差し出されたピンを受け取ってとりあえず巾着の中に放り込む。
とりあえず、何とか見られる程度に髪を整えようと一旦バレッタをはずした私に、佐伯君は背を向けて。
「何か飲み物買ってくるから、はその間に髪直してなよ」
「あ、う、うん!ありがとう」
「すぐ戻るから」
そう言って佐伯くんは早足で人込みの中へ紛れて消えた。
その後ろ姿を見送ってから、急いで櫛で髪を梳いて纏め直す。
さっき佐伯くんに取ってもらったピンで前髪を留めて何とか形を整えて櫛を巾着に戻した時、中の携帯を見て、ちゃんに連絡してなかったことを思い出した。
いっけない、すっかり忘れてた。
慌てて携帯を開いて着信履歴からちゃんにかける。
五回目のコールの後に耳元で明るい声が響き渡った。
『もしもし、〜?』
「ちゃん!ごめん、連絡遅くなって」
『もー心配したよー!今どこにいんの?』
「えっとね、お稲荷さんの社の前。佐伯くんも一緒だったんだけど、今飲み物買いに行ってくれてて」
『は?何、アンタ佐伯と来てるの?』
「え?だって佐伯くんも参加だったんでしょ、今日……」
予想外の反応に思わず聞き返した私の耳元で、ちゃんは不思議そうに言葉を続けた。
『佐伯が参加するなんてあたしは聞いてないよ』
「……え?」
『マジだって。―――ねぇ、佐伯が参加するって誰か聞いてるー?』
電話の向こうで、一緒にいるクラスメイトたちに訊ねるちゃんの声が響いて、それに続いて聞き覚えのある声が微かに聞こえてきた。
知らない、とか、聞いてない、とか、何アイツ来てんの?とか……。
呆然とする私に向かって、ちゃんは何だか含みのある楽しそうな声音で。
『佐伯のヤツ、何考えてんだろーね。まぁでもせっかくだし二人で楽しんだらいいじゃん!』
「で、でも……!」
『こっちはこっちで楽しくやってるから気にしないでいいよー。だーいじょーぶ、佐伯のファンは今日誰も参加してないし、皆にもきちっと口止めしとくから!んじゃまたね!』
「ちょっ、ちょっとちゃん、待って……!」
私の意見も聞かずにちゃんは通話を切ってしまった。
ツーツーと空しく響くコール音が途切れた携帯を閉じて、俯いていた顔をあげたら。
いつのまに戻ってきてたのか、ラムネの瓶を手に佐伯くんが立ってた。
「……佐伯くん」
「ただいま」
「……おかえりなさい」
「はい、の分。ラムネ好き?」
「……うん」
色々聞きたい事があったのに、差し出されたラムネを受け取りながら言えたのはたったそれだけ。
出てこない言葉の代わりに、今までこんなに見たことないくらい、じっと佐伯くんの顔を見つめた。
私の視線に気付いてないはずはないのに、佐伯くんは何も言わない。黙ってラムネの瓶を傾ける表情はとても静かで、何を考えているのか全然読めない。
佐伯くんのラムネが半分くらい減ったあたりで、私は冷たい瓶を握り締める両手にぎゅっと力を入れた。
喉の奥から懸命に押し出した声は、緊張している所為かちょっと震えていた。
「佐伯、くん」
「……何?」
「今日、ホントは来る予定じゃなかったの?」
「――――――」
私の問いかけに、佐伯くんは何も言わずに再びラムネに口をつける。
中のビー玉がお稲荷様に飾られた提灯の灯りを反射してちかりと光った。
長い、長い沈黙の後、ゆっくり時間をかけてラムネの瓶を空にした佐伯くんは、私の方に向き直ると何故か淋しそうに笑って。
「―――うん」
と、小さく頷いた。
「ごめん、嘘ついて」
「それは別に、いいけど。でもどうして?」
「……わからない?」
問い掛けた言葉に返されたのは唐突な謎かけ。
いきなり問い返されて戸惑った私の顔を見て、佐伯くんの表情が少し変わった。
優しい笑みを口元に浮かべて、私の方へ足を進める。
笑顔はいつものままなのに、佐伯くんの纏う雰囲気は何だかいつもと違ってて。
その雰囲気に圧されるように私は少しずつ後退りした。
だけどすぐに私の背中は後ろにあった鳥居にぶつかって、それ以上後ろへは行けなくなって。
佐伯くんとの距離は、少し手を伸ばせば触れられる、そんなところまで縮まった。
混乱する頭を必死にめぐらせて、後ろがダメなら横に逸れればいいと気がついた私が動くより早く、日に焼けた腕が伸びて鳥居に手をついて私の身体を囲い込んだ。
佐伯くんの顔がゆっくり近付いてきて、思わず目を閉じた私の耳の傍で微かに空気が動いて。
「……と二人でいたかったからだよ」
反射的に開いた瞼の向こう、視界いっぱいに佐伯くんの顔が映る。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうな至近距離に息を呑んだ瞬間、佐伯くんが両腕を下ろして素早く一歩後ろに下がった。
それと同時にいつもとどこか違っていた雰囲気が消えて。
呆然としている私の顔を覗き込んで、佐伯くんは申し訳なさそうに謝った。
「ごめん、ちょっと悪ノリしすぎたよな」
「…………」
「?」
「……び」
「び?」
「びっくり、した」
口にしてから、我ながらここでその台詞はないだろうって思ったけど、ホントにそれ以外の言葉が出てこなくて。
案の定、佐伯くんは一瞬目を丸くして、それから声を上げて笑い出した。
何もそこまで爆笑しなくっても、って一瞬思ったけど、おなかを抱えて笑っている佐伯くんを見ていたら何か自分でもおかしくなってきちゃって、しばらくの間、二人でただひたすら笑ってた。
ひとしきり笑った後。
呼吸を落ち着かせるように、佐伯くんははぁ、と大きく息をついた。
そして同じように息をついた私の顔を見てちょっと笑って、もう一度謝罪の言葉を口にした。
「驚かせてごめんな」
「気にしなくていいよ」
「それと、嘘ついたことも。ホントにごめん」
「それももういいって」
「……でも、さっき言ったことは、嘘じゃないから」
不意に口調を改めて、佐伯くんが言った。
思わず見返した佐伯くんの顔は、やっぱり優しい笑顔をしていたけど、瞳はとても真剣だった。
腕が伸ばされて、最初に手を繋いだ時みたいにそっと私の手を取る。
さっきまで手にしていたラムネの所為か、佐伯くんの手はひんやりと冷たくて気持ち良かった。
するりと耳に忍び込んだ、少し低い声も。
「と二人でいたかったんだ」
「……どうして?」
「わからない?」
さっきと同じ言葉のやり取り。
佐伯くんの言いたいことは、もう今は何となくわかっていたけれど。
でもまだ信じられないっていう気持ちが強くて、私はその答えを口に出せなかった。
黙ったままの私に、佐伯くんはくすりと小さく笑って。
私の手の中の、まだ口をつけていないラムネの瓶を、指先でこつんと叩いた。
「―――、ラムネ好き?」
その問い掛けもさっきの繰り返し。
佐伯くんが何を言いたいのか、咄嗟にわからなくなりながら、私は大きく首を縦に振って答える。
「……うん、好き」
「じゃあ俺は?俺のことは、好き?」
「―――」
遠くに聴こえる祭囃子よりも。
耳の奥で、どくどくと波打つ心臓の音が大きくなるのを感じながら。
答えを待つ佐伯くんの目を見つめて、私はもう一度大きく、首を縦に振った。
「……好き」
次の瞬間触れた唇から感じた甘い炭酸の香りが。
喉を滑り落ちて、胸の奥を優しく満たした。
リハビリ中。(ツッコミどころ満載ですが見逃して下さいの意)
05/08/19UP