それは一輪の。


























走るリズムに合わせて手に持った財布の中の小銭がチャリチャリと軽快に鳴る。
広い体育館中を走り回って、ロビーでやっと目的のものを見つけた。
最近では滅多に見かけなくなった公衆電話に財布の中に一枚しかなかった十円玉を飲み込ませて、我ながらたどたどしい手つきでプッシュボタンを押す。
自分の家の電話番号なのにスラスラ出てこないのがちょっと情けない。
携帯の機能に頼りすぎとるからだ!とか、またおじいちゃんに言われそうだなあ……なんて考えていた私の耳元で、不意にコール音が途切れて聞き慣れた声が響いた。



『―――もしもし?』
「あ、お母さん?」
『あら、終わったの?』
「うん、ついさっき表彰まで終わった。でね」
『足はどう?大丈夫だったの?』
「もう平気だって言ってるじゃない」
『分かっていても心配なのよ』
「ご心配かけてすいません!それで、あのね」
『そう言えばあなた、携帯忘れていったでしょ。今どこからかけてるの?』
「公衆電話!それでね、あの」



こっちの言葉を遮って繰り出されるお母さんの質問の所為で、なかなか電話した本来の目的が切り出せない。会話が途切れてやっと肝心の本題に入れると思った瞬間、耳元でビーッと時間切れを知らせるブザーが鳴った。
慌てて財布の小銭を探ったけど、何かを買った訳でもないのに中味が変化するはずがなく、さっきチェックした時と同じで百円玉が数枚とあとは一円や五円ばっかり。
うう、お釣りが戻ってこないのは勿体ないけど、この際仕方ない……!
使うのを躊躇っていた百円玉を取り出して、投入口に放り込もうとした、その時。



背後からするっと伸びてきた誰かの手が銅色のコインを二枚、細長い投入口に押し込んだ。
少しごつくて長い指は明らかに男の人のものだった。
びっくりして振り返ると、視線の先に電話向こうのお母さんと同じくらい見慣れた顔があって、更にびっくりする。
今日来るなんて聞いてない。というか、ここに来るとは思ってなかった。
何たってここしばらくまともに口を聞いてない相手だったから。……ケンカ、してて。
そんな訳で、とてもシンプルな疑問が口をついて出た。



「……こんなとこでなにしてんの」
「―――俺のことより、さっさとおばさんに報告したら?」
「え?あ」



そう指摘されて、慌てて二十円分通話時間が引き伸ばされた公衆電話に向き直る。
受話器を当てているのと反対の耳で小さな溜息が聞きながら、電話の向こうで律儀に待っていてくれたお母さんに簡潔に結果を伝えてから通話を打ち切った。
一枚だけ戻ってきた十円玉を取り上げて背後を振り返る。
手の中のコインの持ち主は、さっさとこっちに背を向けて出入り口に向かって歩き出していた。
慌ててその背中を追いかける。普段よりゆっくり歩いていたおかげですぐに追いつけた。



「ちょっと待ってってば―――サエ!」



追いつく直前に呼びかけた私の声に反応して足が止まる。
立ち止まりはしたけど振り向く気配がない彼のすぐ後ろまで近寄った時、低い声が応じた。



「……何?」
「何って……」
「その格好で家まで帰る訳には行かないだろ?早く着替えに行きなよ」
「……着替えてくるまで待っててくれんの」
「何で?俺はもう帰るよ」
「ちょっと……!」



一度も振り向かずに再び外に向かって歩き出そうとしたサエの上着の裾を慌てて掴む。
カーキ色のパーカーブルゾン。去年一緒に出掛けて買ったヤツ。サエに頼まれて私が選んだ色。
引っ張られる感覚にサエは足を止めて、少しだけ、本当に少しだけ首を動かした。
明るい色の髪が揺れて日に焼けた頬が見えたけど、どんな表情をしてるのかはわからない。
感情を押し殺した硬い声が頭上で響く。



「今度は何?」
「……さっきの質問にまだ答えてないでしょ。ここで何してんの」
「オフをどこでどんな風に過ごそうと俺の勝手じゃない?」
「……そういうことが聞きたいんじゃないよ」



私たちが今いる市民体育館には屋内テニスコートもあるから、サエが来てても別におかしくはないけど。
今朝ここに着いてすぐに掲示板の館内使用一覧を見たけど、テニスコートの欄は真っ白だったはず。
テニスコートの使用以外でサエがここに来る理由はひとつしか思い浮かばない。






「―――試合、観に来てくれたの?」
「……うちの学校が出てる試合を見に来たんだよ」
「それって結局私を観に来たってことじゃん」
「別にだけを観に来た訳じゃないよ」
「…………」
「……ごめん」



彼らしくないそっけない口調と突き放すようなキツい言葉に思わず目を見張る。
その私の表情を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、サエは微かに顔をしかめて小さな声ですぐに謝った。
後ろ手に伸ばした手でまだブルゾンの裾を掴んでいた私の手をそっとはずして、全身でこっちを向く。
久しぶりに真正面からサエの顔を見た。
何だか妙に恥ずかしくなって俯いたら、さっきまでとは打って変わって優しい声が頭上で響いた。



「……怪我の具合、どう?」
「もう全然平気」
「本当に?」
「でなきゃ先生もお医者さんも試合参加の許可なんて出してくれないよ」
「それもそうか」
「うん」
「…………」
「…………」



そこで会話は途切れる。
何だか気まずい沈黙が続いて、段々と居たたまれなくなってくる。
何か喋らなきゃ、と必死に頭を巡らせている私の視界を、不意に淡い色彩が掠めた。

ひらりと淡いオレンジ色が揺れる。
目の前に差し出されたのは一輪のガーベラ。
茎にピンク色の細いリボンが蝶結びに結ばれたそれは、サエの長い指に握られていた。

……花?



「……何、コレ」
「花以外の何かに見える?」
「……くれんの?」
「復帰祝いにね」
「……あり、がと」



受け取ってサーモンピンクの花びらに視線を落とした時、不意に薄暗く翳った。
驚いて視線を上げたら、すぐ目の前に目を閉じたサエの顔が迫っていた。
こつんと軽い衝撃と共に額がぶつかる。柔らかい髪の感触を何だか懐かしく感じながら視線を動かした先。
伏せられた長い睫ときれいなラインを描く唇が、微かに震えていることに気づいた。

……震えてる?サエが?
予想外のことにどう反応していいかわからないでいると、ぽつりと零すような呟きが聞こえた。
その声も、やっぱり少し震えていた。




「……また、目の前で怪我されたら、どうしようかと思った」
「…………」
「よかった」






――― 一年前、試合中に怪我した時も、サエは応援しに来てくれてた。
怪我して担架で会場から運び出された私の傍に駆けつけてきた、あの時のサエも、そういえば今みたいに微かに震えていたっけ。
痛みを堪える私の手をしっかり握って、病院で治療を受ける為に離れるまでずっとそのままでいてくれた。治療が終わった後、割り当てられた病室に顔を出したサエの手には数枚のバンドエイドが貼られていた。
怪我の痛みを紛らわすように強く掴んでいた私の爪が食い込んでつけた傷。
ラケットを握る大事な利き手に怪我させてしまったと知って慌てて謝った私に、サエは笑って黙って首を横に振って見せた。大丈夫、何も心配することないんだって、笑っていた。

―――今と同じ、微かに震える唇に一生懸命優しい笑みを浮かべて。



サエとケンカした理由は、今日の試合だった。
怪我の完治を確認してお医者さんや先生や親の許可をもらって、そうして参加登録までこぎつけた久しぶりの試合。
出れることになったって話をした時、友達も幼馴染たちも頑張れよって応援してくれる中で、一番喜んで欲しかったサエだけがいつまでも頑なに首を横に振った。
宥めてもすかしても反対し続けるサエに、私も意地になっちゃって、それで付き合って初めての大喧嘩。
サエにとってのテニスと同じくらい私にとって大事なことだったから、これだけは絶対譲れなくて、だからケンカになったのも仕方ないことだと思った、けど。
だからって、一年前の怪我でサエにどれほど心配かけたかを忘れた訳じゃなかった。






「……心配させてごめんね」
「……無事に済んだんだし、もういいさ」
「ごめんなさい」
「俺の方こそ、勝手なことばかり言ってごめん」



額を触れ合わせたまま交わす言葉は、ついこの間までケンカしてたことなんて忘れてしまいそうなほど優しくて、何だか涙が出そうになった。
そろりと視線を上げると、サエも閉じていた目を開けた。
私たちは見つめあって、そして同時に小さく笑った。

―――これでもう、ケンカはおしまい。
そう瞳で確認しあって。
そして手を繋いで歩き出す。今度は爪を食い込ませないように、そっと。






















110,000Hitを踏まれた友人のyumiちゃんに捧げます。
も、すっごい遅くなってホントごめんなさい……!しかもなんかすごい、中途半端……_| ̄|○
サエからお花をもらいたいってリクだったんですが、ガーベラ一輪だけってケチくさいなうちのサエ!(笑)
でもねー、でっかい花束って何だかんだ言って高いじゃないですか!中高生のお財布事情で考えたら無理だと思うのよね!(そんなところでリアリティを追求せんでも良かろうに)
こんなんですが、良かったらもらってやってね、yumiちゃん!そしてこれからも末永く宜しくです!

06/12/17UP