どんなに撥ねつけても、拒んでも、詰っても。
その優しい手はいつだって自分に差し伸べられることを知っている。
貴方の優しさが哀しいほど痛い。
Yushi Oshitari
ブーツの踵が水溜りに踏み込んで、小さく水を撥ね上げる。
慣れない靴に痛んでいた足は今は痛くない。
二月の雨はとても冷たくて当に感覚は麻痺してしまっていた。
―――雨は強くなるばかり。
あの人の好みに合わせた服も、靴も、何もかも。
雨に濡れて泥にまみれてめちゃくちゃ。
ただ一つだけ彼の好みに合わせることを拒んだ髪の色。
染めろと言われても絶対に染めなかったその髪も、今は他と同じように雨に濡れて。
額に張り付く前髪をかじかんだ指先でのろのろとかき上げる。
少し広がった視界の端に人影が映った。
人気のない公園の片隅で深緑色の傘が揺れて、その下に隠れていた顔が覗く。
「……何、してるの」
「散歩」
こんな雨の中?
そう訊き返そうとしたけど、言葉の代わりに唇から零れたのは乾いた笑い声。
俯いた私の視界に雨に濡れて色の濃くなったスニーカーが映って、そして雨が遮られた。
傘をさしかけているのと反対の手がそっと持ち上がって、濡れて頬に張り付いた私の髪をそっと後ろに流す。
「頬、冷たいで」
「……」
「こないに身体冷やしたらあかんやろ、女の子やのに」
「……どうして、こんなとこにいるの」
「…………」
私の家からは程近い、小さな公園。
「忍足の家からどれだけ離れてると思ってんのよ。わざわざ雨の中散歩に来るような距離じゃないわよ、こんなとこ」
「……そうやな」
「あの人が……忍足に連絡したの?」
「……ああ」
「……ふぅん。それで、わざわざ、来たんだ」
わざわざ、だとか。
言われて傷つかない訳ないことわかってて、それでも私はわざとらしくそんな言い方をする。
彼が怒らないこともわかってるから。
わかってて、わざと傷つけてる。
ナイフを突き立てるように彼の心に刺さる言葉を選んで。
そうすることで、それでも私に優しい彼に甘えている。
「それじゃ、もう聞いてるんだ」
「……何のことや」
「―――しらばっくれなくてもいいわよ。別れたこと、聞いたんでしょ」
「……」
「他に付き合ってる子がいたことも知ってたんでしょ?」
「」
「いいよ、今更隠さなくたって。……私だって知ってたもの」
そう、知ってた。
もうずっと、あの人の気持ちが自分に向いてないことくらい、わかってた。
認めてしまうのが嫌で目を背けていただけ。
「だから別にショックなんか受けてない」
「……」
「もういいから。帰って」
嘘の羅列。
ショックなんか、受けてる。もう嫌と言うほど。
ずっとわかってたけど、それでも面と向かって吐き出された別れの言葉に、どうしようもなく傷ついてる。
ホントは帰って欲しくなんかない。一人になんかなりたくない。誰かに縋りたい。
軽い音をたてて忍足の手から傘が地面に落ちた。
私を引き寄せた大きな手はそっと後ろに回される。
それは抱きしめると言うよりも包み込むような、優しすぎる抱擁。
「いやや、帰らへん」
「……私が帰って欲しいって言っても?」
「それはの本心とちゃうやろ」
「……どうして、そんなことがわかるの」
「お前の目とか表情とか見たらわかるで?帰らんで欲しいて、一人にせんで欲しいて、目が言うてる」
「……そんな、こと」
「ないなんて言わせへんよ。……いつも言うてるやろ、俺には甘えてええよ、て」
私を包む腕に余分な力はこもらない。
ただ包み込むだけ。
壊れ物に触れるように、そっと。
「俺はのことが好きやから、支えになりたい」
「…………」
「別に、同じように好きになってくれなんて言わへん。利用されるだけでも構わへん」
「…………」
「泣きたいならなんぼでも付き合ったる。あの人の代わりに俺のこと詰ったってええし、何なら引っ叩いたって構わんわ。がホンマにして欲しいことやったら何でもしたるから、言うてみ?」
―――優しくしないで。甘やかさないで、突き放して。
そう言っても、忍足はきっと哀しそうに笑って首を横に振るんだろう。
だってそれは私の本心じゃないから。彼にはわかってしまうから。
いつだって、どんな時だって。
あの人よりも忍足の方がずっとずっと、私の気持ちをわかってくれるから。
優しくして。甘やかして。私のことが必要だと言って。
抱きしめて。キスをして。好きだと言って。愛してると言って。
そう言ったら、彼はきっと何でもないことのようにたやすく笑って、その全てを叶えてくれる。
抱きしめる腕の強さに、重ねられる唇に、囁かれる言葉に、そのひとつひとつに私があの人の姿を重ねるんだとわかっていても。
私が決してあの人を見ていたのと同じように忍足を見ないとわかっていても。
――― そしてそのことで、どれほど自分が傷つくとわかっていても。
優しい人。
優しすぎる人。
「……は……て……」
「……何?」
「……忍足は、優しすぎ、て」
―――哀しい、ね。
そう呟いた私に、忍足は何も言わなかった。
ただ、少しだけ、本当に少しだけ、私を包み込む腕に力を込めた。
胸が痛む。
あの人を失った辛さと。
忍足の優しさに。
そしてどんなに残酷なことかわかっていても、その手を求めてしまう自分に。
―――胸が痛む。
雨はまだ、やまない。
(05/02/14up)