知らなかった。気付こうとしなかった。考えないようにしてた。
―――男の人だったんだって。
「……何してんの」
「…………!」
感情の読みにくい声が頭の真上で響いて、ぎくりと肩が揺れる。
その声が聞こえたのと同時に肩にあたっていた雨の感触が途切れて、視界がうっすら翳った。
顔を上げると、差し掛けられた傘の下で、見慣れた彫りの深い顔がこっちを覗き込んでくる。
発する声と同様に感情が読み取りにくい淡々とした表情の中で、色素の薄い切れ長の目が真っ直ぐこっちを見つめていた。
「……何してんの?」
「…………」
二度目の問い掛けは、さっきよりも少しだけ、語尾が強く上がって。
その問いに答えるより先に、ぱさりと頭を覆った柔らかい感触が、私と天根の間を隔てた。
土と海の匂いのする薄いクリーム色のタオル。
その上からぽんと軽い衝撃があって、天根の大きな手が私の頭を押さえたのがわかった。
小さな子供をあやすように、優しく触れる手。
―――あの人の手と似ている。
そう思った途端、箍が外れたみたいに一気に涙が溢れてきて。
随分と長いこと雨に濡れて冷たくなってた頬に熱い涙がじんじんとしみた。
きっともうあの人が、こんな風に触れてくれることはない。
―――叶わなかった私の恋。
「……落ち着いた?」
「……うん」
ひとしきり泣いて、やっと涙が止まった頃。
ずっと黙ったままだった天根がぽつりと口を聞いた。
頷いて顔を上げた私の視界はまだ降り止まない雨で少しけぶっていて、その中で差しかけてくれてる傘の端から滴る雫が天根のシャツの肩を塗らしていることに気付いた。
「天根、肩」
「ん、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ、テニス部員が肩冷やしたらダメじゃん!」
「うちすぐそこだし。俺よりの方が大丈夫じゃないと思う」
「私は、別に―――」
「家まで送ってく」
何気ない天根の言葉に、落ち着いたはずの胸がまたぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
家には。
まだ。
「……家、の鍵、忘れて」
「……親は?」
「仕事で、遅いから。だから、どこかで時間、潰してく」
「ふぅん」
途切れ途切れに呟く、見え透いた私の嘘に気付いているのかいないのか、相変わらず読めない表情で天根は小さく相槌を打つ。
雨が傘を叩くぱらぱらという小さな音と、天根と私の微かな息遣いだけが聞こえて、それから。
「……なら、うち来る?」
ぽつりと。
降る雨の雫みたいに、ぽつんと。
零れて響いた言葉が私の中に届いて意味を理解するまで、結構長い時間が過ぎた、気がした。
いつの間にか俯いていた顔を上げたら、さっきと変わらない表情の天根がいて。
私の頭に被せたままのタオルの端っこ、傘の柄を握ってるのと反対の、空いてる方の手で掴んで、私の頬をそっと擦った。タオル越しに涙の通り道をなぞる指の感触に心臓が震えた。
「うち来る?」
また少し語尾の上がり方が強くなる、二度目の問い掛け。
戸惑う私の頬からタオル越しの温もりが消えて、代わりに手首を掴んだ。
大きな手のひらと長い指はしっかりと私の手首を一回りした。
そのまま引っ張られて歩き出す。ふわりとはためいたタオルが滑り落ちそうになるのを、自由な方の手で慌てて押さえながら縺れた足を動かした。
「でも天根、悪いよ、そんな」
「うちもまだ親も姉ちゃんも帰って来ないし、遠慮しないでいい」
「だけど」
「じゃあ自分ちに帰る?」
「それは」
出来ない、と言う言葉を飲み込んだ私の顔を覗き込むように立ち止まって。
感情の読み取れない薄い色の眼差しを、心の奥底まで見透かすようにじっと注ぐ。
二者択一。まるでそれ以外の答えは最初から用意してないような天根の問い。
家には帰れない。まだ、帰れない。
困って、戸惑って、迷って。最後に小さく縦に首を振る。
それと同時に天根は掴んだままだった私の腕を離して、代わりに長い指を私の指にしっかりと絡めて繋ぎ留めた。
さっき頬を滑った指の感触を思い出して心臓が波打ったけれど、不思議と嫌じゃなかった。
再び歩き出そうとした時、また天根が口を開いた。
「……、わかってる?」
「え?」
「俺がどうしてこうしてるか。わかってる?」
「…………」
風に傘が揺れて。
私を見下ろす天根の顔が一瞬だけ暗く翳った。
色の薄い、切れ長の目。
鋭そうで、でも不思議と柔らかい雰囲気の目が。
射るように私を見て。
くらくひかる。
「……わたし」
「俺は本気だから」
真っ直ぐに落ちてくる眼差しと、伸ばされた腕が、私の身体の自由を絡めとる。
天根の手から転がり落ちた傘が水溜りに落ちて、ぱしゃんと小さな水音をたてる。まるでタイミングを見計らったみたいに勢いを強くした雨が私と天根の身体を濡らしたけど、冷たさは感じなかった。
重なった身体と唇は酷く熱かった。
『一瞬だけ黒く染まる』 H・Amane
060903