放課後、第二校舎の階段を昇っていた俺の足元にひらりと滑り落ちてきたのは、数枚のプリント。
無秩序に散らばるそれを拾い集めながら階段を上がりきったところで、夕暮れの踊り場にうずくまる後ろ姿を見つけて足を止める。小さな背中と髪の色だけで、それが誰なのかはすぐにわかった。



足音に反応してこっちを振り向いた顔が即座に強張る。
お世辞にも好意的とは言えないその反応に苦笑しながら、止めていた足を再び動かして彼女の傍らまで行って片膝をつくと、は露骨に顔を背けた。
制服のスカートから伸びる華奢な足をぺたりと床に投げ出してへたり込んでいる。小さな手のひらで足首を包み込むように抑えているその姿から、何となく状況が読み取れた。



「……捻ったんか?」
「あんたには関係ないでしょ、ほっといて」
「人の通り道にへたり込んどって、その言い草はなかろうが」
「好きでいる訳じゃないわよ」



いつもの噛み付くような口調も、今日はどこか弱々しい。
僅かに動いた瞬間、足首に負担が掛かったのか眉を顰めたを見て、俺は溜息をひとつ。
特別教室ばかりが入った第二校舎の一番端、普段からあまり使われることのない階段。ただでさえ普段から人気の少ない場所の上、ほとんどの生徒が帰ってしまったこの時間に、他の誰かが通りかかる可能性は極めて低い。
とりあえず一旦立ち上がって、プリントを全て拾い集めて適当に揃えてに差し出した。
プリントの束を受け取ったが、不本意そうに掠れた声で小さく呟いた「ありがとう」の一言に軽く手を振って答えてから、その前に再び膝をつく。

―――に向けた背中に小さく息を呑む声がぶつかった。



「……な、何、よ……」
「見りゃわかるじゃろ。負ぶってってやるから、さっさと掴まりんしゃい」
「い、いらないわよ、自分で歩けるから!」
「それにしちゃ、ずいぶんと長くここにへたり込んどったようじゃが」
「そんなことない。何の根拠があって言ってる訳」
「うん?……そうやのう、その不自然に紫色した唇とか」



俺の言葉を聴いた途端、足首を押さえていた手が動いて、ぱっと口元を覆い隠そうとする。
腕を伸ばしてその手を素早く捕らえると、非難するようにキツい眼差しが注がれた。



「何す……」
「あとはこの手かのう。ああ、やっぱり、すっかり冷えきっとるな」
「……離してよ」
「その意見は却下」
「ちょっ……!」



その手を捕まえたまま、捻っていた上半身を戻して華奢な身体を背中に引き寄せる。
ちょっと強引に引っ張り過ぎたか、が俺の背中で小さな悲鳴を上げた。



「いたっ!」
「あ、すまん。足に負担かけたか」
「……謝らなくていいから離して!」
「その意見は却下」



さっきと同じ台詞を繰り返して、必死に抵抗するを無理やり負ぶって立ち上がった。不安定な体勢が災いしてぐらりとバランスを崩したが、小さな悲鳴を上げて俺の首にしがみつく。
しっかりと回された腕からほのかに香った甘い匂いに、らしくもなく胸がざわめいた。



「さすがにもうプリントはばら撒かんかったか、偉い偉い」
「……!」



内心の動揺に気づかれないように、わざとからかうような声を上げると、しっかり首に巻きついていた腕が離れて、掴んだままだったプリントの束が耳元でばさりと音を立てる。
腕の温もりが失われたことに少しがっかりして、そしてそんな自分が滑稽に思えた。



「いい加減にして。降ろして」
「その意見も却下やね」
「…………」
が俺を好いとらんのは知っちょるが、さすがにこの状況で放っとく訳にはいかんでな。少しだけ我慢してくれんか。保健室まで行きゃ、あとは先生方が何とかしてくれるじゃろ」
「……」



これ以上抵抗してもどうにもならんと思ったのか、小さな溜息を最後に口を噤んだを軽く揺すり上げてから歩き出す。
互いに無言のまま、一階まで階段を降りきって、誰もいない廊下を第一校舎に向かってゆっくり歩く。が全身に力を入れて俺の身体に極力寄りかかるまいとしているのを背中越しに感じ取って、俺は声を立てずに笑った。
と、間髪いれずに不機嫌そうな声が耳に流れ込む。



「……何笑ってるの」
「声を立てんように笑ったのに、地獄耳やのう」
「身体の揺れでわかったのよ」
「ああ、なるほどな」
「それで?何を笑ってたの、私のドジをバカにして?」
「被害妄想が激しい過ぎるぜよ。そうじゃなくてな、は本当に俺を嫌っとるんじゃなーと思っての」
「……嫌われてることを笑ってるの?マゾじゃあるまいし」



呆れたような口調で言われて、俺は今度こそ声を上げて笑った。



「何よ」
「いや、やっぱりは面白いと思ってな。改めて気に入ったわ」
「気に入られたくない。嬉しくない」
「そこまで嫌わんでもよかろうに。つうかそんな嫌われるようなことした憶えないんじゃが」
「……信用出来ないのよ、アンタ」
「ほほう?何でじゃ?」



聞き返しながら、少しばかり下にずり落ちてきた華奢な身体をもう一度軽く揺すりあげる。僅かな沈黙の後、は少し言いにくそうに小さな声でぽつぽつと続けた。



「……顔は笑ってるけど目が笑ってなくて、何考えてんのかわかんない」
「目が笑っとらんか」
「来るもの拒まずで二股三股かけるのも平気だなんていう男は大嫌い」
「じゃあ、俺が全部の女と手を切ったら、付き合ってくれるんか?」
「――――――」



沈黙。それからゴクリと息を飲み込む音。
続いて発した声は、必死に抑えようとして失敗して、微妙に上擦っていた。



「……な、に、言ってるの」
「今までの女との関係、全部清算したらは俺のもんになってくれるかって訊いとるんじゃけど」
「アンタ、私の話聞いてた?私は大嫌いだって言ってんのよ?」
「知っとるか?大嫌いから始まった恋愛が一番厄介なんやぞ?これ以上嫌いになりようがないほど嫌ったら、後はもう好きになるしかない」
「…………ポジティブシンキングにも程があるわね」
「お褒めいただき、光栄の至り」



本人は思い切り嫌味ったらしく言ったつもりなんだろうが、露ほどもダメージは受けなかった。
さらっと受け流されて言葉に詰まったところへ、とどめとばかりに告げた俺の言葉に、は完全に返す言葉を失ったようだった。





「いい加減観念して、俺のもんになりんしゃい」











『懐いてくれませんか』 M・Nioh
070217