人生何度目かの失恋をしました。
「うわ、すごい顔」
「出てけ」
「……ここ俺の家なんだけど」
笑い混じりの軽い溜息が聞こえて、保湿ティッシュの箱がコトンと音を立てて目の前に置かれる。
やわらかな薄紙が目元に押し付けられて、涙でぼやけていた視界が少しだけ輪郭を取り戻した。
目の前にはいつも私の泣き言を聞いてくれる同い年の幼馴染によく似た、綺麗に整った穏やかな顔。
いつの間にかすっかり子供っぽさが抜けてしまったその顔を見ながら、私がまたひとつ大きくしゃくりあげると、虎次郎は微かに苦笑して新しく引っ張り出したティッシュを、今度は鼻に押し付けた。
「何、また失恋したの?」
「ま゛だって言うな゛」
「だってもう何度目だっけ。そのたびにこうしてうちに来てさ」
「うるひゃい」
「あーほら、そんなに強く擦ったらダメだって」
「……わたしはに会いに来てんろよ。あんだに構ってもらう必要はない゛」
「でも今日は姉貴帰ってこないよ」
「……う゛ぇ゛?」
帰ってこない?何で?
またも鼻を押さえられた所為で、微妙にくぐもった声で聞き返した私の目を真っ直ぐに見返しながら、虎次郎がこくりとひとつ頷いた。
「大学のサークルの飲み会。先輩んちで鍋やって、そのまま泊まってくるって。聞いてない?」
「……あー」
そういやそんなこと言ってたような。てかあれって今日だったっけ。なんて間の悪い……。
思いっきりに泣きついて愚痴聞いてもらいたかったのに……この胸にわだかまるもやもや感をどこへぶつければいいのか……。
仕方ない、今日は自分の部屋でひとりで淋しく泣こう。
そう決めてぐすぐすと盛大に鼻をすすりながら立ち上がったら、こっちへ身を乗り出していた虎次郎にテーブルについた手を軽く押さえられた。
昔は私より小さかった手のひらがいっぱしの男の手になってて、ちょっとどきりとする。
それを悟られたくなくて、殊更不機嫌な表情を作って睨みつけた。
「あにすんのよ」
「その顔で外歩くのはやめた方がいいよ。小さい子供が見たら泣き出しそうな酷さだから」
「あんたケンカ売ってんの?」
「本当のこと言っただけ。化粧落ちてぐしゃぐしゃで見れたもんじゃないぞ。とりあえず顔洗って、もうちょっと気持ちを落ち着かせてから帰りなよ」
「…………洗面所借りる」
「どうぞ」
何だかうまく乗せられたようでいい気はしなかったけど、この佐伯家からうちの家までの徒歩三分の道が、今の時間は結構人通りが多いことに思い至って、素直に顔を洗いに洗面所へ向かった。
父親同士が幼馴染ということもあって、物心ついた時から自分の家同様に出入りしているので、何がどこにあるかは把握済み。
お風呂場の脱衣所兼洗面所に行って洗面台の鏡を覗き込むと、確かに人目に晒すにはヤバ過ぎるご面相で、自分の顔なのにちょっとギョッとした。
これじゃあすごい顔って言われても仕方ないかも……。
勝手知ったる何とやらで、のクレンジングを拝借して崩れた化粧を綺麗に洗い流した。
改めて鏡の中を覗き込むと、濡れて額に貼りついた前髪から丸い頬に雫が伝った。
化粧をしないとかなり年下に見られる童顔。
ただでさえコンプレックスであるその顔が、今の心情を映している所為か、いつもより更にガキっぽく見えてますます気分が落ち込む。
鏡の中で、髪から落ちる水滴とは別の、熱を持った雫が頬を滑り落ちていくのを見るのも辛くて、深く俯きながら苦々しい気分で呟いた。
「……情けない顔……嫌いだ、こんな顔」
「俺は好きだけど」
「―――!」
いつの間に入ってきていたのか、顔を上げると虎次郎が鏡に映っていた。
鏡越しに睨みつけても全く気にしていない様子で一歩前に進む。
私が振り返るより先に腕が回されて、私を緩く抱きしめた。
温かい吐息が首筋にかかって、濡れた頬に唇が触れる。涙が描いた透明なラインをゆっくりと辿る、温かくて柔らかい感触は、不思議と嫌じゃなかった。
鏡の中に映る虎次郎と自分の姿は、スクリーンに映る映画のワンシーンか何かみたいで、まるで他人事のようにぼんやり見つめながら口を開いた。
半ば無意識で零した言葉は意味のない質問。
「……何してんの」
「抱きしめてる」
「なんでそんなことすんの」
「好きだから」
頬をなぞるのをやめないで話すから、触れたままの虎次郎の唇の震えがダイレクトに伝わってきた。
鏡越しに視線が絡み合う。
薄い唇の間から僅かに覗いた紅い舌が戯れのようにちろりと頬を這う。
囁く声に合わせて震える吐息に、ついさっきまでのもやもやが融かされて消えていく。
鏡の中で微笑んだ虎次郎の顔は、手のひらと同じでいっぱしの男の顔だった。
「そんな訳だから、次は俺にしときませんか」
「……本気で言ってんの?」
「相手に冗談でこんなこと言わないよ」
「…………」
「ついでに、俺で最後にしとこうよ」
「最後になる気、あるの」
ゆっくり持ち上げた手で自分を拘束する腕に触れながら問いかける。
虎次郎は言葉の代わりに抱きしめる力を一段強くした。
人生何度目かの失恋をしました。
人生最後の失恋になるようです。
『頬の涙を舌ですくって』 K・Saeki
070307