他の誰も気づかなくていいよ。
俺だけが知っていれば、それで。
憶えのある匂いに鼻をくすぐられて、ぼんやりしていた頭の中がクリアになる。
勢い良く身体を起こしたら、傍にいた誰かがびっくりして飛び上がった。
「うわっ!」
「……あれ、がくと?」
「いきなり起きるなよ、ジロー!」
「あれ?今ここに、他にいなかった?」
「は?いなかったって誰がだよ。レギュラーの誰かってことか」
「違う、おんなのこ」
「女ァ?」
何言ってんだコイツ、って顔に書いて、岳人はソッコーで首を横に振った。
「いねーよ。つーかコート内に部員でもマネでもねー女が入って来れる訳ねーじゃん。夢でも見てたんじゃねーの、お前」
「えー夢じゃないってー!ぜってー今……」
バカにするようにフンと鼻を鳴らした岳人に言い返そうとした時、もう一度鼻先を掠めた匂いに、ぱっと視線をそっちに向ける。
コートを囲むフェンスの向こうに、見覚えのある髪の色が見えた。背中を真っ直ぐ伸ばしたきれいな歩き方。俺が知ってる中で氷帝の制服が一番似合う子。
弾かれたみたいに身体が動いた。
ぱっと起き上がると、こっちを覗き込んでいた岳人がうわっと声を上げて仰け反った。
起き上がってそのまま走り出す。後ろでこらジロー!って怒る声。部員たちの間を通り抜ける時にも覚えのある声がいくつか聞こえたけど、今はどうでもいい。
走ってきた勢いをそのままぶつけるようにフェンスにしがみつくと、大好きな名前を呼んだ。
「ちゃん!ちゃーん!!」
「……え、あ、ジロちゃん」
「やっぱCー!さっきちゃんの匂いがしたから、近くにいると思ったんだ!」
「に、匂い?」
目を見開いて聞き返す、その顔がすごく可愛くて、俺は今しがみついているフェンスが一瞬で溶けて消えちゃえばいいのにと思う。そしたらすぐにちゃんに抱きつけるのに。
そんな俺の気持ちを知らないちゃんは、何だか困ったような顔で俺を見て。
「……私、そんなに匂う?」
「ん?うん、いい匂いがするよね!」
「へ?」
「甘くってお菓子みたいな匂いでさ!俺ねー、ちゃんの匂い大好き!」
「……そこは喜んでいいところなのかなあ……」
「イイんだよ!匂いだけでわかっちゃうくらい、俺がちゃんを愛してるってことじゃん!」
「……ジロちゃん、あんまりそういうこと、大きい声で言わないでね」
口をへの字に曲げて呟くと、ちゃんはひらりひらりと手を振った。
「じゃあね、私もう行くから」
「うん!また明日ね!」
ぶんぶんと手を振り返す俺に背中を向けて、ちゃんはさっきと同じ歩き方で、さっきよりもちょっとスピードアップして、校舎に向かって行ってしまった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、くるりと身体の向きを変えたら、そこに見覚えのある顔。
「何してんの、岳人」
「そりゃこっちの科白だっつーの!お前がいきなり脱走すっから、俺が跡部に怒られたじゃねーか!」
「別に脱走はしてないじゃんよー」
「うるせー!オラ、戻んぞ!」
ゲンコツで頭の両側をゴリゴリやられた。イテーイテーって!と喚く俺の頭を一発張り飛ばしてから、岳人はブツブツ言いながらコートに向かって歩き出す。
ちゃんのおかげで一旦はバッチリ覚めた目が、だんだん重くなってくるのを感じながら隣に並んで歩き出すと、不機嫌そうな顔でこっちを振り返った岳人がぼそりと呟いた。
「……ジロー、お前さあ」
「んー?」
「あいつ、のさ、どこがいいんだ?」
「ちゃん?えーと、可愛いとこ」
「……可愛いかあ?」
ものすっごく疑わしげな顔で聞き返されて、ちょっとムッとする。
俺が睨むと少し怯んで仰け反った岳人は、居心地悪そうに視線を反らせてさっきよりもっとぼそぼそと小さい声で続けた。
「確かに顔は結構可愛いけどさ……なんつーかすげえ無愛想じゃん。仮にも一応付き合ってるお前と話してる時ですら、いっつも仏頂面だしよ。俺、あいつの笑った顔、見たことねー気がする」
「あー、そゆことか。うんうん」
「あ?」
「岳人ってさー、ガキだよね」
「は!?」
「ちゃんの魅力はオコチャマにはわかんないんだよ」
「……っテメーにだけは言われたくねえ!!」
ぷっつんとキレた岳人が何か吠えてんのを無視して、俺はさっさとさっきまで寝てたベンチに戻って、もう一回ごろんと寝転がった。
ふわあと大きくあくびして目を閉じると、瞼の裏にさっき見たちゃんの姿が浮かぶ。何だか困ったような顔、思いっきりへの字に曲げた口。早足で歩いてく後ろ姿。
確かにちょっと見ただけじゃ、無愛想に見えても仕方ないかもしんない。
だけど俺は知ってんだ。そこに隠れた、ちゃんのホントの姿。
困ってたのは、俺に匂うって言われたから。自分って臭いのかなーとか気にしたんだよ。
への字口は、俺に大好き、愛してるって言われて、照れてどういう顔したらいいかわかんなくて、一生懸命ポーカーフェイスしようとした所為で。
早足も照れ隠し。きっと今頃、真っ赤な顔して一人でじたばたしてるんだろうなあ。
そんな姿を想像するだけで、すっごく愛しくなる。
サイコーに可愛くてサイコーに大事な、俺のカノジョ。
彼女がどんなに可愛いか、ホントの姿を知ってるのは俺だけでいいよ。
どんな仏頂面してたって俺のこと好きなこと、俺だけはちゃんと知ってるから。
『だけど、好きだとは知っている』 J・Akutagawa
070118