あと数分で駅に着くというところで携帯が鳴った。メールの着信を知らせる短い発信音。
「……若いなあ叔母さん」
開いたメールを見て思わず感嘆の溜息を零してしまう。絵文字満載のハイテンションなそれは、駅に荷物持ちを兼ねた迎えが待っていることを伝えるものだった。
銀色の携帯を閉じて窓の外の長閑な風景に目をやる。微かに見覚えがある景色。
やがて電車は小さな駅に滑り込む。自動改札を通り抜けながら、記憶の中に残るおぼろげな面影を元に迎えの姿を探して狭い構内をぐるりと見渡したところで、不意に名前を呼ばれた。
「」
「あっ、はい?」
聞き覚えのない低い声。でも呼ばれた名前は間違いなく私の名前。反射的に返事をして振り返ると、目の前にやたらデカイ男が一人立っていた。
がっしりした体格に短い黒髪、日焼けした肌の色。見るからに体育会系の男の人。
…………えーと。つーか誰?
頭の中を疑問符でいっぱいにした私を見て、その男は呆れ顔で頭を掻きながら口を開いた。
「おいおい。従弟の顔を忘れてんなよ」
「……は?」
「ボケるにはまだ早すぎるぜ、『姉ちゃん』」
「えっ……」
さっきとは違う呼ばれ方を耳にした途端、昔の記憶が蘇る。
子供の頃、母の田舎に帰るたびに私の後ろにくっついて回っていた、10歳下のやんちゃな従弟。
叔母さんがここに迎えに寄越してくれたはずの。確か今は中学三年になってるはずの。
「……春風!?」
「おう」
「…………!!」
思いっきり顎を逸らせて見上げた顔に、見覚えのある懐かしい笑みが浮かんだ。人懐こく屈託のない太陽みたいな明るい笑顔に、今より遥かに低い位置にあった記憶の中の幼い笑顔がダブる。
今や遥か頭上にある従弟の顔を呆然と見つめて、数秒後やっと絞り出した言葉は。
「……あんた育ちすぎよ……!」
「もうちっと他に言うことはねーのかよ……」
「ったく薄情だよな、あんだけ懐いてた従弟を、顔見ても思い出さねーとは」
「だって中学生に見えなかったんだもん!世の中学三年生の平均身長を上回りすぎてるわよ!」
「しょーがねーだろ、血筋だよ。じいちゃんも親父も同年代の中じゃでかい方だったって言うしな」
駅を出て家への道を歩きながら、隣を歩く春風に横目で視線を送る。
かれこれ8年ぶりの再会を果たした従弟は、私のバッグを軽々と肩に担いで隣を歩きながら当たり前のように私を見下ろしている。
今履いてるミュールは結構ヒール高いものなのに、私の顔の位置はやっと春風の肩と並ぶくらい。
身長差20センチ以上は確実と言う事実を改めて思い知らされて、私は重々しく溜息をついた。
「あのちっちゃくて可愛かった私の春風が……」
「いつの話だよ。つーかいつのもんになったんだ、俺ァ」
「あんたこそ、いつから目上を呼び捨てにするような子になったの」
「そう言ってもなあ、今のはあんまり年上っぽくねえし」
「身長高くなったからって偉そうに……!」
「身長の所為じゃなくてさ。そういうすぐむきになるとことか、昔と変わってねーから」
「わーるかったわねええっ」
「悪いなんて誰も言ってねーだろ。いいんじゃねーの、可愛くて」
「かっ……」
―――10歳も年下の男に可愛いって言われて嬉しい訳あるか!
そう言い返そうとしたのに、言葉は形を取らずに消えた。
一歩先からこっちを振り返って笑った春風の表情が、私を見る眼差しが、あまりに大人びていて。
年下だってことも、まだ中学生なんだってことも忘れそうになるくらいに。
まるで歳の違わない、一人の男の人を相手にしているみたい。
「―――?」
まだ聞き慣れない低い声で名前を呼ばれた瞬間。
唐突に、自分では制御出来ない感情が胸の奥から湧き上がってきて、それに呼応するように心臓が脈打つスピードを上げた。一気に頬が火照って、赤くなるのが自分でもわかった。
――― 一生懸命後ろにくっついてきた、まるで懐こい子犬みたいに可愛かった、年下の従弟。
なのに何で。何でこんな。
「おい、」
間近で聞こえた声にはっと我に返る。
いつの間に距離を詰めたのか目の前数センチのところに春風の顔があって、それを自覚した途端、更に心拍数が上がった。
「ちょっ……な、何!」
「何度呼んでも答えねえからさ。どうしたんだよ」
「なん、何でも、な」
「何でもないって様子じゃねーぞ。顔真っ赤だし」
「……!」
からかうような春風の口調に、かっと頭に血が昇る。
この子、わかっててやってる……!
「どいて!」
からかわれているとわかった途端こみ上げた怒りに任せて、目の前の顔を渾身の力で押し退ける。
止まっていた足を猛然と動かして歩き出した私の後ろで、溜息とも笑いともつかない、小さな吐息が聞こえて。
そして。
「待てって」
「なっ……ちょっと、何すんの!」
「とりあえず一旦止まれ」
二本の腕がするりと背後から伸びて、私の胸の前で長い指が組み合わさる。
驚いて足を止めた私を力任せに抱きしめる訳でもなく、ただその腕で作った輪の中に囲い込んで。
硬直した私の耳元にふわりと暖かい息がかかった。
艶やかに低い声が耳の奥にすべり込む。
「―――姉ちゃん」
囁かれたのは懐かしい呼び名なのに、心臓は声そのものに反応してどくんと大きく鳴る。
思わずぎゅっと目を閉じた私の耳元で否応無しに響くのは、男の声。
「ガキの頃の約束、覚えてるか?」
「……やく、そく?」
「『俺の身長がねえちゃんを追い越したら』」
「――――――」
途切れた言葉の続きは。
耳の奥に蘇った、懐かしく幼い声と重なって、響いた。
「――――――『そしたら俺の嫁さんになって』」
それは、最後の冬の約束。
もう8年も前の。
「ガキなりに結構マジだったんだぜ」
「……さようですか……」
「で、今も結構マジだったりするんだぜ」
「……!」
緩やかに私を抱き留めて、かつての可愛い子犬は生意気に笑って呟いた。
「だから姉ちゃんって呼ぶのはこれで最後な」
『投げ捨てたいくらい』 H・Kurobane
060905