真摯【しん‐し】−まじめで熱心なこと。また、そのさま。








窓から吹き込んだ風が、ぱら、ぱらり、と軽い音を立てて辞書のページをめくった。
新校舎一階にある図書室の一番奥、他に人のいないテーブル。窓からはグラウンドとテニスコートがよく見える。そこで現国の特別課題を解いていた私の手を止めたのは、聞き覚えのある声だった。
微かに聞こえてくるやりとりに、席を立って窓から身を乗り出す。
その途端、タイミングを計ったように、いい加減にしろよ千石!と怒鳴る南の声。それに答えて反省の色なんて欠片も無い朗らかな声が響いた。



「―――ごめんってば、南ー」
「うるさいっ!お前のごめんはもう聞き飽きた!本当にもう知らないからな!」
「そんなこと言わないでさ!ねっ!」



仲間内の喧嘩と言うより、よくあるカップルのケンカみたいな感じのさむい言い争いが続く。
切れ切れに聞こえてくる会話によると、千石が学校見学に来ていた女の子を、部活中にもかかわらずナンパしていて。それを見つけてブチ切れた南が説教中、またしても懲りずに女の子に手を振ってた千石に気付いて、とうとう堪忍袋の緒がぶっ千切れたらしかった。
さして珍しくもない、いつもと同じ光景。他の部員たちももう慣れてるから、誰一人仲裁に入る様子もなく、黙々と自分自身の練習に励んでいる。



「……何やってんだか……」



近くの椅子を引き寄せて窓枠に頬杖をつく。金属の窓枠がシャツ越しでもひやりと冷たくて、一瞬背筋がぞくりと震えた。
もう知らないとか言ってたくせに、結局また滔々とお説教をたれ始めている後ろ姿をぼんやり眺める私の視界で、南のシャツの肩越しにこっちに気付いた千石が、ぱっと笑顔になってヒラヒラと手を振った。途端に響く「千石ー!」と言う怒鳴り声。
懲りない奴……。
無視するのも何なので適当に手を振り返して、課題が待つテーブルに戻ろうとした時、ツンツンに立てた黒髪が揺れて、怒鳴るのをやめた南がこっちを振り返った。

真正面からパチリと視線がぶつかって。
咄嗟に笑って手を振った。さっき千石にも振ったから、何て言うか条件反射?私が覗いてた所為で千石の気を逸らせてしまった事実を誤魔化そうという気持ちもあったかもしれない。
だけどそれを見た南の表情は一気に変わる。真っ赤になって、おたおたして、一気にぎこちなくなる動き。面白いくらいに。
目敏い千石がそれに気付いて(目敏くなくてもすぐわかりそうだけど)、ニヤニヤしながら南の背中を小突いて何か話しかけた。真っ赤な顔で南も何か言い返して、それからちらっとこっちを見て、全開のおでこまで真っ赤に染めながら小さく小さく手を振り返してくれた。

……罪悪感に、胸が痛んだ。

胸の前で振った手を、そのあとどうしていいかわからないように握ったり開いたりしてから、南は小走りでテニスコートに戻って行ってしまった。
残されたのは私と、そして何故かテニスコートではなくこっちに向かって走ってくる千石。南が気付いていないのをいいことにさっさと窓の下までやってくる。



「やっちゃん。お勉強中?」
「……練習サボっていいの?」
「ちゃんとメニューはこなしてるから大丈夫」
「じゃあ何で南に怒られてんのよ。練習サボってナンパしてたからじゃないの?」
「サボってませんよ!ちゃんと練習しながら声掛けてたの!」
「それ、ちゃんとした練習とは言えないと思う……」



南も苦労するよね、かわいそう、と呟いたら、千石がにまっと笑った。



「あーれー?別に南のこと何とも思ってないって言ってたのに。やっぱりアレ、嘘?」
「何でちょっと同情しただけでそこまで話が飛ぶの」
「だって、ちゃんは絶対南のこと好きだからさ」
「……理由になってないよ」
「頑なだなー」



わざとらしい溜息と苦笑い。
窓枠に肘をかけて、ちょっとこっちに身を乗り出して、じっと私の顔を見上げてくる。



「どうして?外部受験するから?高校上がったら一緒にいられなくなるから?」
「…………」
「ふーん。つまりそんな理由で諦められる程度の気持ちだってことなんだね」
「……嫌な奴よね、あんたって」



睨みつけても千石は動じない。上目遣いの視線も逸らさない。
もっと言い返せたらいいのに、と思った。でも言い返す言葉が見つからなかった。千石の言ったことはどれもいちいち的を得ていて、そんな理由でと言われても、自分自身くだらない理由だって思ってるから反論することも出来ない。

黙り込んだ私をじっと見つめていた千石が、一旦閉じた口をもう一度開いた。



「自分の気持ちも、南の気持ちもわかってて、それなのに目を背けて、楽しい?」
「…………」



千石にそこまで言われる筋合いはない、そう言い返そうとして。
けど、言い返せなかった。



「千石ー!!」
「うわっ」
「……!」



突然響いた怒鳴り声に驚いて、開きかけていた口を噤む。
千石の背後に怖い顔して(いまいち迫力ないけど)南が立っていた。千石がいないことにやっと気付いて追いかけてきたんだろうけど……気付くのが遅いよ南……。
怒りに任せて千石のシャツの襟を引っ張ってる南が、こっちに気付いて表情を改めた。瞬く間に顔が赤く染まる。



「ごっ、ごめんな!邪魔しちゃって」
「気にしないで、今ちょうど休憩してたとこだし」
「何やってたんだ?宿題?」
「……ちょっと特別課題をね。家に持って帰るより、学校でやった方がはかどるんだ、私」
「へえ。特別話題って補習か何かか?、頭いいのに」
「うん、ちょっと、ね」



曖昧に言葉を濁して笑うと、南はじゃあ頑張ってな、と真っ赤な顔のまま笑って踵を返した。襟首を掴まれたままの千石が、わざとらしく咳き込みながら半ば引き摺られるようにその後ろに続く。その後ろ姿を見送ってから、元の席に戻って何とはなしに開いたままの辞書を引き寄せた。
風にめくられたページに何気なく視線を落とすと、一つの単語が目に飛び込んでくる。


―――『真摯【しん‐し】−まじめで熱心なこと。また、そのさま。』



席を立って、もう一度窓辺に寄った。
テニスコートに入っていく南たちが見えた。ベンチに置いてあったラケットを掴んで、何か言い合いながらネットを挟んで向かい合って立つ。黄色いボールがニ、三度バウンドして南の手に収まって、一呼吸置いて投げ上げられたそれは、真っ直ぐに千石の方へ飛んだ。
打ち返されたボールに向かって南が走る。広いコートが狭く見えるくらい、ボールを追って走って、打ち返して走って、その繰り返し。

真摯って言葉をそのまんま体現しているひとだと思った。その言葉を聞いたら、すぐに彼を連想出来ちゃうくらいに。
真っ直ぐにボールを見つめる姿を、とても好きだと思った。



『自分の気持ちも、南の気持ちもわかってて、それなのに目を背けて、楽しい?』



楽しい訳ないじゃん、と呟いた言葉はほとんど声にならなかった。
好きだけど。好きなのに。
進む道が分かれてしまうことで関係を維持できなくなることが怖くて、目を背けている。





高く跳ね上がった黄色いボールが、フェンスにぶつかってがしゃんと耳障りな音をたてる。
その音が、弱い私を責めているような気がした。











『真摯、なんて意味もわからないくせに』 K・Minami
060901