もう何年も、それこそ私が生まれた時から、変わらない関係。
お隣に住んでる幼馴染、一つ違いでまるで兄妹に仲が良い。


そんな関係から抜け出したくて、今年はいつもみたいにみんなと同じにするのをやめた。
特別な贈り物に、特別な気持ちを込めて。
意を決してテニスコートに向かった2/14、バレンタイン。


――――――大好きなあの人は、知らない女の子と並んでテニスコートを出て行った。


























「38.5℃」


枕元で数値を読み上げたママは、役目を終えた体温計をケースに戻して冷えピタを私のオデコに貼った。
一瞬感じたひんやり感は、滅多に出さない高熱の為にあっという間に消えた。


「……ママ、ホントにこれ効くの……?取り替えた方が良くない……?」
「貼ったばっかりなのに何言ってるの。薬も飲んだし、あとはとにかく寝なさい」
「顔、火照って……熱い」
「熱があるんだから当たり前。自分が悪いんだから我慢しなさい」
「うー……」
「何かあったら内線かけなさいね」
「……はぁい……」


いつもは机の上にある電話の子機を私がすぐ取れる位置に置くと、ママは布団を少し直して枕元のスタンドだけ残して電気を消して、静かに部屋を出て行った。
小さなスタンドの灯りがぼんやりと部屋の中を照らし出す。
壁にかかっている時計の針はもうすぐ7時を指すところで、窓の外は既に真っ暗だった。
……まだ、帰ってないんだ……。
いつもこの時間になればカーテン越しに感じられるはずの、窓の向こうにある部屋の灯り。
今日に限ってそれが見えない理由に思い至って、私の胸は小さくツキリと痛んだ。
目を閉じて深く溜息をつくと、昼間見た光景が瞼の裏に蘇る。


見慣れた色のコートの腕をしっかりと捕まえていた、私の知らない女の子。
彼女出来たなら出来たって、教えてくれれば、いいのに……。
閉じたままの目がぐうっと熱くなって、目尻から零れた涙が耳を伝って髪と枕を濡らした。


「虎次郎ちゃんの……ばぁーか……」


熱の所為か、それとも涙の所為か。
掠れてほとんど音にならなかった自分の呟きを聞きながら、私の意識は闇に落ちた。





















―――カタン、と小さな物音。
静まり返った部屋の中に響いたその音をきっかけにすうっと意識が戻る。
眠りに落ちる前と変わらない、薄暗い私の部屋。
布団の中で少し身じろぎする。薬が効いたのか、眠る前よりは多少だるさが取れていた。
スタンドの灯りを頼りに壁の時計を見ようと、枕の上で頭を動かして目を凝らした、その時だった。


「10時半だよ」
「――――――」


低く囁いて時を告げたその声は、嫌になるほど聞き覚えのある声で。
ゆるゆると動かした視線の先。
ぼんやりとしたクリームイエローに切り取られた四角い枠―――隣家に接する窓のところに、人影。
薄明かりに照らされた顔が見慣れた笑みを浮かべた。


「気分どう?」
「こ……じろー、ちゃ……」


慌てて上半身を起こして乾いた喉から無理に声を押し出したら、派手に咳き込んでしまった。
虎次郎ちゃんがそんな私の傍らに素早く近寄って、布団越しにゆっくり背中を擦ってくれる。
咳の発作がやっと治まったところで、椅子の背に掛けてあったストールがふわりと私の肩を覆った。


「ほら、起き上がるならこれ掛けて」
「……あ、あり、がと……」
「どう致しまして。ついでにちょっといいか?」
「え……っ」


不意に伸ばされた手がふわ、と前髪をかきあげた。
掠めた指先がひやりと冷たくてびっくりした、その次の瞬間。
虎次郎ちゃんの顔が目の前に迫って、こつんと額がぶつかった。


「こっ……こじろーちゃんっ……!」
「うん、大分下がってるな。海岸でコケて海にダイブしたんだって?相変わらずドジだな」
「かかかかっ顔っ!ちちちちち近い近い近い!」
「こら暴れるなって。せっかく下がってきたのにまた熱が上がるぞ」


熱が上がっちゃったとしたら、それは間違いなく虎次郎ちゃんの所為です……!
まだ思うようには動かない身体を必死に動かして虎次郎ちゃんと距離を取ろうとする。
でもまだ熱の下がりきってない身体は重くて、突っ張ろうとした腕にも全然力が入らなくて。
四苦八苦してたらバランスを崩してベッドから転がり落ちそうになった。
まだ離れていなかった虎次郎ちゃんの腕がしっかりと私の身体を抱きしめて支えてくれる。


「おっと。―――大丈夫か、
「だい、だいじょうぶ、だから……はな、離して……」
「……とても大丈夫そうには見えないけどね」


耳元で聴こえた小さな溜息。
呆れたようなその響きに深く深く俯いて、虎次郎ちゃんの腕を離れた。
いつもの倍くらい重く感じる枕を何とか動かして背もたれにして、ベッドの上に座り直す。
私が肩からずり落ちかけてるストールを直している間に、虎次郎ちゃんはベッドの横に椅子を引っ張ってきて腰を落ち着けていた。
スタンドの灯りが近い所為でさっきよりもはっきり顔が見える(オデコで熱計られた時は別!)。
だけどその顔を真っ直ぐに見ることは出来なくて、俯いたままだった私の視界の端に、その時ふと飛び込んできたものがあった。


――――――見覚えのある柔らかい白。
今はスタンドの灯りを受けて、薄いクリームイエローに染まっているそれは。


「……それ……」
「ん?ああこれ。が編んでくれたんだろ?ありがとな」
「……何で?私、それ、捨てて……」


今、虎次郎ちゃんの首に巻かれている白いマフラー。
入れてあったペーパーバッグごと、オジィの公園のゴミ箱に捨ててきたはずのもの。
虎次郎ちゃんの手に渡ることはないはずだったそれは、けれど今は確かに虎次郎ちゃんのもとにあった。
首周りを一巡りして胸元にかかるマフラーの先をヒラヒラと閃かせて、虎次郎ちゃんが悪戯っぽく笑う。


「チビたちがお前が捨ててるとこ見かけて拾っといてくれたんだよ。中のカードで俺宛だってわかったって」
「……!」
「せっかく編んでくれたのに、何で捨てたりしたんだ?上手く出来てるのにさ」
「……それは……」


恋人がいるってわかっちゃったのに、今更告白なんか出来ない。
絶対気まずくなるってわかってるのに。
言える訳がない。ずっと好きだったなんて。
今更。


心の中で呟いた言葉をそのまま声に出すことなんて、勿論出来るはずもなくて。
黙ってまた俯いた私に、虎次郎ちゃんはもう一度軽く息をついた。
呆れられたのかと思ったら、また涙がこみ上げてきた。
目の奥からじわりと熱くなる。
……泣くな、私。
泣いたら、また、どうしたんだって訊かれる。
答えられないんだったら、虎次郎ちゃんがどうしたんだって訊きたくなるような様子を見せちゃダメだ。
奥歯を噛みしめてかたくかたく目を閉じる。目尻に滲んだ涙を見られないように更に深く俯こうとしたら、伸びてきた手が頬に触れて、それを止めた。


「……?何で泣いてんの」
「……な、んでも、な……」
「もしかして、今日俺が一緒にいた子のこと、気にしてる?」
「……っそんなんじゃ……」
「ホントに?」


ずばり言い当てられて一瞬口ごもる。
真っ直ぐに見つめてくる目に、心の中を全部見透かされてるような気分。
熱の所為でまだ少し火照ってる頬に添えられたままの手から逃れるように顔を叛けた。
これ以上、話していたくない。
話していられない。
堪えきれずに溢れた涙が頬の上を滑って、辛うじて触れていた虎次郎ちゃんの指先を濡らした。


?」
「…………ホントに、何でも、ないから」
「……」
「熱の所為で、ちょっと今日、おかしいかも。ごめん」
「……いいけどね。ああそうだ、ついでに誤解してるかもしれないから言っとくけど」


紡がれた言葉が耳に飛び込んでくるのと同時に、濡れた頬にふわりと温かくて柔らかい感触。
虎次郎ちゃんがマフラーを外して、私の首にふんわりと巻きつけた。
……いらないって、こと?
そう思った瞬間、また新たな涙が溢れた。
マフラーの上に私の涙が落ちるのを、虎次郎ちゃんはじっと見つめて、そして一旦閉じていた口を開いた。


「今日一緒にいたあの子だけど、バレンタインのチョコを渡されたんだよ」
「……うん……」
「ダビデ宛の」
「…………そう……え?」


続いた言葉の意味を理解するより前に、しっかりと巻かれたマフラーが口元を覆って私の言葉を封じた。
ほどけないようにマフラーの両端をしっかり握ったまま、虎次郎ちゃんはさっきと同じ、悪戯っぽい笑みを閃かせて。


「クラスメイトに、ダビデに渡して欲しいって頼まれてね」
「…………」
「まぁそういう訳だから。安心したんならさっさとベッドにもぐって、とっとと風邪を治すように」
「……っこじろーちゃ……」
「熱が下がったら、改めてコレ渡しにおいで」


言葉と共に、マフラーを軽く引っ張られる感覚。
そして椅子から立ち上がった虎次郎ちゃんは、足音を立てずに部屋を横切って扉を開けた。
廊下から差し込む灯りに照らし出された顔に浮かんだのは優しい笑み。




「ちゃんとから手渡してくれるの、待ってるからさ。じゃあおやすみ」




その言葉を最後に、カチャリと小さな音を立てて扉は閉まって。
階段を下りていく密やかな足音の後、階下からは微かにママやパパや虎次郎ちゃんの声が聴こえてきて、でもそれもやがて聴こえなくなった。
首に巻かれたままのマフラーには、まだ虎次郎ちゃんの温もりと匂いが残ってて。
優しいそれに包まれて、私はもう一度ゆっくりと眠りに落ちていった。
熱が下がったら、なんて言葉と一緒に渡そうかと考えながら。