目に留まったのは、少し淡い赤の包装紙。
真珠色のリボンが綺麗に掛けられた小さな長方形の包み。
思わず手に取ってしまったら、手放しがたくなってしまって。
結局買ってしまった小さな包みの中身はチョコレート。
渡す相手は、いない。
お返しには君の名を
ふわふわと浮かれた空気が充満する昼休みの教室。
そんな雰囲気とは裏腹に落ち込んだ気分を抱えて机に突っ伏している私の頭を、有紀ちゃんの手が優しく撫でた。
「いつまで落ち込んでんのよ、」
「……だって……」
「どこで失くしたんだかわかんないんじゃ、もう仕方ないじゃない」
「そうだけど……」
「それに、別にあげる相手いる訳じゃないんでしょ?」
一昨日、彼氏持ちの有紀ちゃんに付き合って出掛けたバレンタインの特設売り場。
そこで見つけた綺麗なラッピングのチョコレート、あげる相手なんかいないのに思わず買っちゃって。
結構高かったからお父さんにあげるのは勿体無いし、かと言って今からあげる相手なんか見つけようがないし、友達とおやつ代わりにぱーっと食べちゃおうと思って、今朝家から持ってきたんだけど。
「ホント、どこで落としたんだろ」
「紙袋破けてたんだからどっか引っ掛けたんだろうけど、気がつかなかったの?」
「気がついてたらちゃんと拾ってるよぉ……」
「あーそういやそうね」
「……なんか、可哀想なことした」
「は?」
ぽつりとこぼした言葉に、有紀ちゃんが目を丸くして私を見つめる。
――――――買わなきゃよかった、チョコ。
あげる相手もいないのに買っちゃって、挙句に落っことしちゃって、あのチョコレートに可哀想なことした。
私が買わなかったら、今頃誰かの恋の橋渡しに一役買ってたかもしれないのにな。
せめてちゃんと食べてあげたかった。
ぽそぽそとそんなことを呟いたら、有紀ちゃんは小さく苦笑して、もう一度私の頭を撫でてくれた。
「何ていうからしい考え方だねぇ」
「せめて誰か、優しい人が拾ってくれてたらいいな」
「……例えどんな優しい人でも拾ったチョコは食べないと思うわよ……」
沈んだ気分を引き摺ったまま、放課後になって。
帰り道、元気だしなよーと慰めてくれる有紀ちゃんたちに改めてお礼を言って、バス停で別れる。
皆の優しい慰めのおかげで少しは浮上していたけど、一人になるとまた少し気分が落ち込んだ。
乗り込んだバスの窓からぼんやりと眺めた空は、夕日に染まって綺麗な朱色。
その色を見つめながら、小さく溜息をつく。
……たかがチョコレートごときで、って大概の人は思うんだろうけど。
でもやっぱり包装紙の淡い赤と真珠色のふわふわしたリボンを思い出すと哀しくなった。
せっかく綺麗にラッピングされてたのに、道端で踏まれてぐちゃぐちゃになっちゃったかもしれないな……。
食べてあげられなくてごめんね、なんて心のうちで呟いているうちに、バスはうちの近所の停留所に辿り着く。
タラップを降りると、いつもは人気のない小さな停留所のベンチに、男の子が一人座っていた。
赤いジャージ。スポーツ用品店とかでよく見る大きなバッグを足元に置いてる。
この時間帯にこのバス停で人を見かけるのは珍しいので、つい気になって見てしまう。
それでも、あんまりじろじろ見るのは失礼だからと、一瞬止めてた足を動かしてその場を歩き去ろうとした時、不意にその男の子が立ち上がった。
「……あの、ちょっといいか?」
「……は?」
唐突に掛けられた声に、思いきり間抜けな反応を返してしまった。
立ち上がった彼はすごく背が高くて、思い切り振り仰がないと顔が見えなかった。
こっちを見下ろす顔に見覚えはない。きっと太い眉が印象的な、男っぽくて精悍な感じの顔立ち。
結構カッコいい、なんて一瞬思って見つめていると、その子はバッグの中に手を突っ込んでがさごそと何かを取り出した。
「今朝、これ落とさなかったか?」
「え?……あ!」
日に焼けた大きな手のひらにちょこんと乗ってるのは、見覚えのある淡い赤色の包み。
真珠色のリボンがふわりと揺れた。
「あんたのだよな?」
「は、はい!どこかで落としちゃって……で、でも、何で」
「今朝、ここ通りがかった時にあんたの袋から落っこちるの見てさ。拾って渡そうとしたんだけど、一足違いであんたの乗ったバス出ちまってな」
「え……じゃあ」
「制服ってことは学生だろうから、ここで待ってりゃ会えるかなーと思って。会えて良かったぜ」
人の良さそうな笑顔で、大事なもんだろ?と言って、彼が私の手にチョコの包みを押し付ける。
落とした時に潰れてしまったのか、角が少し歪んでしまっていたけど、足跡がついてたりリボンがよれてたりもしてなくて綺麗な状態を保ってる。
思いもかけないところで戻ってきたチョコの包みを思わずぎゅっと抱きしめる私の前で、名前も知らないその男の子はふと申し訳なさそうな表情になって長い指で頬をかきながら口を開いた。
「拾った時すぐに渡せなくてごめん。バレンタインのチョコだろ、それ」
「あ、えっと、はい」
「渡す相手がいるんだろうから、出来るだけ早く返したかったんだけどな。制服だけじゃどこの学校かとかわかんなくってさ、ここで待ってるしか出来なかったんだよ。ホント、ごめん」
「いえ、そんな!わざわざありがとうございます……!」
落とした私が悪いのに、まるで自分の所為みたいに申し訳なさそうに頭を下げられて、慌ててぶんぶんと首を横に振ってお礼を言うと、彼はさっき見せた人懐こい笑顔に戻った。
「今からでも間に合うといいんだけど」
「…………」
腕の中に抱きしめているチョコが、渡す相手にいないチョコだったことを思い出して、私は思わず赤面した。
それと同時に、彼の好意に対して申し訳ない気持ちになる。
何となく視線を落として包みの潰れた角を指先でそっと撫でていると、それを見ていた彼が地面に置きっぱなしになってたバッグをひょいと持ち上げた。
「じゃあ、俺行くんで。頑張ってな」
「……えっ?あっ、あ、あの!」
「ん?」
咄嗟に呼び止めてしまったあとで、何やってんだろうと頭を抱えたくなった。
ただ、このままありがとうございましたさようなら、って終わらせたくなくて。
思わず腕を伸ばして、赤いジャージの袖を掴んでいた。
彼も面食らったみたいで、困ったように私の顔と掴まれた自分の袖を交互に見比べる。
「……何?」
「ごっ、ごめんなさい……!えーと、あの、あっそうお礼!何かお礼を!」
「ああ。いいって、そんなの」
「いえ、そういう訳には……あっ、よかったらこれ!これ、もらって下さい!!」
「え?」
袖を捕まえていた手を離して、ずいっと彼の目の前にチョコの包みを突き出した。
私を見る彼の呆気に取られた表情に、自分の行動の脈絡のなさを気付かされて、かあっと顔が熱くなる。
そうだよね、見るからにバレンタインのチョコで渡す相手がいると思ったから、私に渡す為にこうしてここで待っててくれたのに、そのチョコをもらって下さいなんて言われたら驚くよね……しかも一度落としたチョコだよ……。
「あっ、あの……その……」
「……えーと、もらえんのは嬉しいんだけどさ。でもそれ、あげるヤツがいるんじゃねーの?」
「いえ、それが、あの」
焦ってつっかえたりどもったりしながら、実は渡す相手がいないチョコだったことを説明する。
彼は要領を得ない私の説明を辛抱強く聞いてくれて、なるほどと言うように頷いた。
「なるほど。――― そういうことなら遠慮なくもらっとくかな」
「え!えっと、でも、考えてみたらコレ落っことしたやつだし。あの、また今度改めて何か別の」
「いいって、落としたっつっても別に中身をぶちまけた訳じゃねーんだしさ」
そう言って、ひょいと私の手から包みを取り上げる。
さっきも思ったけど、彼の手はとても大きくて、ただでさえ小さなチョコの包みがもっと小さく見えた。
まさか本当に受け取ってもらえるとは思わなくてちょっと呆然としていると、彼は少し照れくさそうに笑った。
「サンキューな」
「い、いえ、こちらこそ。あの、本当にありがとうございました」
「そんじゃ」
短い挨拶を残して、彼はくるりと背中を向けて私の家とは反対方向へ向かって歩き出した。
赤いジャージの背中が夕焼けの色に溶けて消えるように見えなくなるまで、私はじっとその場に佇んで名前も知らない彼を見送った。
―――――― 彼と再会したのは、それから一ヵ月後のホワイトデー。
同じバス停で、あの日と同じように私を待っていてくれた、彼は。
ホワイトデーのお返しを渡すのと一緒に、一ヶ月間ずっと、知りたくて仕方なかったことを教えてくれた。
黒羽春風、っていう、彼の名前を。
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