曖昧で中途半端な関係を突き崩す。
『当たり前』が『特別』に変わる。
それはとても些細な、でも確かな変化。
大切なモノ、そのてのひら
職員室を出たとこで、思ってもみない相手に会った。
「あれ、?」
「―――サエ」
制服の肩に見慣れたテニスバッグを背負って、サエは微かに目を見張った。
「珍しいね、こんな時間まで学校にいるの」
「委員会だよ。サエこそ、一人で帰るの珍しいじゃん。バネたちは?」
「今日は先に帰った」
いつまでも職員室の前にたむろってるのはあまり居心地のいいもんじゃなかったので、どちらからともなく歩き出して二人並んで話しながら昇降口に向かう。
どっちからも、一緒に帰ろうか、とかいちいち声にして言ったりはしない。
サエも含めたテニス部のレギュラーは皆私の幼馴染で、小学校に入る前、幼稚園の頃からだから、もうかれこれ十数年の付き合いになる。
もうおぼろげな記憶の中でも、必ずと言っていいほどサエたちは傍にいた。
私は女だってこともあって、さすがに中学辺りからは昔ほどつるまなくなったけど、それでもサエたちの存在はクラスメイトの男子とかに比べたらずっと身近だ。
家だって近くて、偶然でも会えばこうして一緒に帰るのも当たり前のこと。
「一人残って何してたの」
「今度の練習試合のことで、顧問とオハナシアイ」
「それって部長の仕事なんじゃないの」
「剣太郎に出来ると思う?」
「……出来なくてもやらせないとまずいでしょーよ」
「やっぱり出来るとは思ってないんだ」
「だって剣だしさー」
「まぁ剣太郎だからなぁ」
本人がいないのをいいことに結構ひどいことを言いながら、校門を出て。
まだ海で皆遊んでるかもしれないからって海岸沿いの道を遠回りして帰ることに決めて、だけど特に急ぐでもなく、のんびりと歩き慣れた道を辿る。
サエとこうして二人で歩くのは、そういえば結構久しぶりだ。
そう言うと、サエはちょっと笑って相槌を打った。
「今年は久々に別のクラスになったからね。小五の時以来じゃないか?」
「てことは一、二……六年ぶりかぁ。反対に、私バネとはあんまり同じクラスになったことなかったんだよね。今回で四回目だよ、確か」
「バネが喜んでたよ、これからはに宿題写させてもらえるって」
「甘い。そんな簡単に写さしてやる訳ないじゃんよ、この私が!」
「そうだね、頼むなら樹っちゃんの方が確実だよな」
「樹っちゃんは優しすぎるんだって」
コンクリートの防波堤の上によじ登りながらわざとらしく溜息をつくと、サエはまたちょっと笑って、それからすぐ表情を変えて私を真似るように大きく溜息をついてみせた。
「、スカートでそういうことするなよ」
「ちゃんとスパッツ穿いてるから大丈夫だって」
「そういう問題じゃないだろ。恥じらいはないわけ、恥じらいは」
「だってサエとは一緒にお風呂だって入ったことあるのに、今更恥じらいも何もないじゃん」
「それとコレとは全然違うって……」
呆れたように呟いて頭を抑えたサエを見下ろして、防波堤の上を歩き出す。
子供の頃から慣れ親しんだ潮の香りのする空気を目いっぱい吸いながらぐーっと大きく伸びをすると、またしてもサエが声を上げた。
「お腹見えてるんだけど」
「しょーがないっしょ、うちのセーラー丈短いんだもん。伸びすれば見えちゃうよ」
「だから!そういうのを少しは気にしろって言ってんの!」
「別にいいじゃん、もー。どうせサエしかいないんだしさ」
サエってこんなに口うるさかったっけ、なんて思いつつ、ひらひらと手を振って笑ってみせたら。
珍しく眉間にしわを寄せて面白くなさそうな表情になったサエは、私とは比べ物にならない身軽さで防波堤に登ってきて、前方に立ち塞がってこっちを見下ろした。
足を止めた私を見下ろしたまま、制服のズボンのポケットに手を突っ込んで、少しトーンを抑えた低めの声で責めるように言う。
「……俺には見られても構わないって思ってんの」
「……や、だからさ、昔はお風呂も一緒に入った仲なのに、今更気にすることもないじゃんって」
「もう子供じゃないだろ」
いつもの穏やかで朗らかな、人好きのする雰囲気はすっかり影を潜めて。
非難するような表情でサエはじっと私を見た。
いつもとは明らかに違う様子に、さすがに私も少したじろいで、じりっと一歩下がる。
お、怒らせちゃったかな……滅多に怒らない分、一度怒るとサエは容赦ないんだよね。
これは早いとこ謝ってしまった方がいいかなと思って、とりあえずごめんと言おうと口を開けかけた時、サエが大きく一歩こっちに踏み出すのと同時に腕を伸ばして私の手を掴んだ。
いきなりのことにびっくりしてその手とサエの顔を交互に見比べる。
サエの表情はさっきまでと変わらないで、でもそのくせどこか寂しそうだった。
「サ……」
「一緒に風呂入ってたって、何年前の話してんの。もうあの頃とは違うだろ」
「サエ?」
「は気にしてなくても、俺は気にするんだよ」
サエの手にぎゅっと力がこもる。
掴まれた箇所が痛くて、離してと言いたかったのに、言葉は声にならずに消えた。
じっとこっちを見つめるサエの、その表情がひどく真剣で。
怖いくらいに真剣で。
「―――俺は男だって、ちゃんとわかってる?」
「……そんなん」
「わかってるって思ってる?でも俺からしてみたら全然わかってないよ」
「…………」
「わかってない」
ぽつりと零れた、その呟きに返す言葉を探す私の思考を断ち切るように。
波の音に混じって、静かにサエの声が響いた。
「―――好きなんだけど」
言われた言葉が即座に理解出来なくて、私は馬鹿みたいにぽかんとしてサエの顔を見つめていた。
私を見下ろして僅かに伏せられた、男の子にしては長い睫毛。
少し眺めの前髪が潮風にさらさらと揺れて、端正な顔に濃い影を落とす。
整ったその顔に今まで見たこともない表情を浮かべて、真っ直ぐ私を見て。
もう一度、その言葉を繰り返す。
「が好きだ」
―――好きって。
私だってサエのことは好きだ。大事な幼馴染で、友達だから。
でも今サエが言ったその言葉の持つ意味が、それと同じじゃないのはいくらなんでもわかった。
掴まれたままの手。
そこにサエの手のひらから伝わる熱が、じりじりと腕を伝って上に昇って心臓を灼く。
一秒ごとに早まる鼓動がひどくうるさくて、うまく考えがまとまらない。
なんて答えればいいの。
サエの望む答えはどんななの。
混乱する頭の中で、はっきりと理解出来てるのは、たった一つのことだけだった。
―――サエが望むものとは別の答えを返したら、きっともう、今のままではいられなくなる。
幼馴染で友達。
恋人同士ほど親密じゃなく、でも恋人同士よりもある意味密接で。
ただのクラスメイトよりも身近で、でも兄弟よりは少し遠い。
とても曖昧で、心地良かった、その距離。
ずっと、この先何年経っても、この距離を保ったままで付き合っていけると思ってたのに。
サエは、その距離じゃ満足出来なくなったの?
「―――ごめん」
最初の告白より、もっと唐突に。
サエの口から零れたその一言に私はまた目を見開いた。
微かに笑ったその顔は、ひどく寂しそうだった。
「……困らせるつもりはなかったんだ。ごめんな」
「…………」
「ホント、ごめん」
そう言ってもう一度笑った、サエの顔の方がもっと困ってた。
言ってしまった言葉を何とかなかったものにしようとして、でもそんなこと出来ないってわかってて、それでも無理やりにでも何とかしようとして。
私の為に。
それすらも私の為。
―――返さなくちゃいけない、と思った。
サエがくれた言葉や優しさの分、私もちゃんと、サエに返さなくちゃいけない。
それがサエの望むとおりの答えじゃなくても。
今の自分の中にある答えを。
まだ手首を捕まえたままだったサエの手。
するりと離れていこうとしたそれを、今度は私が捕まえる。
驚いたように私を見るサエに、それでもその手は離さないで、私はたどたどしく言葉を発した。
「……あ、あのね」
「―――何?」
「私もサエのことは好きだけど、それがサエが言ってくれてる好きと同じかって聞かれたら、やっぱり、ちょっと違うと思うんだ」
「……うん」
「で、でもね、あの……サエが私じゃない別の子を好きになって付き合ったりしたら、って考えると、それも何か嫌なの」
「うん」
「あ、だけどそれはサエだけじゃなくて、多分バネとか樹っちゃんとか亮とかでも、同じように嫌だなぁって思うかもしれないんだけどね!?」
「……うん」
「だから、あの……だからね」
まとまりのない私の話に、サエは静かに相槌を打つ。
さっき咄嗟に掴んでしまった手を今更離すに離せなくて、そのままの状態で、私は更にしどろもどろになりながら、一生懸命言葉を紡いだ。
「私、今までサエのこと、て言うかサエたちのこと、そういうふうに見たことがなかったから、男の子として好きかって訊かれてもホントにわかんない。でも」
「……うん」
「でも、これからはそういうふうに見るようにしてみる。ちゃんと、一人の男の子として見るようにするから。だから、だからさ……」
「…………」
「……もう少しだけ、時間、くれない?」
今すぐに結論を出すことはきっと出来ない。
今ここで、サエの気持ちをなかったことにすることも。
ちゃんともっと時間をかけて考えて、そうして出した答えを返したい。
それが今の私の中の答え。
ひどく静かな、何を考えてるのかわからない表情で、サエはじっと私の言葉に耳を傾けていて。
私が言いたいことを言い終わってから、しばらくは何も言わなかった。
妙に長く感じられる沈黙の後、表情と同じ静かな声音でぽつりと呟いた。
「つまり、とりあえず返事は保留ってこと?」
「……ダメ、かな……」
あれこれと言葉を尽くして言ってみても、結局は逃げたようなものだ。
サエが納得してくれるとは思えなかった。
だけど。
「―――わかった」
「……いいの!?」
「いいよ」
軽く横に傾けた顔の中で、少し鋭い感じのする目がやわらかくなって。
口の端を緩やかに持ち上げた、優しい笑顔になる。
「全然構わないよ」
「……ありがと」
「俺の方こそ、ありがとう。―――ちゃんと答えてくれて」
「…………」
その笑顔と言葉にホッとして、捕まえていた手を離したら。
またもサエの手が私の手を捕まえた。
今度は手首を掴むんじゃなくて、手のひらを重ね合わせて、指を絡めてしっかりと繋ぎとめる。
「サ……」
「行こう」
「……うん」
無理に振り解こうとは思わなかった。
その手のひらに感じるのは、さっきまでの焦げそうな熱とは違う、懐かしくて優しい温もり。
今さっき保留にしてもらった答えをいつか返したその後も、この手を失わずにいられたらいいのにと思うのは、いくらなんでも図々しいんだろうか。
でも失いたくないよ。
失いたく、ない。
「……サエー」
「ん?」
「昔は、よくこうやって手繋いで帰ったよねぇ」
「ああ、うん。はよく一人で走ってっては派手にコケてたから、危なっかしくて捕まえとかないと不安だったんだよね、俺としては」
「……どーもすいませんでした」
「ホント、昔から目が離せなくってさ」
「…………」
「何?」
「んー……」
もうずっと忘れていたけど、こうやってサエと手を繋ぐの、好きだった。
昔からずっと、誰とでもじゃなくて、サエと繋ぐのが好きだったんだよね、私。
バネは恥ずかしがって繋いでくれなかったし、樹っちゃんは何かに興味を持つとすぐフラフラそっち行っちゃうからイマイチ頼りになんなくて。亮や淳は聡と組んで不意打ちでヘンな悪戯しかけたりしてくるし。
ダビデや剣は繋いでもらうってより私が繋いでやってたって感じだったし。
サエの手はいつだって優しくて温かくて。
いつも一緒だった幼馴染たちの中でも、更に一番近くにいたのってサエだった。
「……何かね、結構早く答えを出せそうな気がしてきた」
「ふぅん?」
「まだわかんないけどね。でもちゃんと考えるから」
「ちゃんと待ってるよ」
「うん」
絡めた指にきゅっと力を入れて、サエの腕が私の身体を引き寄せる。
狭い防波堤の上、並んで。
私たちは歩く。
手を繋いだままで。
―――私が答えを出したのは、それから三ヵ月後。
サエの手のひらは、今でも私の手のひらに重ねられている。
40000打を踏まれました友人のyumiちゃんに捧げます。
リクエストは『佐伯で恋人未満から恋人に昇格』でした。
お待たせした上に何かダラダラ長くって本当にすいません……。
お気に召せば幸いです。これからもどうぞよろしくね、yumiちゃん!!
05/05/17 UP