半年位前のある日、うちに子犬がやってきた。
共働きの両親は時間に余裕がなく、朝夕の散歩は必然的に私の役割になった。
海沿いの道を含む三十分ほどの散歩ルートの途中にある公園。
足休めに立ち寄るそこで、毎日きっかり朝6時、自転車に乗って二匹の犬を連れた男の子とすれ違う。
初めて会った日、すれ違いざまに会釈をされて。
三日目、こっちから会釈して。
二週間目、おはようございまーすと挨拶をされて。
一ヶ月と十七日目、目があった瞬間に屈託のない笑顔を向けられて。
二ヶ月と四日目、お互いの犬の名前を教えあって。
三ヶ月目、まだ名前も知らない彼を、いつの間にか好きになっていたことに気がついた。
待ち人は春に来る
じりりりりん、とやかましく鳴り出した音に反応して布団の中から腕を突き出す。
音を頼りに枕元をばしばしと闇雲に引っ叩く手のひらは、四度目で何とか目的の目覚まし時計にヒットした。
まだうっすら靄がかかった目で睨みつけたデジタル時計の液晶画面は五時十分を示していた。
「……んー……眠……ふああぁぁぁ」
ゆっくり身体を起こしてあくびと同時にぐーっと伸び。
朝の冷たい空気に一瞬ぶるりと身体を震わせた後、ベッドを飛び降りてクロゼットから着替えを取り出す。
台所で父さんと私と自分の分、計三人分のお弁当と朝食作りに取りかかろうとしている母さんにおはようを言いながらバスルームへ向かって、熱いシャワーでまだ半分寝惚け気味の身体を叩き起こして。
服を着て髪を乾かして居間に戻ると、壁にかかる時計の針は五時四十分。
びしびし尻尾を振りながら足に纏わりつく我が家の犬・ハナ(豆柴・♀・八ヶ月)をリードに繋いで、玄関から出る。
腕時計の針はきっかり五時四十五分を示しているのを確認して、私はいつもの道をハナとともに歩き出した。
三月に入ってはいるけど時間帯が時間帯だけに、頬を撫でていく空気は刺すように冷たい。
嗅ぎ慣れた潮の香りに咲き始めの梅の香りが混じって、ふと足を止めると、近所の中学に続く道沿いの梅並木が綺麗に花を咲かせていた。
ああ、もう梅が咲く季節なんだなー……。
ハナがうちに来たのは秋の初めだったのにもう春だなんて早いもんだな、なんて思いながら一旦止めた足を再び動かし始めた。
少しだけ早足で海沿いの道を歩く私の視界にやがていつもの公園が見えてくる。
もうすっかり顔見知りになった犬の散歩仲間のおばさんやおじさんたちが、こっちの姿を見つけてニコニコ笑いながら会釈したり手を振ったりしてくれる。
それに答えながら公園の中ほどまで進んで、ハナの首輪からリードを外してやった。
途端、小さな身体が弾丸のようにかっ飛んでいく。
その姿を視線だけで追いかけると、私が入ってきたのとは反対側の出入り口に見覚えのある自転車が停めてあって、そこから少し離れたところに立っていた人影にハナが勢い良く飛びつくのが見えた。
「おーっすハナ!今日も元気だな、お前!」
澄んだ朝の空気の中、明るく響く声。
ハナの小さな身体を軽々と受け止めて軽快に笑いながらじゃれあい始める。
『彼』だ、って認識した途端、心臓の鼓動が一気に早まるのがはっきりわかった。
芝生の上に座り込んで自分の犬を遊ばせている彼の傍へゆっくり歩いていくと、私に気付いてじゃれるハナをあやす手を一旦止めてこっちを振り仰いだ。
「あ、ハナのお姉さん、どーも」
「お、おはようございます」
「ウイッス。相変わらず早いな」
「あははは、そんなことないですよ。お兄さんこそ今日は随分ゆっくりしてるんですね」
「あー……」
いつもは大抵自転車に乗ったままぐるっと公園を一周したら出て行くので、こんなふうに座ってのんびりしている彼を見るのは初めてかもしれない。
それを指摘すると、彼はくしゃりと髪をかきあげて、何だか少し淋しそうに笑った。
「部活が、完全に引退になっちまったんで暇なんだ」
「部活?」
「テニス部だったんだけど、もうすぐ卒業なんだからいい加減引退しろって言われちまってさ」
「顧問の先生に?」
「や、後輩に」
意外な答えにちょっとびっくりした私に、彼は屈託なく笑ってごろんと芝生に寝転がった。
それから自分の横を指し示して、座ったら、というジェスチャー。
少しだけ迷った後、勇気を出してその隣に腰を下ろすと、彼は笑顔のままこっちを見上げて。
「うちの部活、上下関係あんま厳しくねーもんで。今の部長は一年生だし」
「へぇ……一年で」
「あと何日かで俺らが卒業したら、実質二年生だけどな」
「あ、卒業なんですか。だから引退って」
話している間も、心臓はドキドキと高鳴り続けている。
今まではちょっと足を止めて挨拶がてら一言二言交わすのがせいぜいだったから、こんなに長く話したのは初めて。
年齢とか部活とか、そういう話をしたのももちろん初めてだ。
彼を好きだと気付いてから三ヶ月、彼のことなら何でもいいから知りたかった私にとって、今日のこの会話は思ってもみない幸運だった。
卒業するってことは今度大学生かな。ってことは私よりも一つ年上かぁ……。
背の高さや風貌から多分年上だろうとは思ってたけど、実際に年齢を知ると余計に大人っぽく、頼りがいがありそうに見えるのが何だか不思議な感じ。
寝転がる彼に必死でじゃれ付いていくハナと、それを軽くいなす彼とを交互に見ながらぼんやりとそんなことを思っていた、その時。
どん、と不意に背中に何かがぶつかった。
「わっ!?」
「あ?」
「え、わ、ちょっと待っ……きゃーっ!!」
「あーっ!コラお前ら!それはダメだ、待て、おあずけ!」
油断していた隙を突いたように私の背中に圧し掛かってきたのは二匹の犬。
公園内を走り回って遊んでいた彼の犬たちがいつの間にか傍まで戻ってきていたらしい。
ハナとは比べ物にならない重量を支えきれずに芝生の上に倒れこんだ私を見て、彼が慌てて立ち上がって二匹の首輪を掴んで私から引き剥がす。
「ハナの姉さん、大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ……あーびっくりした……」
「悪い、うちのが」
「平気ですよ。相変わらず元気だねー、二匹とも」
言いながら身体を起こそうとする私の前に突き出されたのは、日に焼けた、大きな、男の人の手。
差し出されたその手を前に戸惑っていると、彼は私の腕を掴んで身体を起こすのを手伝ってくれた。
手、思ってたよりもずっと大きい。
力もすごいな、やっぱり男の人だな……。
さっきよりもっとスピードの上がった心臓の鼓動を落ち着かせようと私が何度も深呼吸している間に、彼は自分の犬たちを落ち着かせて座らせて、そして改めて私の隣に腰を下ろした。
待っていたようにその膝に飛びついたハナの頭を撫でながら、ふと思いついたように口を開く。
「そう言やさ、名前」
「え?」
「アンタの名前、聞いてなかったなーと思ってさ。いつまでも『ハナのお姉さん』じゃ呼び辛いだろ」
「ああ……」
犬の散歩仲間が多く集うこの公園では、飼い主同士は自分たちの名前じゃなくて犬の名前で呼び合うことが多い。
『○○のお母さん』とか『□□のおじさん』とか、私だったら『ハナのお姉さん』みたいな感じで。
付き合いが長くなってくるとお互いの名前を知る機会もあるけど、大概はそのまま犬の名前で呼び合ってる。
私としては彼の名前を知りたくて仕方なかったんだけど、あいにくと今までは訊く機会に恵まれてなかったのだ。
なんか今日はつくづくラッキーだなぁ、なんて心の中で思いながら頷いて名乗った。
「えーと、です。」
「ね。あ、俺は黒羽。黒羽春風」
「黒羽、春風さん?なんかカッコいい名前ですね……」
「そうかぁ?自分ではそうは思わねーけど」
「やー、カッコいいと思いますよ」
「そりゃどうも。は学校どこ行ってんだ?」
いきなり呼び捨てにされてるけど、不思議と嫌な気分はしなかった。
好きな相手だからとかそういう訳じゃなくて、すごく自然に呼ぶから。
まるで当たり前のように私の名前を呼ぶその声にドキドキしながら質問に答えた。
「北高です。今度三年生で……」
「北高!?マジで?」
「え?は、はい」
「じゃあ先輩じゃねーか」
「……へ?」
「俺、四月から北高入学すんだよ」
「…………え?」
春風さんの言ったことが一瞬理解出来なくて、思いっきり首を傾げて聞き返した後。
頭の中でたった今聞いた台詞をリピートしてその内容を理解した途端、私は思いっきり叫んでいた。
「えええぇぇぇぇぇ!?」
「うお!?」
私の叫びに驚いた春風さんが軽く後ろに仰け反り、その膝の上でうっとり目を閉じていたハナが興奮して吠え出す。
春風さんの犬たちも驚いたように顔を上げて私と春風さんを交互に見て首を傾げた。
四月にうちの高校に入学って……つまり今、彼って。
「……中学三年……?」
「そうだけど、そんな驚くことか?」
「だっ、だって……年上だと思ってたから!」
「俺もの方が年下だと思ってたけどな」
「……それって、私がガキっぽく見えるってこと!?」
「そうは言ってねーよ」
年下だとわかった途端に思わず口調が砕けたものになった私を見て、春風『くん』は笑って。
膝の上からハナを降ろすとナイロンパンツについた芝を払いながら立ち上がった。
座ったままの犬たちをリードに繋いで歩き出すのを見て、私は慌てて自分もハナの首輪にリードを繋いでその後を追った。
止めてあった自転車のところまで来ると、春風くんは後ろにくっついてきた私を振り返った。
「春からはよろしく頼むぜ、先輩」
「……ホントにうちに入学するの?」
「嘘言ってどうすんだよ」
「だ、だって、なんか展開が急過ぎて、頭が回らないんだもの!」
「じゃあ次会う時までに頭ン中整理しとけよ」
「次って……あ、明日じゃない!」
毎朝散歩の時間に顔合わすんだから!次も何もないってば……!
めまぐるしい展開にパニックに陥っている私の前で、春風くんは面白そうに声を上げて笑うと、自転車のサドルに跨ってスタンドを勢い良く蹴り上げた。
「じゃーまた明日な!」
「あ、ちょっ……!」
「それと、言い忘れてたけど!」
スピードを上げる自転車の上で、春風君がこっちを振り返る。
いつの間にか大分高いところまで昇っていた朝日の中で、振り返った彼の顔は逆光のせいでよく見えなくて。
ただその声だけが朗々と響いて、私のところまで届いた。
「が北高にいるって聞いて、ちょっとラッキーって思ったんだぜ!」
「……!」
二匹の犬と一緒に走り去るその後ろ姿を呆然と見つめる私の足にハナがじゃれつく。
半ば呆けたままの状態で抱き上げたハナをぎゅっと抱きしめると、温かい舌に頬をぺろりとなめられた。
生温かいその感触が、今この瞬間が夢じゃないことを示していた。
初めて会った日、すれ違いざまに会釈をされて。
三日目、こっちから会釈して。
二週間目、おはようございまーすと挨拶をされて。
一ヶ月と十七日目、目があった瞬間に屈託のない笑顔を向けられて。
二ヶ月と四日目、お互いの犬の名前を教えあって。
三ヶ月目、まだ名前も知らない彼を、いつの間にか好きになっていたことに気がついて。
半年目、お互いの名前を知って、歳を知って。
そして七ヶ月目。
満開の桜の下、彼は真新しい制服を着て、少し照れくさそうに私に向かって微笑んだ。
おおおおおお待たせ致しました雪しゃん……!
80000Hitを踏んで下さった新藤雪さんからのリクエストでバネちゃんでございます!
長らくお待たせしてしまって本当に申し訳ありません……こここ、こんなんでよろしかったでしょうか……?
複数キーワードでのリクって初めてだったのですが、これが面白いけどなかなか大変でした(笑)。
ともあれ、雪さんリクエストありがとうございました!
06/03/02UP