お父さんよりも頼りになって、お母さんよりも優しくて。
本当のお兄ちゃんよりも私を甘やかすかと思えば、まるで弟みたいにワガママを言う。


いつだったか、いったい何役こなすつもりなのと聞いた私に、年上の恋人は。


私に対してなれる全てのものになりたいと、恥ずかしげもなく言いきって笑った。


























マナーモードに設定した携帯が手の中で震えたのはHRの真っ只中でのこと。
教壇上から聞こえてくる声を適当に聞き流しながら、机の影で静かに携帯を開くとメールの着信が一件。
液晶に浮かぶゴシック文字が紡ぐ文は短く簡潔で、でもそれは私の心を騒がせるには十分な内容だった。
携帯を閉じてブレザーのポケットに突っ込む。
のんびりした口調の担任の話は、文字通り右の耳から左の耳に素通りさせて、日直の号令に合わせて頭を下げた後、私はカバンを引っ掴んで担任よりも早く教室を飛び出した。











スーパーのビニール袋を下げてこじんまりとしたアパートの階段を駆け上がる。
階段から一番離れたドアの前に辿り着くと、カバンのポケットから小さなキーホルダーのついた鍵を引っ張り出して、静かに鍵穴へ差し込んで回した。
カチリという小さな音に合わせて鍵の開く手応えを感じる。
私は極力音を立てないようにノブを回して金属製の扉を引き開けると、細く開けた隙間から1DKの室内へするりと身体を滑り込ませた。


大学の講義にテニスのサークルにバイトにと、結構多忙な日々を送っている割にはいつもきちんと片付けられている室内が、珍しく少しだけ散らかっている。
いつもならこのくらいの時間はサークルかバイトで、来ても部屋は空っぽのはずなんだけれど、今日は少し様子が違った。
部屋の一番奥、窓際に置かれた折りたたみ式の簡素なベッドの傍へ足音を忍ばせて近寄ると、シーツから枕カバーまでエンジェルブルーで統一された布団の中から、色素の薄い柔らかな髪が覗いた。
浅い呼吸とほのかに紅潮した頬。かたく閉じた瞼が開かれる気配はない。
小麦色に日焼けした額にはうっすらと汗が滲んで。
ベッドのヘッドボード代わりに置かれているカラーボックスの上に、携帯とケースに戻されず無造作に放り出された体温計、半分くらいまで中身の減ったペットボトル。
そっと手に取った体温計のデジタル表示は38.2℃となっていた。


「結構高いなー……」


サエさんって昔から平熱低めだから、このくらいの熱でも高熱の範囲に入っちゃうんだよね。
本体と一緒にボックスの上に置かれていたケースに体温計を戻してから、さっき買ってきたものを片付ける為に一旦ベッドの傍を離れた。
二人掛けの小さなダイニングテーブルの上に放り出してあったビニール袋を手に取る。
HR中のサエさんからのメールには『風邪薬買ってきて』とだけ書かれていたので、それ以外は自分の乏しい知識で選んできたものだった。
500mlペットボトルのスポーツドリンクを何本かと冷えピタ、桃の缶詰、その他食材。
とりあえず買ってきたそれらを冷蔵庫や作り付けの棚に閉まってから、冷えピタの箱と固く絞ったお絞りとを持ってベッドの傍に戻る。
額の汗をお絞りでそっと拭って冷えピタを貼ると、閉じたままだった瞼が微かに痙攣してうっすらと開いた。
熱に潤む瞳がぎこちなく動いて私を捕らえる。


「……?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「……や、大丈夫……今、何時?」
「まだ4時前。私もさっき来たばっかりだよ」
「そっか……ごめんな、いきなりメールして……ちょうど買い置きしてたのが、切れててさ……」


まだ夢の中にでもいるようなぼんやりとした表情で、微妙に掠れた声を絞り出す。
いつもの快活なサエさんらしくない気だるげで緩慢な動きで、布団の中の身体を僅かに捻った。
パジャマの肩がシーツの端から覗く。ネイビーとオフホワイトのツートンカラー。
冷やしたらまた熱が上がっちゃうかも、と咄嗟に腕を伸ばしてずれた布団を引き上げると、サエさんはうっすらと笑った。


「ありがと」
「うん。……薬飲む前に、何か胃に入れた方がいいよね。おかゆだったら食べられる?」
「吐き気とかはないから、多分食える、かな」
「じゃあ、レトルトの買ってきたからちょっと温めてくる」
「サンキュ」


起き上がった時に肩を冷やさないように、クロゼットの中からパーカーを取り出してサエさんの手の届くところにおいてからベッドを離れる。
キッチンで温めたレトルトのおかゆに薬とお白湯を添えて持っていくと、ベッドの上に起き上がったサエさんが、さっきよりもしっかりした眼差しで私を見上げてきた。


「至れり尽くせりだな、感謝」
「感謝しなくていいから、食べて薬飲んで寝てさくっと治す。いきなりあんなメールで心配したんだからね」
「鋭意努力します」


そう言って笑って、トレイの上のレンゲを手に取る。
いつもに比べたら対した量じゃない食事を、サエさんは時間をかけてゆっくり胃に収めた。
お皿が空にしたサエさんがトレイの上の薬に手を伸ばした時、少し離れたところから聞き覚えのあるメロディが聴こえてきて、私たちの動きを止めた。
床の上に無造作に放り出してあった、私のカバン。
ポケットから覗く携帯のエンブレムランプが淡い光を放っている。


「ちょっとごめん」
「いいよ」


一旦止めた手を再び薬に伸ばしたサエさんに背を向けて、携帯を手に取る。
サエさんの部屋は電波が届きにくいから、通話ボタンを押す前にベランダに出た。
携帯の向こうから聞こえてきたのはサエさん以上に聞き慣れた男の人の声。
状況を説明して、更に二言三言交わしてから通話を切る。
ベランダから戻ってきた私に、コップのお白湯を飲み干したサエさんが短く訊ねた。


「誰?」
「お兄ちゃん」
「樹っちゃんか。何だって?」
「サークル終わったら迎えに行くからここで待ってろって。ちゃんとサエさんの面倒見とけ、だってさ。ついでに無理しないようにベッドに縛りつけといてもいいぞって言ってるバネさんの声も聞こえた」
「バネのヤツ勝手なことを……」
「そういう訳だから、大人しく寝ようね!」


ぽんぽんと布団の上からサエさんを宥めるように叩いて、私は空のお皿を流しに置きに行った。
それから新しいスポーツドリンクのボトルを持ってベッドの傍に戻る。
カラーボックスの上にそれを置いて、さっき持っていったお皿を洗いに行こうと再び立ち上がりかけた時、熱っぽい手が私の腕を掴んで引き止めた。


「サエさん?」
「どこ行く気?」
「台所だよ。お皿洗っちゃおうと思って」
「……皿はあとでいいからさ。ここに、いてよ」


言葉と同時に、日焼けした指にぎゅっと力がこもった。
いつもは私を甘やかすばかりのサエさんが珍しく甘えてくるその様子に、言いかけた言葉が出なくなってしまった。
捕まえられた手をそのままに、浮かしかけた腰をすとんとクッションの上に下ろす。
ずれた布団を丁寧に直す間も、サエさんの手の力は緩まなかった。


「離して大丈夫だよ、ここにいるから」
「うん、わかってるけど。捕まえておきたいだけなんだ」
「……子供みたい」
「たまにはいいだろ?新鮮で」


さっきよりは落ち着いた、でもまだ熱い吐息の下から、低い笑い含みの声が漏れる。
私はちょっと考えてから、自由な方の手をサエさんの手に添えて、そっと布団の中に押し戻した。


「ちゃんとお布団の中には入っとかないと、熱上がっちゃうよ」
「腕が少し出てるくらいは大丈夫だよ」
「ダメ。ちゃんと全身お布団の中に入れといて。日が沈んだら結構冷えるんだから、ちゃんと用心して」
「そうするとを捕まえておきにくいんだよな」
「だから、捕まえてなくてもちゃんと傍にいるってば……」


溜息と共に零した言葉に、サエさんは仄かに赤い顔で笑って。
まだ掴んだままだった私の手をぐい、と軽く引っ張った。


「ちょっと、もー!」
「いいこと考えた」
「何?」
も布団の中に入ればいいんじゃない?」
「……バカなこと言ってないでさっさと寝る!」
が一緒に寝てくれたら大人しく布団に包まってるよ、俺。ダメ?」
「ベッド小さいんだから無理でしょ!」
「じゃあ、手はこのままね」
「〜〜〜もー……」


悪戯っ子みたいな笑みを閃かせて、サエさんは私の手だけを布団の中に引っ張りこんでしっかり握り直した。
離す気が全然なさそうなその様子に、私は仕方なくされるがままになった。
ベランダに続く窓の向こうに見える空は、大分赤みを増してきている。
涼しくなり始めた部屋の中で、布団の中の手だけがぽかぽかと温かかった。
薬が効き始めたのか、とろりと眠たそうに目を細めたサエさんが、掠れた声でぽつりと呟いた。


「せっかくが近くにいるのにキスも出来ないなんてつまらないなぁ」
「キスはダメ!風邪移っちゃうでしょ!」
「だから、我慢、してるよ……」


途切れ途切れに呟いてゆっくりと瞼を閉ざす。
程なくして聞こえ始めた寝息は、私が来た時よりは格段に落ち着いた和やかなものだった。
私の手を握りしめた手はそのままで、私も、無理にそれを振り解こうとはしなかった。
熱っぽい手のひらにこもる頼りない力が、母親に甘える小さな子供を思わせた。
いつもサエさんに感じているのとは少し違う気持ち。
恋しくて、大切で、それはいつもと一緒だけど。
愛しくて、守ってあげたいと思った。


――――――ああ、愛しいな。
こういうのを母性本能って言うのかな。


薄暗くなり始めた部屋の中。
手のひらから伝わるサエさんの熱が、じんわりと身体中に染みていくのを感じながら、私は。
いつだったかサエさんが言ってくれた言葉を思い出して、ほのかに笑った。











サエさんが、私に対してなれる全てのものになりたいと言ってくれたように。
私も、この人に対してなれる全てのものになりたいよ。


大切に、誰よりも愛しく思う、ただ一人のあなたの為に。






















88888Hitキリリクで、年下彼女とサエ!甘々で!でした。
……………………甘い、のかなぁ……………………。(おい)
甘い話甘い話、と考えててぽんと浮かんだのが、一人暮らしを始めたサエを看病するってシチュで、こんな感じになりました。因みに読めばわかりますが、ヒロインは樹っちゃんの妹設定。
こんな感じで宜しかったでしょうか、翡翠様。
リクエスト、誠にありがとうございました!!これからも何卒宜しくお願い致します!

06/05/10UP