指の先からじんわりと染み入るこの熱は。
きっと君の優しさそのもの。
トランキライザーハニー
パチッとスイッチを入れる微かな音が鼓膜を振るわせて。
唐突に視界が真っ白い光に染まった。
「うわっ!!?」
「……あーサエ。お帰りー」
「お帰りじゃないだろ、電気もつけないで何やってんの!」
「……眩しい……」
玄関の扉を入ってすぐの壁にある電灯のスイッチに手をかけたまま、驚きに見開いたままの目で私を見つめて、この部屋の主は珍しく声を荒げた。
日が沈んでから今まで、窓から入ってくる街灯の光だけで過ごしていた(つってもボーっとしてただけなんだけど)私の目に、室内灯の明るい光は強過ぎて。
眩しさにしぱしぱと何度も瞬いていると、スニーカーを脱ぎ捨てて部屋に入ったサエが呆れたように口を開いた。
「人の部屋に上がりこんで電気もつけずに何やってたんだ?」
「上がりこんでって、合鍵くれたのはサエじゃん」
「確かに好きに入っていいと言ったけど、こんな怪しい行動取ってくれとは言ってないぞ」
「……すいませんね、怪しい女で」
「で?何かあったのか?」
「…………」
フローリングに敷かれたラグマットにぺったり座り込んだままの私の前に、サエがすとんと腰を下ろす。
胡坐をかいた膝の上に頬杖をついて、穏やかな笑みを浮かべてこっちを覗き込んだ。
何でもお見通しって感じの柔らかな眼差しが、言ってごらんと優しく問いかける。
別に言ったらヤバいようなことでも何でもないんだけど、わざわざ口にする気にもなれなくて、私は無言で身体を前にのめらせてサエの胸に顔を埋めた。
肩口に額を寄せると、温かい手が後頭部を包み込んで、優しく髪を梳いてくれた。
「甘えん坊」
「……うっさい」
「学校かバイト先辺りで、何か嫌なことでもあったか?」
「――――――」
……黙り込んだ私の耳元で響いた小さな笑い声が、初夏の夜の涼しい空気を微かに揺らした。
髪を撫で梳くサエの手の動きが、よりゆっくり、優しいものに変わる。
慈しむように、慰めるように、優しく触れる手の温かさに、張りつめていたものが緩んで。
ぽたりと落ちた涙が、ラグマットの色を一段濃い色に染め変えた。
―――それらは本当に些細なことで。
学校で同級生とちょっともめた(テニス部の奴らと仲良くし過ぎだってケンカ売られた)。
進路のことで先生にいろいろ言われた(もうワンランク上げろって何)。
バイト先の新人に偉そうに指図するって陰口叩かれてるのを聞いた(いつ指図なんかしたよ)。
人によっては、そんなことで?って思うようなこと、なんだろうけど。
「……私が勉強したくて、行くんだからっ……」
「うん」
「先生の評価とか満足の為に進学するんじゃないもん……!」
「うん、そうだな」
「……バイトだって……っ、間違ったやり方を指摘するのは、余計なことなの?」
「余計じゃないと思うよ」
「それに、それにさ、幼馴染と喋って遊んで何が悪いっての!てか、ダビデも剣太郎も私のことなんか欠片も女扱いしてないじゃんよ!なのに何で『ベタベタしないでよ』とか言われなきゃなんないのよ、どんだけ目が曇ってんだかって感じよ!」
「……それは少し問題のような気がするかな」
「なんでようっ」
それまで全てを肯定してくれていたサエの零した呟きに、伏せていた顔を上げて睨んだら、サエは手を伸ばして私の前髪を掬い上げてさらりと横に払って。
「は俺の大事な子なのに、粗暴に扱ってるってことだろ?」
「…………」
「あの二人には少しお灸をすえてやらないとダメかな」
「……好きにしたら」
「そうするよ」
くすりと笑う声と同時に、額に軽く唇が触れる感触。
それからあやすように軽く私の頭を叩いたサエは、静かに立ち上がってキッチンに向かった。
水切り籠の中から小さなお鍋を引っ張り出して、一人暮らし用の小さな冷蔵庫からあれこれ取り出して。
五分後、戻ってきたサエの手には、湯気のたつマグカップが一つ。
「ほら、」
「……何」
「ホットミルク。甘くしてあるよ、好きだろ?」
「……バターも入ってる?」
「もちろん。熱いから気をつけて」
受け取った陶器のマグカップは手のひらに程よい熱を感じさせた。
冷ますために軽く息を吹きかけると、溶けかけのバターの欠片が揺れて、真っ白い水面にうっすら黄色い模様を描く。
ハチミツとバターの混じり合う甘い香りが空腹を思い出させた。
……そう言えばお昼の後、何も食べてなかった。
学校終わってバイトあがって真っ直ぐここまで来て、サエが帰ってくるまで、結構な時間ぼんやりしてたから。
火傷しないように、温かい甘いミルクを少しずつ流し込む。
じわじわ、おなかの中が温かくなって、ささくれ立ってた気持ちが少しずつ和らいで。
マグカップの中身を三分の一くらい減らしたところで、そっと視線をあげたら、サエはさっきと同じ位置に座って、さっきと同じ優しい眼差しを私に注いでくれてて。
さりげなく伸ばした手で頬にかかる後れ毛をそっと耳の後ろに流してくれる。
「落ち着いた?」
「……ん」
「じゃあ、それ飲み終わったら、夕飯食いに行こうか」
「うん」
「その前におばさんに電話しないとね。連絡しとかないと心配するだろ」
「うん」
「食べ終わったらそのまま俺が家まで送ってくからって、ちゃんと伝えるんだぞ」
「……ご飯食べた後、そのまま帰らないとダメ?」
「今日は駄目、明日も学校だろ。家まで送ってやるから、飯食ったら大人しく帰りなさい」
「……わかった」
「よしよし」
頷くと、サエはにっこり笑って私の頭を撫でた。
いつもはあまり嬉しくない子供扱いが、今はとても心地良かった。
髪を撫でながら下に降りてきたその手にそっと頬を摺り寄せる。
小さな子供に戻ったように甘える私に応えて、そっと頬を撫でてくれた温かいその手は、飲み込んだ甘いミルクのように、じんわりと心の中を温かくしてれた。
95000Hitを踏んで下さった、友人のyumiちゃんに捧げます。
疲れてるので癒されるサエを!とのことでしたが、その後お加減はどうですか!?
マジで無理しすぎちゃいかんですよ!!これで少しでも癒されたらいいんですが……。
因みに作中のホットミルクは私の好物です。ハチミツか角砂糖入れて甘くしたホットミルクにバターを一欠け入れると、コクがあって美味いです。ついでにホワイトラムかブランデーを1、2滴落とすと更にイイ感じv
疲れてる時にはオススメです!……カロリーは高いですが。
06/06/13UP