二度は喪わない。
捕まえた手を離すのは、この命が消える、その時だけと。
そう、心に決めた。
闇月夜
そのひとを見かけた。
考えるよりも先に、身体は後を追って動き出していた。
後頭部に結い上げ、まとめた黒髪。小さな背中。
気付かれないように気配を殺してその後を追う。
今は十番隊の隊舎にいるはずのそのひとは、私にとってとても大切な上司であり、友人だった。
――――――雛森さん。
歳も近く、話もあった。
席次が近いこともあって職務では彼女の補佐を努めることも少なくなかったし、仕事を離れても非番の日は一緒に買い物に出掛けたり遊びに行ったりした。
私たちが並んで歩いたり話したりしていると、『あの人』は優しい笑顔をもっと優しく綻ばせて「そうしているとまるで姉妹のようだね」と笑っていた。
そんな一言に顔を見合わせて笑って、次に二人で『あの人』の前に出る時につけようか、なんて言いながら、お揃いで色違いの髪留めを買ったりした。
『あの人』に言われたからじゃなく、本当に姉妹のように思っていた。
大切な存在だった。
……それでも、『あの人』とは比べようもなかったけれど。
『あの人』を喪って、呆然と時を過ごしていた私の耳元に囁かれた、優しく、けれどどこか冷たい声。
『―――藍染隊長なぁ、雛森ちゃん宛てに手紙、残していかはったらしいよ?』
―――どうして、と思った。
私には何も残されなかったのに。
何故、私にではなく彼女に、彼の最期の言葉が残されるのか。
それは本当ならば私の元へ来るべきものだったのではないのか。
それを彼女が不当に奪ったのではないのか。
時間が経てば経つ程に思考は澱み歪んで、それに比例して彼女への憎しみも増した。
姉妹のように思っていたことも、同じように彼の死を悼む存在だと言うことも、もうどうでもよかった。
彼の残した言葉を、自分の元へと取り戻したくて、ただそれだけに固執した。
だからどこかへと急ぐ彼女の後ろ姿を見つけた時、迷いもなくその後を追いかけた。
同じように身の回りに結界を張って霊圧を消して、気付かれないよう一定の距離を保って。
そして、追いかける途中で彼女の進む先にあるものが何であるかに気付いた、その時。
―――唐突に誰かの手が私の口元を塞いで腰を攫った。
地を蹴っていた足が宙に浮き、咄嗟に私は背後に肘を打ち込もうと身構えた、のだけれど。
耳元で低く囁いたその声を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
「僕に拳を向けるのかい?―――いけない子だ」
―――――― それは。
何よりも聞きたかった、ただ一人の人の。
『あの人』の、声。
口元を覆う温かく大きな手のひらがゆっくりと外れて、そのまま下に降りてもう一方の手と一緒に私の腰を優しく抱きしめる。
全身の震えを必死に抑えつけながら、首から上を動かして後ろを振り向いたその先に。
求めていた笑顔を見た瞬間、雛森さんの事なんて頭の中から消し飛んだ。
「―――藍染、隊長っ……!」
まるで、人込みの中に取り残された迷子の子供が、やっと探し当てた親に飛びつくみたいに。
無我夢中で身体を捻って、その首に縋りついた。
抱きしめる腕に力が篭ったのを感じて、もっと強くしがみつく。
手のひらに今も残る冷たい感触を消したくて、何度も何度も温かい首筋や頬に手のひらを押し当てて。
無茶苦茶な私の行動に、藍染隊長は何も言わずされるがままだった。
時折その手のひらで優しく私の背中や髪を撫で下ろした。
どのくらい、そうしていたのか。
何度も藍染隊長の温もりを確かめて、鼓動を確かめて、そうして少しずつ落ち着いてきた私に、藍染隊長が低く囁いた。
「……どうして生きているのかと、聞かないのかい?」
まだその首にしがみついたまま、私は静かに首を横に振った。
理由なんてどうでもよかった。
喪いたくなかった温もりが再び戻ってきて、愛しいこの人の腕が自分を抱きしめてくれている。
それが夢でなく現実なのならば、理由なんてどうだっていい。
藍染隊長は淡く微笑むと、私を抱き上げたままゆっくりと歩き出した。
「……どこへ行くんですか?」
「どうして生きているのかは聞かないのに、それは聞くんだね。行く先がわからないのに連れて行かれるのは嫌だと?」
「聞かれたくないことならば聞きません。藍染隊長と一緒なら、地獄に行くことも厭いません」
「……そうか。それなら教えてあげよう。行く先は、ね……」
藍染隊長が次の句を告げる前に、周りの景色が変わった。
瞬歩で移動したのだと気付いたのは、目の前にそびえ立ついくつもの塔を確認してから。
清浄塔居林。
完全禁踏区域であるそこは、遠目に見たことはあっても踏み込むのは初めての場所だった。
普段なら禁を犯すことへの恐れできっと震えが止まらなかっただろうその場所で、私は自分でも不思議なほど落ち着いていた。
藍染隊長がいるから。
藍染隊長が傍にいてくれるなら、どんな罪を犯すことも厭わない。
林立する塔を静かに見上げる私にちらりと視線を投げかけた藍染隊長は、声なく笑った。
いつもの優しくどこまでも穏やかな笑みと違う、どこか退廃的な暗い笑顔。
見慣れないその笑みを見ても怖いとは思わなかった。違和感すら感じなかった。
その笑みもまた、今の私にとってはこの人が自分の傍に生きて在ることを証明してくれる、確かな標だった。
ふと抱きしめる腕が緩んで、ふわり静かに、私の足が地面に触れる。
私を下ろした藍染隊長は死覇装の襟を軽く直して、そして私の頬にそっと触れた。
先程の暗い笑みは消え、柔らかな笑みがそれに取って代わる。
穏やかに響く低い囁きが問いかける。
「―――僕と共になら地獄への道行きも構わないと、本心から思っているかい?」
「はい」
「今まで君を取り巻いていた全てを失うことになっても?」
「……貴方を一度喪った時」
頬に触れている手のひらに自分の手を重ねてそっと目を閉じた。
「貴方を一度喪った時、私の世界は全てを失くしました」
「…………」
「白も黒もない、光すら見えない。だって私の光は、貴方だったから……」
藍染隊長がいなければ。
貴方がいなければ立ち行かない、私の世界。
この頬に触れる手、囁く低い声、貴方と言う存在唯一つ、それだけで、私は。
「貴方が居なければ、世界なんて何の意味もありません」
「……僕が?」
「そうです。だから私は、貴方が戻ってきたのならそれでいいんです」
「僕が君を連れてはいけないと言ったら?」
「死にます」
その一言を口にすることに欠片も迷いはなかった。
私を見つめる穏やかで底の見えない暗い色の瞳を見つめ返して言葉を続ける。
「連れて行けないのなら殺して下さい。私は貴方から離れない、この手はもう離さないと決めましたから」
「手を離して欲しいなら殺せと?」
「はい」
一度は喪った人。
二度は喪うまい。
私が次にこの人を喪う時は、それは。
――――――私の命が果てる時だけ。
頬に触れた手はそのままに、藍染隊長は小さく声を立てて笑うと。
一瞬だけ、でもとても深く、唇を重ねた。
「……わかったよ、」
「隊長?」
「連れて行こう。君が望むとおりに」
「本当に……?」
「ああ」
小さく頷いた藍染隊長は、塔の一つに向かって白い裾を翻してゆっくりと歩き始めた。
その後に続くと、隊長はふと足を止めてこちらを振り返って私の名前を呼んだ。
「ああ、そうだ。」
「はい」
「私のことは、もう隊長とは呼ばないでくれないか」
「じゃあ、何て呼べばいいんですか?」
「言わなくともわかるだろう?」
瞳を細めて緩やかに微笑んだ藍染隊長と少しの間見つめ合ったあと。
私はゆっくりと唇を開いて、閨ですら呼んだことがなかったその名を口にした。
「……惣右介、様」
「いい子だ」
微笑みと共に差し出された彼の手に、自分の手を委ねて。
私は一度目の喪失以来、初めて。
心からの微笑を浮かべた。
向かった先の塔で、彼の手が彼女の胸を貫くのを見ても、私の胸は痛まなかった。
暗い微笑を浮かべた彼が進むその道を、共に歩むことを許された、そのことがただひたすらに嬉しかった。
――――――例えこの先、彼がどんな道を歩むとしても。
それを害するものを幾人殺め、屠ろうとも。
二度と、この手は離さない。
いったい何ヶ月ぶりのブリーチ夢でしょうか……。
この話は以前、まだ白い藍染様しかいないと信じていた頃、ラブなあの方に捧げたお話の続編と言うことになっております。
真っ黒藍染様が出てきてから少しして話が浮かんできたんですが、なかなか書く気になれず……
(未だ真っ白藍染様に未練がorz)私の気まぐれにより、今日やっと日の目を見ました。
06/02/07UP