「―――ダビデ?」


擦れ違った瞬間に唇の隙間から零れたのは、懐かしい呼び名だった。
記憶に残るそれと変わらない明るい色の髪が揺れて、肩越しにこちらを振り返る。
秋色のジャケットにシャツにジーンズ、スニーカー。周囲よりずば抜けて背が高いことを除けば、どこにでもいそうな大学生。
でもその顔は、昔より更に大人びてはいたけれど、間違いなく見知った、懐かしい顔だった。
一瞬浮かんだ困惑の色はすぐに消えて、頭上20センチの高さにある鋭い瞳が心持ち見開かれた。


「―――?」
「やっぱりダビデ!?うわ、びっくりした、久しぶり!!」
「……おー」


昔のままの無表情が崩れて、人懐っこい笑みが口元に閃く。
中学卒業以来、数年ぶりの再会に自分でも驚くほど心が躍った。
だけど、ダビデの隣から訝しげな視線を投げかける人に気付いて、浮き立った気分がすっと萎えた。
私たちとそう歳の変わらない、なかなか綺麗な女の子。
ばっちりメイクした顔の中から、アイラインとマスカラで綺麗に縁取った大きな目が、あきらかな敵意を含んで私を睨みつけている。
それに気が付いているのかいないのか、ダビデは私に視線を向けたまま、のんびりと言葉を紡いだ。


「大学、この辺だったのか」
「……あ、うん。サエちゃんから聞いてない?同じ大学なんだけど」
「え。……聞いてない、マジで?」
「偶然にもね、入学三日目にキャンパスで運命の再会。学科も一緒なんだよ」
「サエさんそんなこと一言も言ってなかったぜ」
「えー、なんでだろ。内緒にするようなことでもないのにね」


本当は何となく、サエちゃんがダビデに言わなかった理由はわかる気がした。
大学で再会して以来、昔以上に親しく付き合いのある、今はすっかり男の人になった顔を思い浮かべて口を閉ざす。会話が途切れたところで、さっきから私を睨んだままだったダビデの彼女(だと思う)が、甘えるように名前を呼んで、ダビデのジャケットの袖をぐいっと引っ張った。


「天根くん、もう行かないと」
「……や、俺は」
「あ、どっか行く途中だったんだよね、ごめんね呼び止めて。今度サエちゃん通して連絡するからさ、そのうちみんなでゆっくり飲みにでも行こうよ」


ダビデが言いかけた言葉を遮って、私は胸の前でひらひらと手を振った。
これ以上引き止めて、彼女に睨まれるのは遠慮したい。
じゃあまたね、と言ってその場を離れようとした時、大きな手に肩を掴んで止められる。
覚えのある懐かしい手のひらの温度に、不覚にも胸が高鳴った。


、待って」
「……な、何?」
「ちょっと、天根くん!?」
「悪いけど、急用が出来たから俺は不参加って他のみんなに言っといて」
「そんな急に!ダメよ、お店の予約、きっちり人数分いれてあるんだから!」
「バネさんにキャンセル料の立て替え頼んで。理由はに会ったからって言えば、納得するから」
「ちょ、ちょっとダビデっ……」
「じゃ、頼んだ。行こう」


憤慨している彼女の言葉には耳も貸さずに、ダビデは私の手を掴むと私が行こうとしていた方、自分たちが向かっていたのとは反対の方に向かってさっさと歩き出した。
背後から『天根くんってば!もうっ!』と怒りに満ちた彼女の声が聞こえてきたけれど、さして気にする様子もなく、早足で人込みの中をすり抜けていく。
ダビデの歩く早さに合わせて必死に足を動かしながら何とか後ろを振り返ったら、綺麗な顔を悔しげに歪ませた彼女がこっちに背中を向けて歩き出したのが見えた。





「ダ、ビデっ……ちょっと、ちょっと待ってっ……早いっ!」


高めのヒールを履いている足が縺れて何度も転びそうになるのを辛うじて堪えつつ、目の前の背中に向かって声を張り上げる。
途端にスピードが落ちて、すぐそこに見えていた小さなコーヒーショップへと方向転換。
真っ直ぐに店に入っていって、そこでやっと歩みを止めたダビデは、少しばかり息の上がってしまった私を窓際のテーブルへと押しやると、ちょっと待ってて、と言い残してカウンターへ向かった。
相変わらずのマイペースっぷりに嘆息しつつ、二人掛けの丸テーブルに腰を下ろす。


―――全国チェーンのこのコーヒーショップは、昔から私のお気に入り。
中学生の頃も、ダビデを付き合わせてよく行った。
私はローファットのカフェモカ、ダビデはカプチーノ。いつも同じ。夏はアイス、秋になったらホット。
あえて砂糖は入れないで、慣れないほろ苦さに時折眉をしかめながら、二人して紙のカップ越しに
コーヒーの熱で手のひらを温めながら、いろんな話をした。
その日の小テストの結果、山のような宿題への愚痴、クラスメイトの噂話、TVドラマのストーリー予想、お互いのオススメ漫画、テニスの話、将来の夢。
あの頃はあの時間がいつか終わることなんて考えもせずに。
ダビデの隣で、二人で過ごすことを当たり前のように感じていたんだ。


コト、と小さな音がして、ショートサイズのカップが目の前に置かれた。
その音に過去の記憶から意識を引き戻された私の正面に、ダビデが腰を下ろす。


「―――ありがと」
「ん」


小さな声でお礼を言って、カップに口をつける。
飲み慣れたほろ苦い味が口の中に広がって、自分の顔が思わず綻ぶのがわかった。


「……ちゃんと覚えてんだ」
「俺の記憶力は強力(きょおうりょく)……フッ」
「成長してないなー。バネちゃんももういい加減、ツッコミ疲れてんじゃないの?」
「そんなことはない、はず」
「何その自信の無さ」


カップ片手に思わず小さく吹き出すと、ダビデもつられたように口元を弛めた。
変わらない笑顔に嬉しくなるのと同時に、さっきの女の子のことを思い出して、少し切なくなる。
昔私がいた場所に、今いることを赦されているのかもしれない子。


「……そう言えば、大丈夫なの彼女」
「彼女?」
「さっきの彼女!誤解されて別れちゃっても、私の所為にしないでよ〜?」
「……別に、付き合ってる訳じゃないし」
「そうなの?でも明らかにダビデのこと好きっぽかったよ、あの子」


付き合ってはいないと聞いてあからさまにホッとしてる自分がいた。
でも彼女がそうではないだけで別な子がいるかもしれないし、と自分に言い聞かせながら、さっきの子に思いっきり睨まれちゃったよ私、と冗談めかして言った瞬間、ダビデは静かにカップを置いた。
カップの底がテーブルにぶつかる音が、人が少ない所為で静かな店内にやけに大きく響く。
その音に重なって、押し殺した、低い男の人の声が、テーブルの上を滑って私の耳に届いた。


「……俺、が引っ越してから、他の誰とも付き合ってない」
「―――」
のことがどうしても忘れらんなかった」
「――――――」





ダビデの唇が紡ぎ出したのと同じ意味の言葉を、今年の春に聞いた。
別の人の声と言葉で。
信じたくて、でも信じることが恐かった、言葉。





『あいつは今でものことが好きだよ』
『ずっと忘れてない。今までずっと。これからも多分、忘れない』
『……もそうだろ?』





―――私たちは、一緒に過ごすあの時間が終わることなんて考えもしないで。
離れてしまってもずっと、お互いの存在を、心の中に住まわせて。
そんなふうに、ずっと。


ずっと恋をしていたの。











どうしようもない恋の御題 『10. 忘れられない人』
H・Amane   050903 UP