それは一日のうちで一番幸せな時間。 自分の視線の遥か上にある棚を見上げて、結構な重量の分厚い本を元の場所に戻す為、指先にぐっと力を込めた。……んだけれど。 踏み台を持って移動するのが面倒臭くて、爪先立ちで何とかしようとしたのが間違いだった。 両足爪先立ちなんて不安定な姿勢のまま、目いっぱい伸ばした片手だけで支えるにはその本はちょっと重た過ぎたみたいで、背表紙を支えていた指先は見事に横滑りして。 だけど、そのままなら私の頭を直撃するはずの本は、いつまでたっても落ちては来なかった。 反射的に硬く瞑っていた目をそろりと開けると、いつの間にか背後から伸びた長い腕が、落ちかけた本の背をしっかりと押さえて本棚へと押し戻すところで。 「……だから、どうして貴方は踏み台を使わないんですか……」 私の頭上30センチのところで溜息混じりにそんな台詞を言ったのは、隣のクラスの柳生君。 ついでのように私の腕の中のもう一冊も取り上げて、今入れた本の隣に差し込む。 「どうもありがとう、柳生君」 「さん、私は先日も同じことを言ったと思うのですが」 「……そうだった?」 「上の棚に本を戻す時は踏み台を使って下さいと、もう何度となく言っているでしょう」 「あはは、踏み台持ち歩くのが面倒で、ついつい」 「…………」 「……ごめんなさい」 軽い気持ちで言った私の一言に、呆れたように深々と溜息をつく柳生君の傍を離れて、そそくさと貸出カウンターへ戻る。 柳生君はそんな私の後ろでもう一度軽い溜息を漏らすと、本棚に向き直って本を物色し始めた。 カウンターの椅子に座った私は、まだ返却処理の済んでいない本の影からそっと、手にした本を開く柳生君を見つめた。 長くて少し骨ばっている指が、ゆっくりとページを捲る。 うちの図書室は広さの割に利用者が少なくて、今日もまだ昼休みが始まって間もないからか、室内には数少ない常連の一人である柳生君と、当番である私以外の人影はない。 しんと静かな室内に、ぱらぱらとページを捲る軽やかな音だけが響いて、それを聞きながら私はいつものように、開いたページに視線を落とす柳生君の横顔にじっと見惚れた。 すっきりと整った顔の中、眼鏡の下で僅かに伏せた眼差しが本の中の文字を追っている。 古い造りの本棚とたくさんの本に囲まれて立つ柳生君の姿は、大きな一枚の絵のようだ。 学校の図書室ではなく、どこかの美術館にでもいるような気分になりながら、私は目を離し難いその光景から何とか視線を外して、返却処理に取り掛かった。 他の利用者が来て、去って、返却された本を片付けて(今度はちゃんと踏み台使いました!)。 そうこうしているうちに時計の針は昼休み終了の予鈴5分前を指した。 私のいるカウンターのすぐ近くの机で本を読み耽っていた柳生君が、本棚に戻しに行く。 開けておいた窓を施錠してカウンターに戻ってくると、柳生君はまだそこにいた。 「お疲れ様です」 「どうも!あ、何か借りる?まだぎりぎり受け付けてるよ」 「いえ、今日は結構ですよ。まだ返却していない本もありますし」 「借りてってる本があるのに、図書室にも毎日来て読んでる人なんて柳生君くらいじゃない?」 一冊読み始めると、読み終えるまではその本に掛かりっきりになっちゃう私には真似出来ない。 いろんな話が頭の中でごっちゃになってしまわない?と訊ねると、柳生君は笑って首を横に振った。 「すごいな、私には無理だ……」 「それにうちの図書館は人が少なくて静かで、読書に没頭するには最適ですからね」 「ああ、それはわかる!せっかくあれだけの蔵書があるのに、勿体無いくらい人が来ないもんね」 「そうですね。―――それに、さんもいますから」 ―――反応を返すまで、たっぷり5秒の間があった。 「…………え?」 「さんは一人にすると無茶ばかりしますから、危なっかしくて目が離せません」 「…………あー…………」 何だ、そういうことか。 過剰な反応をしてしまった気がして、思いっきり恥ずかしくなった。 心なしか火照る頬をぺちぺちと叩きながら、カウンターに置いてたノートとペンケースに手を伸ばす。 と、私が取るより先に、横から柳生君の手が伸びてそれを持ち上げた。 「持ちましょう」 「え、何で!?いいよ、自分で持つよ」 「でもまだ出入り口の施錠があるでしょう。荷物を持ちながらだと大変では?」 「あー、えーと……」 「この間は廊下に落としてしまっていたでしょう」 「な、何で知ってるの!?」 「私が出た後、後ろで音がしたので振り返ったら、ちょうどペンケースの中身が散らばるところでした」 「あの時見てたの!?」 その時一緒にいた先生しか知らないと思ってたのに! 恥ずかしい……。 柳生君は軽く眼鏡を押し上げて、にっこり笑った。 「拾うのを手伝おうかと思ったんですが、あの時は先生がいらしたので大丈夫かと思って」 「う、うん……ありがとう」 「いいえ。それに、好きな女性のお役に立ちたいと思うのは当然のことです」 あまりにもさらりと、何でもないことのように言われたので、一瞬聞き流しそうになった。 ……柳生君、今、何て言った……? 頭であれこれ考えるより先に頬がかーっと熱くなって。 呆然と立ち尽くす私を置いて、柳生君はさっさと出入り口に向かって歩き出した。 扉の前で立ち止まって、ゆっくりとこっちを振り返って。 穏やかな笑顔が私に向けられる。 「行きましょう、―――さん」 そしてまた今日も。 彼は図書室で本を広げる。 私の隣で。 「愛しいと思う」御題 『05. 本をめくる手、静かな午後』 H・Yagyu 050908 UP |