その瞬間、気付いてしまった。





「……こんなとこで何やってんだ、


すぐ近くで響いた声にぎょっとして顔を上げる。
いつの間にか傍に来ていたその人は、長めの前髪の下から鋭い眼差しを私を向けて。


「何やってんだ」


同じ言葉を繰り返した。


「若こそ、何してんの」
「交流棟に用事だ。ここを通るのが一番時間のロスが少ないからな。……で?」
「…………」


最後の疑問符に合わせるように、私に向けられる若の視線がきつくなった。
明らかに話を逸らそうとしたことを咎めているその視線から逃げるように俯いた私の頭上で、チッと舌打ちの音が響いて、続いて遠ざかっていく足音が聞こえた。
俯いていた顔を上げたら、もう若の姿はなかった。
あーあ、怒らせちゃったかな……。
言い方はきついけど、若なりに心配してくれたんだとわかるから、申し訳ない気持ちになった。
のろのろと屈みこんでその辺に散らばったカバンの中身を拾い集める。
ノートや教科書の泥を払って、一つ一つカバンの中に戻して。
全て拾い終わってカバンを閉じた時、ひんやりした何かが頬に触れて、びっくりして顔を上向けたら、濡れたタオルを差し出している若がそこにいた。


「……若」
「使え」
「あ、りが、と……」


固く絞ったタオルを受け取って、そのまま頬に当てる。
湿った布越しに触れた頬が僅かに腫れていることに今になって気がついた。
叩かれた時、結構派手な音してたもんなぁ……。
熱を帯びた頬にあてたタオルの冷たい感触を心地よく感じながら、脇にカバンを抱えてぼんやりとその場に座り込んでいると、黙ってこちらを見下ろしていた若が、唐突にぽつりと言葉を発した。


「……あいつ関係だな?」
「……何のこと?」


その言葉が指しているのが何なのか、わかっていたけどあえてわからない振りをして聞き返す。
若はまたチッと舌打ちして、一歩こっちに踏み出した。


「鳳のファンだとか言ってる奴らにやられたんだろうが!」
「ああ、それね。うん、そうみたい」
「みたいってなんだ。とぼけてんじゃねぇよ」
「長太郎君の名前は出たけど、はっきり彼のファンだって言われた訳じゃないもん」
「屁理屈言ってる場合か。あいつに言って―――」
「長太郎君には言わないで」


さりげなく言ったつもりだったのだけれど、実際には思っていたよりも強い口調になってしまった。
言葉を遮られた若がむっとして口を噤む。
このぶっきらぼうで不器用な幼馴染が、私のことを心配して言ってくれてるのはわかってる。
だけど。


「長太郎君には言わないで、お願いだから」
「……心配かけたくないとか、そんな理由で黙っとかれて喜ぶタイプじゃないだろうが、あいつは」
「わかってるよ。でも黙ってて、お願い。余計な心配をかけたくないの」


掠れた声で呟いた言葉は、周りに人気がないおかげで思ったよりも響いた。
聞こえたはずなのに、若は何も言わない。私もそれ以上何も言えなかった。
少しの間続いた重苦しい沈黙を破ったのは、苛立たしげな溜息。


「……勝手にしろ」


諦めたような、呆れ返ったようなその声音に、思わず上を見上げたら、こちらを見下ろす若の視線に真正面からぶつかった。
一見キツい眼差しの奥に、私を気遣う優しい光。
小さい頃からずっと、不器用でそっけなくてつっけんどんな物言いばかりだけど、本当は。
本当はとても優しい人だから。
申し訳なさが募って、心配してくれてるのにわがままばっかり言ってごめん、と小さな声で呟く。
それを耳にした若はもう一度溜息をついてから、私に向かってすっと手を差し伸べた。


「手、貸せ」
「……うん」


一瞬躊躇って、自分の手を委ねたその手のひらは、記憶に残るそれよりも随分と大きく。
そして幼い頃の記憶と同じに、ひんやりとしていた。


「若ってこんな手大きかったっけ」
「いきなり何だ」
「や、何ていうか……昔繋いだ時は私とそんなに変わらなかったと思うんだけど」
「何年前の話だ。大体これだけ体格に差が出来てんだから、手のデカさも変わってて当たり前だろ」
「そっか、そうだよねぇ」
「……ったく」


呆れたようにぼやいた若は、私の手をしっかり掴んで引っ張って。
予備動作無しにいきなり引き上げられて私の膝は勢い良く伸び、そして勢い余って前によろけた。


「ひゃっ……」
「……っ!」
「あ、危なかったぁ。ありがと、若」


目の前に立っていた若にぶつかったおかげで、何とか体勢を立て直す。
よろけた私を咄嗟に受け止めてくれた若にお礼を言おうと顔を上げたその時、引っ張られた方の手を掴む力が、不意に強くなった。
一瞬痛みを感じるほどの、強い力。


「痛っ」
「…………」
「若、痛いよ?ねぇ、わ……」


緩まない力に眉を顰めながら若の顔を覗き込んだ瞬間、喉が引き攣れたように声が出なくなった。
向けられた眼差しと繋がれたままの手に宿る、剥き出しの、狂おしいほどの感情が。
一時、呼吸することを忘れさせた。
繋いだ手を捕らえる力が一層強くなる。
でも今はまるで麻痺してしまったように、痛みを感じなかった。


「…………」
「…………」


薄い唇から紡ぎ出されるのは私の名前。
その先を若が口にする寸前。
唐突に響いた声が、その場の息苦しい空気を霧散させた。


「日吉?そんなとこで何してるんだ?」
「――――――」


ひんやりした手のひらが私の指の間からするり抜け出る。
さっき見せた嵐のような感情の色を瞬く間に消し去って、若は不自然なほど冷静な表情で、背後に現れた声の主を振り返った。


「鳳か」
「サロンにいなかったからもう帰ったのかと思ったよ。あれ、?」
「……長太郎、君」
「二人してこんなとこで一体何やって―――」


優しげなその声が不意に途切れて、急に表情を厳しくした長太郎君は、彼らしくない荒々しい足取りで小走りにこっちに駆け寄ってきた。
それを見た若が、さりげなく私の傍から離れる。
一瞬そっちに気を取られた私の視界に長太郎君の大きな身体が映って、若の姿を完全に隠した。
次いで、覚えのある温かくて大きな手のひらがそっと頬を包み込む。


「腫れてるじゃないか、どうしたんだ、これ!」
「あ、あの、ちょっと転んでぶつけちゃっ……」
「お前のファンだとか言う女どもに殴られたんだとよ」
「な……」
「若!」


咎める私の声に、若は軽く首を竦めて見せて。
それ以上何も言わず、いつもと同じ無駄のない足取りでさっさと交流棟の方向へと歩き出す。
腫れた頬や泥に汚れたカバンを見て説明を求める長太郎君に答えながら、私は歩き去るその背中をじっと見つめて、そしてさっきまで掴まれていた手のひらをぎゅっと握り締めた。





――― その瞬間、気付いてしまった。気付かされてしまった。
繋いだ手の力から伝わる、痛みさえ忘れさせるほど激しい、彼の想いに。
……気付きたくは、なかったのに。











「愛しいと思う」御題 『07. 手を繋いだ時間』
W・Hiyoshi   060118 UP