『―――まだ子供の癖に生意気ね』


言った女の顔は思い出せないのに、その台詞だけははっきりと覚えている。


『唇へのキスは本気の相手だけにしときなさいよ』
『俺は十分本気やけど』
『そんなふうに無駄にカッコつけて背伸びしてるうちは、本気の恋なんて言えないわよ』


覚えている。
―――キスを拒むその唇から紡ぎ出された言葉が、まるで子守唄のように優しかったこと。


『いつかの為にとっておきなさい』





「あ」
「……おお」


誰もいないと思っていたその空き教室に一歩踏み込んだ途端、聞こえたその声に自分の表情が自然と緩んだのを感じた。


「こんなとこで何しとんの?
「あ、あの……さっきまで、委員会で、つ、使ってて」
「ほうか」


綺麗に並ぶ机の間をすり抜けて、いっそ不自然なくらいどもったりつっかえたりしながら喋るその子のすぐ傍まで行くと、は真っ赤に染まった顔を深く俯かせた。
今まで自分の周りにはあまり……と言うよりほとんどいなかったタイプ。
その表情に、態度に、はっきりと見て取れるのは、自分への好意。明らかな恋情。
真っ直ぐすぎるそれは、まるで恋愛に慣れていない、悪く言えば子供っぽさが際立つもので。
恋愛慣れ・男慣れした女ばかり相手にしていた所為か、の反応はいつもひどく新鮮に感じられた。
見ているのは面白かったが、それは最初のうちだけで、慣れれば飽きてしまうだろうと思っていた。
……そう、思っていたんやが。


「何しとるんか、見ても構わんか?」
「え……あ、う、うん……」


が座っている席の一つ前の席に後ろ向きに腰を下ろしてから、俺は机の上にきちんと重ねてまとめられている用紙の束を手に取った。
わら半紙の上に並んでいるのは覚えのある質問項目と、知らない誰かの筆跡による回答。


「……ああ、こないだのアンケートの集計か。一人でやるにゃあこれはちっとばかり手間やなかか」
「う、うん……項目数が多い、から……」
「そうやろうの。丁度いい、ここに来合わせたのも何かの縁じゃ、俺も手伝うぜよ」
「えっ!?」


俺が口にした台詞に、それまで俯きっぱなしだった顔がばっと上がる。
相変わらず真っ赤な顔の中、大きく見開かれた目と視線がぶつかって。
数秒間の沈黙の後、額や首まで真っ赤に染め上げたはあわあわと口を開閉させたり、あちこちに視線を彷徨わせまくった挙句、さっきよりも更に深々と俯いてしまった。
小さな机一つ分しか離れていない俺がやっと聞き取れるくらいのか細い声で、つっかえつっかえ話す。


「……あ、の……で、でも、もうあと、ちょっとだから」
「遠慮はいらんよ」
「わ、私の、仕事だからっ」
は真面目やのう」


そう言った言葉は本心からだったけれど、いつもの癖でからかうような口調になってしまった。
意識的にか無意識にかはわからないが、は小さな手で赤い頬をきゅっと押さえながら椅子の上で何かに怯えている小さな子供のように縮こまる。
……傍から見たら俺が虐めているように見えとるんじゃなかろうか。
そんなことを思いながらもその反応をもっと見ていたい気持ちが勝って、俺は前触れ無く腕を伸ばしての頭をそっと撫でてやった。
触れた瞬間、華奢な肩が傍目にもわかるほど大きく揺れて、手のひらに振動が伝わる。
その反応を、ひどく愛しいと思った。


「本当にいい子やな、は」
「……そっ、んなこと、な……」
「いんや、いい子じゃ」


いい子いい子と言いながら、柔らかなの髪を何度も撫でていた、その次の瞬間。
簡単には元に戻りそうに無い赤い顔の中で、落ち着き無く動いていた大きな瞳が一瞬止まったその時に浮かんだ表情に、俺は思わず手を止めてしまった。
困り果てていたの表情の中にほんの一瞬覗いた笑顔。
それはいつもの子供っぽさとは違う、ひどく女らしい、艶めいて匂いたつような。
そんな雰囲気を、纏っていた。


何かを考えるよりも先に、身体が動いていた。



「――――――」



一瞬の、空白。
弾かれたようにが立ち上がって、派手な音を立てて椅子が床に倒れた。
零れ落ちそうなほど大きく見開かれた目が、真正面から真っ直ぐ俺を見つめる。
まだはっきりと残っている柔らかな感触を確かめるように、俺は自分の唇を指先でなぞった。


甘く、柔らかい、感触は。
の唇。





「……あ……仁王、君……ど、して……」
「……どうして?」


聞こえたの声に引き寄せられるように、ゆっくりと立ち上がって。
めいっぱい腕を伸ばして華奢な身体を捕まえる。
前屈みに顔を近づけて、大きく見開かれたままの瞳を真っ直ぐに覗き込んで。


「俺はが好きじゃ」
「……え……」
「冗談かとか言うなよ?本心から、が好きじゃ」
「…………」
「好きでもない奴に、キスなんかせんよ」
「…………っ」
は?俺のことをどう思っとる?」
「……私、は」





一瞬の沈黙がこんなに長いものだとは知らなかった。
長い長い一瞬の、後。


彼女の唇から零れた言葉を奪い取るように、俺はもう一度、その唇に口付けた。











どうしようもない恋の御題 『09. 唇を許す意味』
M・Nioh   060120 UP