ぱらり。
 背中ごしの気配は何か書物のページをめくった。
 ぱらり。
 一定の音で聞こえてくるそれは、音の持ち主が読む行為を順調に続けていることを意味する。無言で、ひたすらに。やむことなく沈黙の中思い出したようにその音は響く。
 ぱらり。
 廣隆は、背中に感じるわずかな体重とぬくもりをうっとおしいとも思えず、ましてや振り払うこともできずにため息をついた。
 ―――もう何度目か数えるのも馬鹿らしくなるくらいのため息を、ついた。










 が、廣隆の一人住まいに来るようになったのはいつのことだっただろう。そんなに昔のことではないはずだ。このワンルーム―――築が古いため家賃の割には広い――はまだ更新を迎えていなかったし、それまでは廣隆は実家にいたのだから。はてな、と天井を睨みながら考える。
 一人暮らしを始めたとたん、悪友どもがやれ酒盛りややれ麻雀やと自分の部屋をまるでクラブハウスのように使うのには閉口したが、それでもそれが寂しさをまぎらわせていることも廣隆はよく承知していた。だから表立って文句を言うこともなく、むしろ客が来たときはもてなしこそしないものの、それなりの雰囲気で迎えてやるのが常だった。
 少なくない友人は、色んなものを持ち込んで廣隆の生活をにぎやかにした。海外旅行の土産だという民族楽器。実家で瀕死の状態だった観葉植物。床暖房になって廃棄されるところだったこたつ。それらの一見不必要な品々は部屋を良い意味で雑然とさせるのに成功し、家主の人柄もあいまって訪れくつろいでいく客は多かった。
 もちろん廣隆が家をあけることも少なくない。潜水士として船にのってしまえば1週間2週間帰らないこともざらだ。家主の留守の間は空間はもちろん閉鎖され、その反動か、部屋にいる時にはいつも誰かしらの訪問があった。
 は、直樹――廣隆の学生時代からの親友――の彼女だった。
 廣隆は初めて会ったときのことを思い出して、微かに首をふった。
 はじめまして、と直樹の背中に隠れながら挨拶をしたの照れくさそうな笑顔をよく覚えている。これ、俺の彼女、と誇らしげに肩を抱いた親友の顔もよく覚えている。忘れられない。
 ええ女じゃ、と思った。
 自分と違って遊んでいる直樹は、もっと派手な女を選ぶのだと廣隆は思っていた。事実、今まではそうだったし、爪もくちびるも髪も派手に染めた直樹の過去の彼女にきちんと紹介されたことなんて今まで一度もなかった。
「今回は、本気なんじゃ」
 照れくさそうに直樹は廣隆の耳元で囁いた。ほじゃけ、こうやってお前にもちゃんと会わせとるんや、と飲み物をテーブルに並べるを遠目でみながら直樹ははにかんだ。
 その時、廣隆はこう言った。ええ年して、何が本気じゃ。でれでれしやがって、気色わるいのう、と。
 うわの空だった。言いながらから目が離せなかった。親友の本気の恋をろくに言祝いでやることもできずに、廣隆は生返事をしながらただひたすら親友の彼女を見つめていた。
 恋に、順番が、あるなんて、当たり前のことだ。
 廣隆はく、とくちびるを噛んだ。親友の彼女にどれほど心を動かされたとしても、それは横恋慕でしかない。ましてや恋にはじめて真面目に取り組もうとしている親友に対しての、ひどい裏切り行為でもあるだろう。好きになってそれだけで満足できる年齢はとっくに通り過ぎていたし、その感情はきっと目の前で繰り広げられる恋の破綻を願うことにつながっていく。
 が、目の前で、直樹に笑いかける。肩を抱かれて、頬を染め、廣隆にむかって何かを語りかける。
 全てが悪趣味な映画を見ているようだった。ふわふわと現実感のない映像が目の前で繰り広げられ、廣隆は役者のようにただ割り当てられた役を演じていた。にとっての「彼氏の親友」という役割を。それはつまり、芽生えかけた恋心を自覚する間も与えず抹殺するということだった。認識する以前に既に禁止されている想いを、なかったことにする、というこだった。
 選ぶ余地もなく自分に与えられたキャスティングをただひたすらに呪いながら廣隆はそれを生涯演じ続けることを決めた。
 自分の想いを殺して、殺して、微塵に破壊することを選んだ。仁義に悖る恋心は誰にも言わない。墓場までもっていく。自分さえ我慢すれば幸せは保たれると、廣隆は信じて疑うことはなかったのだった。


 廣隆の切ない願いに反して、と直樹はあまりうまくはいっていないようだった。もともと女遊びの激しい直樹だったが、それはとの付き合いの中でも変わらず、はいつも泣きながら電話を廣隆にかけてきていた。
 彼氏の親友として、廣隆はその愚痴にいちいち付き合った。頷いたり励ましたり宥めたり叱ったりしながら、その恋が長く続くように本当に力を尽くしたのだ。
 何かを言ったりしたりする度に、じくじくと内臓が傷つけられるような痛みを覚えたが、しょうがない、と甘んじて受けた。報われない想いなのだ。立ち消えるのを待つしかない。それにはふたりがうまくいってくれないとどうしようもない。廣隆は、本当の理由はさておき、全力でふたりがうまくいくためにあの手この手を使って間を取り持った。
 そのうち電話だけでなくは廣隆の家に来るようになった。電話代がばかにならないというのも勿論あったが、直接顔を見て廣隆と話し、展開次第ではそこに直樹を呼んで仲直りすることもできるからだった。ごめんね、いつも。と泣きはらした顔で謝られてはどうしようもない。廣隆は俺の部屋でよかったら、なんぼでも使え、と懐の広さを見せ付けることしかできなかった。
 辛い、というのが正直な気持ちだった。
 本当はふたりの幸せそうな様子なんてひとつも見たくなかった。が直樹に笑いかけているのを見ると顔がひきつったし、直樹がのことを話すのを聞くだけで吐き気がした。
 手に入らないというだけで、こんなにも傷つくのか、と、廣隆はため息をついた。
 なまじ目の前でふらふらと揺れるから性質が悪い。いっそのこと手が届かないほど遠くでぴかぴかと光り続けてくれれば諦めもつくのに、は残酷なほど近くで隙を廣隆にみせつけた。
 もしかしたら、今、優しく涙を拭ってやれば。
 もしかしたら、今、俺のほうがお前を好きだと打ち明ければ。
 決して実行されることのない選択肢が無駄に心の中をかき乱す。思っただけで罪だ。泣いているのうなじを見下ろして何を思っていたのか、ふたりにバレたら間違いなく軽蔑されると思った。
 想いは意思ではどうにもとめようがなかった。
 心に獣を飼っているようなものだ、と、廣隆は諦観の微笑を浮かべた。
 これを飼いならしながら、だましだましやっていくのだ。それしかできない。それだけはしなくては。それが廣隆の仁義だった。それだけは崩してはならない、価値観だったのだ。

 そうこうするうちにと直樹は別れてしまった。
 最初からあわんと思っとったわ、と直樹を知る友人は口々に言った。
 しかし、廣隆はそうは思わなかった。
 直樹が真剣だったのは、ずっと側で見ていた廣隆には痛いほどにわかった。ただ、今までのやり方を変えることが難しく、見栄っ張りな直樹はふりかざされる誘惑にどうしても勝てなくて、ずるずると悪しき慣習をひきずってしまっただけのことだ。それに一番悔しい思いをしたのは他でもない直樹自身だったのだ。
 もちろん、が辛い思いをしたことは言うまでもない。別れる寸前はほとんど毎日のように廣隆の部屋をおとずれ、夜明けまで泣いて泣いて大変だった。
 廣隆はいつも泣き疲れてが眠るまで側にいた。ほとんどの場合何も言葉をかけることはしなかったが、どんなに眠くても起きて側にいてやった。ぐずぐずと鼻をすすりながらが眠りにつくと、直樹を呼び出し連れて帰れとその柔らかな身体を押し付けた。
「俺、女やったらお前に惚れるじゃろうなあ」
 直樹が呟いたことがあった。寝こけるを肩に背負い、薄暗い玄関でその言葉は誰に届くでもなく空しく宙に浮いた。俺何言っとるんやろ、忘れろ忘れろ、と直樹は笑いながら帰ったが、廣隆は何故かその言葉を忘れることができなかった。
 そんなことないぞ、直樹。そんなこと、ありえんぞ。
 玄関の戸にこぶしを押し付けたまま、廣隆は歯をくいしばる。ぎりぎり、と頭にひびく音がした。じんわりと鉄の味が口の中にひろがった。
 廣隆はいつまでも暗い玄関に立ちつくしていた。

 別れてからもは頻繁に廣隆の部屋を訪れた。
 だって、落ち着くんだもん、この部屋。
 だめ?と上目遣いで見上げられてはうなずくしかしょうがない。駄目押しのように、情けないとこもいっぱい見られてるから安心なのよ、と笑われてしまってはもう無条件に受け入れるしかなかった。
 は持ち込んだ本などを読みながらよく直樹の話をふってきた。
 今、どうしてるの?元気にやってるのかな。………誰か、いいヒトはいるのかな。
 自分に応えられる範囲でその疑問にいちいち答えながら、廣隆は胸の奥の傷がどんどん深くえぐられてゆくのを感じていた。
 が直樹のことを口に出すたびに、心の奥底のやわらかい部分に刃物をつきたてられているような気持ちになる。傷は乾くことなく血を流し続け、それでも廣隆はそれをかくしてに微笑み続けた。
「あーあ。もう、私、廣隆くんを好きになればよかった」
 ごろりと寝転がりながらは言った。
 ほうじゃな、と軽く答えたが、廣隆は叫び出したいくらいに苛立っていた。
 それを言ったあと、また直樹の消息を聞いたに、生返事を返しながら廣隆は限界を迎えそうな自分の想いを必死に押さえつけていた。
 別れた後、廣隆をわざわざ呼び出して真剣な表情で頭までさげた直樹の言葉がぐるぐると脳内をまわっていた。
「ヒロ。頼みがある」
「なんじゃ、改まって」
「俺が別れても、とはつきあわんでくれ」
「な………」
「お前とがくっつくのだけは我慢ならんのじゃ。俺はまだアイツのことが好きじゃけ、可能性はつぶしたくない」
「………………おう」
はお前のことを信頼しとる。それが恋に変わってもおかしゅうないじゃろう」
「…………」
「でも、頼む。一生の頼みじゃ。とはつきあわんでくれ」
 廣隆はそれにわかった、と返事をした。するしかなかった。
 いつか出血多量で死んでしまうかもしれんな、といっそすがすがしい気持ちで笑いながら、直樹に約束をしてみせたのだった。

 今日も、はふらりと廣隆の家に訪れて、何をするでもなく廣隆にくっついて本を読んでいた。くっつくな、あつくるしい、と何度言っても無駄だった。何も言わずににこにこと側に寄ってこられてしまうと、それ以上邪険にすることもできず、結局身体的接触を許してしまう。身体的接触といっても恋人同士の甘いそれではなく、動物が暖をとるような原始的なものではあったが、廣隆に内心汗をかかせるには充分だった。
 あぐらをかいて海図を読んでいる廣隆の背に、反対を向く格好でもたれかかり、土産にと駅のスタバで買ってきたキャラメルマキアートをすすりながら(ちなみに廣隆の横にはカフェモカが置いてある)真剣に本に見入っている。
「おもしろいか、その本」
「んー?おもしろいよー」
「俺………便所に行きたいんじゃが」
「だーめ。今いいとこなんだから、動かないでよ」
「横暴じゃのう…………」
「だめだからね。このまま。ステイ、よ」
 ほんの少し声に笑いを滲ませながらは背中ごしに廣隆に命令した。
 苦笑して、そのままの姿勢をとり続ける。廣隆は手を伸ばしてぎりぎり届くところにあったテレビのリモコンを手に取ると、見たくもないお笑い番組をつけた。
 とたんに部屋の中が騒々しくなる。
 ちかちかと派手な色で画面中をはしりまわる芸能人を見ていると、背中から規則正しく聞こえてきたぱらりという音が間遠になった。
 不審に思い、苦労しながら身体をねじって背中にしなだれかかるを見やると、だらりと本を身体の横に落としてすやすやと寝息をたてていた。
「おい、マジでか………勘弁してくれや…………」
 身体を預けたまま寝られるというのはある意味これ以上ない信頼の証なのだろうが、今の状況では廣隆にとっては拷問でしかなかった。
 柔らかく熱い身体はずるずるとバランスを失って廣隆の身体に覆いかぶさってくる。軽く舌打ちをしながら廣隆はの身体を正面から抱きとめた。
 腕の中にの身体を抱え込み、廣隆は一瞬動きを止める。
 その頬に影を落とす睫毛や、ふっくらとしたくちびるや、喉もとの白さに、どうしようもなく目を奪われる。じっと見ているだけで、身体中から汗が吹き出してくる。駄目だ、と理性が叫んでいたが瞳がを愛することはとめようがなかった。
 せめて。せめて見るくらいは。
 廣隆はくちびるを噛み締めて劣情と戦いながら、じっとを見つめる。
 見つめるだけが自分にできる愛し方だと知っていた。それ以上のことは廣隆にはできなかった。誰に許可されたとしても、自分が許すことができないだろうということはわかっていた。きっと、に手を出してしまったら、もちろん快感は感じるだろうが、それを上回る罪悪感と背徳感でどうにかなってしまう。
 頭の先から、投げ出された足の先までをゆっくりと順を追って見ながら、廣隆は長くゆっくりと息を吐いた。ため息ではない。もう、ため息などつき飽きた。
 ため息をつくたびに幸せが逃げるのよ。
 が直樹に笑いながら言っていた言葉を思い出して、泣き笑いのような微笑が浮かんだ。では、自分には永劫幸せなどやってこないんだろう、と廣隆は思う。もう一生分のため息をついた気がする。そしてこれからもこうやっての見ていないところでため息をつき続けるのだろう。
 が、自分のまわりから消えてしまっても。例えば遠くに行ってしまっても。思い出すたびに幸せを逃がす行為を、きっと、する。
 それは、邪な思いを抱く自分への罰なのだ、と廣隆は思う。
 ひりつく想いを微かに首をふって一瞬弾き飛ばすと、腕の中の身体を抱えなおした。
 よいしょ、と抱き上げ、ベッドにつれていく。
 ゆっくりとその身体をベッドに横たえる。無意識に首にまわされたの腕がなかなかほどけなかった。廣隆は息がかかるほど近くにいるの身体に必要以上に触れないようにしながら、時間をかけてその腕を身体からひきはがした。
 身体の横にその腕をそっと下ろし、毛布をかけてやる。これ以上ないほどの優しい瞳で胸元まできっちりと覆うと、すやすやと寝息をたてているの顔をもう一度見た。
 邪気のない、安らかな寝顔だった。
 頬にかかる髪を指で梳いて流してやる。顔をかすめる指の感覚がこそばかったのか、微かにが眉をしかめた。
 廣隆は、そっと指を離した。
 迷うように宙にのばされたままの指は、の顔の前でとどまっている。
 指先が、また、ゆっくりと近づいてゆく。
 廣隆は真剣な表情で、のくちびるを、ひとさしゆびでなぞった。微かに。微かに。
 ぴくん、とが身じろぎした。途端に廣隆はまるで熱いものを触ったかのように素早く手をひっこめる。
 廣隆はしばらくそのままの横に立ち尽くしていたが、ひとつ大きく息を吐くと、緊張していた体の力をぬき、ふ、と笑んだ。
 毛布をわずかにかけなおし、親が子にするように肩あたりをぽんぽんと叩く。規則正しく寝息をたてているのを満足そうに見てから、くるりと足をトイレにむけた。
「べんじょ、べんじょ、…っと」
 口の中で拍子をとりながら何事もなかったかのようにユニットバスの扉をあける。

 ぎい。ばたん。

 毛布に包まれた体が少しだけ動いた。
 廣隆がふれたくちびるが、誰にも届くことのない言葉をつむぐ。
「ばか…………」
 の睫毛は水分をふくんで重く沈んでいた。
「どうして、来て、くれないの…………」
 水音のするバスルームに聞こえるはずのない呟きは、毛布の隙間にまぎれて霧散した。


 背中ごしの気配。それは決して向き合うことはないだろう。
 想いはきっとお互いを向いているのに。


 いつか気づくときがくるのだろうか。
 廣隆とは、壁をへだてたすぐ側で、同時にため息を、ついた。
 幸せがするするとくちびるの間からこぼれてゆく。
 背中に感じる気配はいつだって側にあるのに。
 手に入れられないもどかしさを抱えたふたりは更けゆく夜にそっと幸せを空に放つのだった。



相互リンクサイト『Seventh Heaven』の管理人で激LOVE!!なお友達・侑ちゃんからいただいたトッキュ大羽夢でーすvv リリカル大羽ですよ、リリカル!!
侑ちゃんのリリカルが読みたーい!と言う私のワガママに快く応じて書いて下さったものです!
リリカルって言うか、切ないって言うか、すごく読み応えがあります。どうしてこんな胸にジンと来るお話が書けるんだろう……本当にすごいなぁ……。大好きな友達で、それ以上にリスペクトです、侑ちゃん!
もらってからUPまで大分経ってしまって本当に失礼しました!大事に飾らせていただきまっす!

05/10/26UP