想いめぐらせるたび、きっと思い出す。
あの日のあの鮮やかな緑。
心の奥に、貴方の姿と一緒にくっきりと焼きつけた、あの色を。
緑深く、心深く
第15話 心深く、君を想う
―――抱きしめられて、その腕の中でその言葉を聴いた。
「―――好きだよ」
混乱する頭の中でサエ先輩の言葉が繰り返し繰り返し響く。
真っ直ぐに向けられたその眼差しを受け止めたら、今度こそ完全に頭の中が真っ白になった。
私じゃない別の人を見ていたはずの眼差し。
その眼差しが今は真っ直ぐに自分に向いていて、そして。
「好きだ」
―――囁くような声に、目眩がした。
触れた唇の、微かな震えをはっきりと感じとる。
震えているのは私なんだろうか。それとも―――。
「……」
名前を呼ばれた途端、考えるよりも先に身体が動いた。
のろのろと持ち上げた腕でサエ先輩の胸を押したら、抱きしめる腕が緩んだ。
一歩、二歩と後ろに下がる。たったそれだけの動作なのに、身体がまるで鉛のように重く感じられた。
薄暗い街灯の光に照らされたサエ先輩の顔は、今までに向けられたどの表情とも違う。
射るように。貫き通すように。
じっと見つめてくる眼差しに身体が竦んだ。
―――初めて、サエ先輩を怖いと思った。
「」
もう一度私の名前を呼んで、サエ先輩が一歩前に出る。私は二歩下がる。
先輩は二歩前に出たら、私は三歩下がった。
縮まらず、開くばかりの私たちの間の距離。
サエ先輩はそれ以上進むのをやめて立ち止まって、またじっと私を見つめた。
どこまでも真っ直ぐなその眼差しを、これ以上受け止めていることが出来なくて。
「……っ……」
「…………」
「ごめん、なさい……」
何を謝ってるんだろう、とか。
混乱してる頭の片隅で思いながら、先輩に背を向けて、覚束無い足取りで歩き出す。
そしたら。
「!」
さっきよりも強く、はっきりと、サエ先輩が私を呼んだ。
その声に駆け出しかけていた足が止まってしまう。
振り返ることだけはしない。
振り返って、またサエ先輩と目があってしまったら、もう本当にどうしていいかわからなくなりそうで。
俯いてぎゅっと目を瞑った私の背中にぶつかってくるサエ先輩の声。
「……冗談とか、悪ふざけで言ってる訳じゃないから」
「…………」
「」
どんな言葉を返せばいいのかわからない。
バカみたいに、ごめんなさい、ごめんなさいと、掠れる声で繰り返して。
まるで見えない腕にがんじがらめにされているようだった身体を無理やり動かして、のろのろと駆け出す。
はっきりとよく通る声で、、とサエ先輩がまた私をの名前を呼んだ。
「―――ここで待ってるから!」
その声を振り切るように走るスピードを上げる。
最後まで、振り向くことは出来なかった。
海岸沿いの道を走って走って。
合宿所が見えるところまで戻って、やっと足を止めた。
ついたり消えたりを繰り返す街灯の下に、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
弾む呼吸を整えようとして大きく息をついた途端、涙がぼろぼろと零れ落ちてジーンズの膝を濡らした。
―――どうして怖いなんて思ったんだろう。
サエ先輩のことが好きで、好きで。
先輩が誰を好きでも、この恋を諦める気にはなれなかった。
その恋が実ったのに。
なのにどうしてこんなに涙が出るんだろう。
どうして震えが止まらないんだろう。
どうして怖いなんて思ったんだろう―――どうして……?
「―――!?」
「?」
唐突に、少し離れたところから声が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げて声のした方を見たら、珠子とダビデ君が駆け寄ってくるところで。
「ちょっとどうしたの、!一人で何やってんの!?サエちゃんは!?」
「……珠子たち、こそ……何やってんの……」
「あたし?あたしたちはあれよ、剣太郎のバカが自転車ぶっ壊したこと白状したから、買い物量多いのに自転車のカゴなしじゃ大変かなとか思って追っかけてきたんだよ」
「そ、か……ありがと」
「どーいたしまして……じゃなーくーてー!!だからあんたはどうしてこんなとこで一人で泣いてんのよ!?サエちゃんはどこ行ったの!何があったのかちゃんと言ってみな!!」
「……っ」
「わっ!ちょっとっ!?」
腕を掴んで引っ張って立たせてくれた珠子に思いっきり抱きつく。
面食らった珠子と二人、後ろによろめいたところをダビデ君に抱き止められた。
強い口調とは反対に背中を撫でる珠子の手は優しくて。
止まらない涙を何度も何度も手の平で拭いながら、途切れ途切れに話し出す。
珠子も、ダビデ君も、要領を得ない私の話を最初から最後まで根気よく聞いてくれた。
「……それで逃げ出してきちゃったの?」
「……ん……」
「で?サエちゃんは、まだそこで待ってんだね?」
「……そう、言ってた」
ここで待ってるからって、言ってた。
珠子は頷いた私の肩をぎゅっと掴んで、真っ直ぐこっちを見て笑った。
元気付けるような、力強い笑顔。
「じゃあ、早く行かなくちゃ」
「……でも……」
「あのさ」
次に言葉を発したのは、ずっと傍で黙って話を聞いていたダビデ君だった。
一瞬だけ珠子と視線を交わすと、珠子はすっと横に身体をずらして、ダビデ君に場所を譲る。
ダビデ君は私の前に立って、まるで小さな子供を相手にするみたいに膝に手をついて前屈みになって、私と視線の高さを合わせた。
「、サエさんのこと、好きだよな」
「…………」
「俺に気遣わなくていいから。好きだろ?」
「……うん」
「そうか」
じっと私を見つめていた鋭い瞳が、ふっと柔らかく和んだ。
「がサエさんのこと好きでも、俺はが好きだ」
「――― ……」
「でも、俺じゃダメなんだってわかってる」
「……ダメ、なんて」
「ダメって言うか、サエさん以上の存在にはなれないってこと、だけど」
言い方悪くてごめん、とダビデ君は呟いて。
少し、淋しそうに笑った。
「それでもの気持ちが自分に向けられたらどうなるか、何度も考えた」
「…………」
「はそういうの考えたことあった?」
ダビデ君の言葉をゆっくりと、頭の中で何度も何度もリピートさせて。
ふと、思った。
私、サエ先輩が好きだってずっと思ってきたけど、でも。
――― 先輩が私を好きになる日のことは、考えたことがなかった。
「……私」
「考えたことなかっただろ」
「…………」
「変わることを望んでたけど、実際に変わった時のことは考えてなかったから、だから怖いって感じたんじゃないか」
いつものダビデ君と同じ、淡々とした話し方。
だからこそ、その一言一言はとても心に響いた。
涙の止まった私の頬を、サエ先輩より少し大きい手のひらが包み込む。
ぱちん、と軽い音が両方の頬で鳴った。
「―――行ってこいよ」
「花火はうちらが買いに行くからさ。あんまりサエちゃん待たせないでやんなよ」
「……うん」
頷いた私の頬から、天根君の手がゆっくり離れた。
まだ少しダビデ君の手のひらの温度が残る頬を自分でも軽く叩く。
気持ちを切り替える、儀式みたいなつもりで。
「……行ってくる!」
「気をつけなよね。途中まで一緒に行こうか?」
「ありがと、でも大丈夫」
「そっか」
ちょっとホッとしたように笑った珠子に笑い返して。
もう一度、ダビデ君と視線を合わせる。
「ありがとう、ダビデ君」
「……頑張れ」
向けられた優しい笑顔と、短い激励の言葉に、しっかりと頷いて。
私はさっき戻ってきた道を、今度はサエ先輩の方に向かって走り出した。
言葉どおり、さっきと同じ場所の薄暗い街灯の下、ガードレールに半分腰掛けるように寄り掛かって、サエ先輩は私を待っていてくれた。
私のサンダルの足音に気付いて振り向く。
変わらず真っ直ぐに向けられる視線を、今度は躊躇わずに受け止めることが出来た。
ずっと、自分に向けられることを願ってきた、その眼差し。
ガードレールから離れて、サエ先輩はゆっくりと私の前まで来て。
僅かに俯くと柔らかな前髪がさらりと揺れて、街灯に照らされた端正な顔立ちに深い影を刻んだ。
しばらくの間、二人共何も言わずに、ただ見つめ合って。
先に口を開いたのは私の方だった。
「―――さっきは、ごめんなさい」
「……いや、俺の方こそごめん。急にあんなこと言って、驚いただろ」
「そうですね……すごく、驚きました」
そう言ってちょっと笑ったら、サエ先輩も釣られたように微かに口元に笑みを浮かべた。
でもすぐにその微笑みは消えて。
「さっきも言ったけど、冗談とか、悪ふざけとかじゃないよ」
「……はい」
「が好きだ」
「…………はい」
「だから、の今の気持ちが知りたいんだ。―――ちゃんと、の口から」
聞かせて?と言ったサエ先輩の声は、微かに震えていた。
―――この恋を終わらせる為じゃなく、始める為に告白したのは、ほんの二ヶ月ほど前のこと。
想いを告げることで、この恋のスタートラインに立つ、そんなつもりで。
あの日からずっと、私の気持ちは変わらない。
……ううん違う、変わってはいたんだ。
一緒に過ごす時間が増えて、それまで知らなかった先輩の新しい一面を知るたびに、この気持ちは育っていった。
日々を重ねるごとに、想いは強く、深く、鮮やかに、色を塗り重ねるように。
育って、いたんだ。
「サエ先輩、私ね」
「…………」
「前よりももっと、ずっと、先輩のことが、好きです」
遠く、近く、響く波の音が。
言葉の最後を掻き消したかと思ったけれど。
少し照れたような、優しいサエ先輩の笑顔が、確かに私の言葉が届いたことを告げていた。
ゆっくりと頭をもたげたサエ先輩の額が、私の額にそっと寄せられて。
長い睫毛の奥の穏やかな光を宿した瞳をゆっくりと細めて、サエ先輩はまだ震えを残す声で囁いた。
「―――ありがとう、」
―――風が吹いて、緑濃い木々の葉を揺らした。
描きかけのスケッチブックから目を離して、視界を染める緑鮮やかな枝を見つめる私の耳に、優しい声が届く。
「!」
呼び掛ける声に隣にいた珠子と顔を見合わせて笑って。
スケッチブックをベンチに置いて立ち上がると、真っ直ぐに歩き出す。
躊躇うことなく、真っ直ぐに。
あの日と同じ鮮やかな緑の中、笑顔で手を差し伸べる、大好きな人の元へ。
= END =
最後までお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。