ずっと自分の元にいるとは思っていなかった。
でも心のどこかで少しだけ、期待していたのかもしれなかった。

この先もずっと、この手を離さずにいられたらいいと。
心のどこかで。
















この胸の光る星 ― The love shines in the heart like a little star ―


番外編 いつか手を離す時











『……ひよし、わか』
『あ?』
『って、読むの?』


大きな目が真っ直ぐにこっちを見て笑った。
俺が落としたノートを俺より早く拾ったそいつは、屈託のない笑顔でそれをこっちに差し出して。


『なまえ。「わか」ちゃん?』
『……わかし、だ』
『わかし。じゃあ「わか」ちゃんでだいじょーぶだね』
『…………』


何だこのチビ。
第一印象はその一言に尽きた。
慌てた表情でこっちに向かって走ってきた鳳の口から、ひとつ下の幼馴染だと紹介されて。
警戒心のない能天気そうな笑い方が、鳳とどこか似ていると思った。
それがそいつとの、 との出会いだった。
もう何年前も前、まだ俺も鳳もあいつも、今よりもっと子供だった頃。
















「―――ちゃん?若ちゃん!」
「……あ?」


急に視界が真っ白い光に満たされた。
すぐ間近からこっちを覗き込んでくる大きな目。
周囲を埋め尽くすざわめき。人の声。足音。
まだどこか霞がかったようにぼんやりしている頭を軽く振って周りを見回す。
軽く額を押さえた手に、小さな手のひらが重なった。


「大丈夫?」
「……ああ」
「映画、つまんなかった?それともどっか具合悪いの?」


……そうだ、ここは映画館だ。
前売り券をもらったからと、誘われて。
誘ってきたのは隣の席からこっちに身を乗り出して心配そうな表情を覗かせている、こいつ。
心配げな表情を崩さないの頭を軽く押し戻して、俺は椅子から身を起こしてそのまま立ち上がった。


「問題ねぇよ。ちょっとぼんやりしてただけだ」
「ホント?」
「嘘ついてどうなる。元々エンドロールは見ない主義なんだよ、俺は」
「ならいいけど」


も椅子から腰を上げて、列と列の間の狭い隙間をすり抜けてほとんど客がいなくなった通路に出る。
その後ろに続いて俺も通路に出たところで、目の前を歩いていたの背中ががくんと揺れた。


「たぅあ!」
「……っ」


咄嗟に手を伸ばして、腕を掴んで、バランスを崩した身体を引き寄せる。
転ぶ寸前で何とか体勢を立て直したが、腕の中からこっちを見上げてへらりと笑った。


「……ありがとー、若ちゃん」
「何もないところで転ぶな」
「ううー。今日の靴新しいから、まだ履き慣れてなくて歩きにくいんだよぅ」


そう言ったは少しヒールの高いそれを俺に見せるように、少し大袈裟に足を上げた。
大抵いつもスニーカーのこいつには少し不似合いな、大人びたデザインの革のブーツ。
スニーカーに慣れてる奴には確かに歩きにくそうな代物だった。


「似合わない物を履いてきたお前が悪いんだろう」
「若ちゃん冷たい……せっかくのデートだからお洒落したのに〜」
「それですっ転んでりゃ世話ねぇな」
「……返す言葉もございません……」


俺の腕の中から身を起こしてしょぼくれて呟く。
再び先に立って歩き出したものの、やっぱりどこかぎこちない歩き方は、見ていて酷く危なっかしかった。
……仕方ねぇな……。
溜息をついて、腕を伸ばす。
細い手首を掴んで軽く引っ張ると、驚いたような顔ではこっちを振り返った。


「若ちゃん?」
「行くぞ」


今ひとつわかってない表情のの手を掴んだまま、出来るだけゆっくりとした歩調で歩き出す。
慌てて隣に並んだは俺の顔と掴んだままの手を交互に見比べて、やがて嬉しそうに笑った。
子供の頃から変わらない、警戒心の薄い能天気な笑顔。
その笑顔のまま、俺の手の中から自分の手を引っ張り出したかと思うと、するりと極自然な動作で俺の指に自分の指を絡めて、しっかりと握った。
ちらっと視線を向けると、目があって。


「若ちゃん、優しくって大好き」
「……そうかよ」


不意打ちでそんな科白を言われて、うまい言葉を返せるほど俺は器用じゃない。
だが、普通の女だったら多分機嫌を損ねていただろうそっけない返事に、はますます笑みを深めて手を握る力を強くした。
映画館を出てからもずっと、手を繋いだまま俺たちは歩いた。
買い物に付き合って、家まで送り届けるまで、あいつは一度も手を離そうとはしなかった。
そして、俺も。






あいつと二人で出掛けたのは、あの日が最後。





















「―――若ちゃん!」


その声に振り返ると、いつも通りの能天気な笑顔。
バタバタと騒々しい足音を立てて走ってきて、俺の手を掴んで引っ張る。


「何だ」
「今日さ、帰りに部室来れる?」
「レギュラーのか?」
「うん!今日うちの部、和菓子作るの!若ちゃん好きでしょ、和菓子」
「……ああ」
「若ちゃんの分用意しとくからね、来てね!」
「わかった」


軽く頷くと、はますます嬉しそうに笑った。
何がそんなに嬉しいのか知らないが、掴んだままの手をぶんぶんと勢いまかせに振り回されて、さすがに少し辟易しているところにまたしても聞き慣れた声。


「―――!」
「あ、長太郎!」


振り返ったの肩越しに廊下の向こうから走ってくる鳳の姿。
―――それがいつかの場面と重なった。






『―――日吉』
『鳳。こいつはお前の知り合いか?』
『ああ、うん、幼馴染なんだ。 って言って、俺たちよりひとつ下』
『……ふん』
『わかちゃん、長太郎の友達だったの?』
『わ、「わかちゃん」?』
『……その呼び方やめろ』
『何で?わかちゃん』
、その前にちゃんと挨拶したのか?』
『あ、そっか!えっと、 です!これからよろしく、若ちゃん!』






「―――若ちゃん!」


記憶の中の幼い声と。
それより少しだけ大人びた、でも本質的には変わらない、今の声とが。
重なり合って響いて、俺の意識を引き戻す。
視線を転じた瞬間、俺の手を掴んだままだった小さな手がするりと離れた。


「あたし行くね!放課後、忘れないでね」
「……ああ」


笑顔のまま、は鳳の方へ走っていく。
言葉を交わす二人の姿を数秒間だけ見つめてから、俺は二人に背を向けて歩き出した。











いつか離さなくてはいけないとわかっていて、それでも俺はあの時あいつの手を取った。
だけど本当は、心のどこかで少しだけ、期待していたのかもしれなかった。
もしかしたらずっと離さずにいられるかもしれないと、心のどこかで。


けれど結局、俺の手の中には望んだものは残らずに。
行き場のない気持ちだけが残り、それは俺に小さな溜息をつかせた。






















日吉番外編、でした。
これで完全に『この胸の光る星』は終了です。
ここまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました!