この胸の奥にずっと。

消えないで光る星が、ひとつ。
















この胸の光る星 ― The love shines in the heart like a little star ―


第8話 その心に小さな星を











広げた手のひらの上にぽとりと上から落っこちてきたのは缶のレモンティー。
ぐっとアゴを反らして真上を見上げたら、自分用のポカリを手に侑ちゃんが立っていて。
その後ろにはコーラを手に奈津美先輩もいた。


「……侑ちゃん、奈津美先輩」
「まーたサボっとんのか?悪い子やなー」
「そう言ってるアンタもサボリじゃないの」
「そういうお前は何やねん」
「私はこの時間自習よっ」


いつもの給水タンクの陰。
その狭いスペースで、侑ちゃんと奈津美先輩はあたしの左右に身体を割り込ませて座った。
校庭ではどこかのクラスがサッカーの試合中で、男の子たちの声が風に乗ってこっちまで聴こえてくる。
しばらくは三人揃って無言で飲み物に口をつけていた。


「……二人とも、あたしになんか言いたくて来たんじゃないの?」
「うん?」


レモンティーを半分くらいまで減らしてから呟いた科白に、侑ちゃんは少し笑って大きな手のひらでくしゃくしゃとあたしの髪を撫ぜた。


「俺らに何か言われるようなことしたんか?」
「…………」
「あー、ホラホラそないな顔すんな。別に怒ってる訳ちゃうんやで?」
ちゃんとゆっくり話したかったのよ。最近、あんまり私たちの相手してくれなかったから」


淋しかったんだからね、と冗談めかして奈津美先輩が言った。
コーラの缶を手前に置いてこっちに向き直って、静かに話を切り出した。


「……鳳が月城さんと別れたって話は聞いた?」
「……あすか先輩から」
「そっか。別れた理由は?それも聞いた?」
「それは……聞いてない。『鳳君とは別れちゃったけど、これからも仲良くしてくれる?』って言われた」
「そう……」


奈津美先輩の目はあたしを見ていたけど、実際はあたしを通り越してどこか違うところを見てるようだった。
数日前のあすか先輩が、やっぱりそんなふうにあたしを見ていたな、とぼんやり思った。
若ちゃんの朝練に付き合って早めに着いた学校。
人気のない昇降口で一人ぽつんと立ってたあすか先輩は、あたしの顔を見るなり笑って言った。




『―――昨日、鳳君と別れたの、私』


少し寂しげな、でも何か吹っ切れたような笑顔だった。
どうして別れたんですか、と訊こうとしてもうまく言葉が出て来なくて。
そんなあたしに、あすか先輩は今までと同じ優しい笑顔で話し掛けてくれた。


『鳳君とは別れちゃったけど、これからも仲良くしてくれる?ちゃん』
『私、ずっとちゃんみたいな妹が欲しかったの、ホントよ?』


頷くしか出来ないあたしに、笑ってありがとうと言ってくれた。
こんな優しい人なのに、長太郎と別れて欲しいなんて考えてた自分が、ホントに嫌になった。
先輩は気付いてたのかもしれない。あたしが長太郎を好きだってこと。
だからああして、別れたってことを伝えに来てくれたのかもしれない。
だけど、あたしはもう長太郎のことをあきらめると決めたから。
本当はまだ好きだけど、誰よりも長太郎が一番好きだけど。

もうあきらめるって決めてしまったから―――。






「ねぇちゃん」


奈津美先輩の声で名前を呼ばれてはっと我に返った。
あたしの目を真っ直ぐに覗き込む奈津美先輩の目。
いつものように優しいだけじゃない、誤魔化しを許さない目をして。


「……ちゃん、まだ鳳のこと好きでしょう?」
「…………もういいの」
「よくないわよ。ちゃん言ってたじゃないの、簡単にあきらめられない恋なんだって。だから焦らない、頑張るんだって。月を見て泣くだけの女にはならないって。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃない!!」


自分でも驚くほど大きな声で叫んでた。
あきらめると決めたあの日以来泣いていなかったのに、一気に涙が溢れて零れ落ちて。
奈津美先輩に言ったことに、ひとつも嘘なんてなかった。頑張れるって思ってた。
―――あの日までは。
だけど長太郎の一言でその気持ちは挫けてしまった。




『今、好きな奴っている?』




どんなに長太郎のことを好きでも。
『大好き』って何度言っても、あたしは長太郎の恋愛対象にはなれないんだと、そう言われた気がした。
この想いは届かない、だからどんなに想っても無駄なんだって。


「いつかきっと、って思ってたけど……だけどそうじゃなかったんだもん!長太郎にとってあたしは一生妹でしかないんだって……いくら頑張っても意味がないんだって、言われた気がしてっ……!」


―――だから怖くなった。
いつか叶うかもしれないと信じることが出来なくなって、想い続けることが怖くなった。
だから逃げた。
長太郎だけじゃないって言ってくれた若ちゃんの言葉に便乗して、若ちゃんが差し伸べてくれた手に縋って。
あたしは逃げ出したんだ、長太郎への想いから。


「……バカね」


ふわりと甘い香りが鼻を掠めて。
奈津美先輩の腕があたしの肩に回ってそっと抱きしめられた。
耳元で宥めるように優しく、奈津美先輩の声が響く。


「無理しちゃダメって言ったでしょ?一人で耐えるのが辛くなったら愚痴りなさいって言ったのに」
「……って……っ」
「だってじゃないの。肝心なとこで甘え下手なんだから、この子は」
「―――ホンマやな」


それまでずっと黙りっぱなしだった侑ちゃんが、ぽつりと呟いてまたあたしの髪を撫でた。
何度も何度も、そっと優しく。


「いざって時に頼ってもらえへんのは淋しいわ。俺らはのこと大事な妹みたいに思って心配してんのに」
「……ご、め……」
「何で俺らやのうて日吉に甘えてんねん。よりにもよって日吉!俺は傷ついたでー」
「……んなことゆっても、あの日若ちゃんをお見舞い来させたの、侑ちゃんたちじゃん……」
「それとこれとは別や!日吉も日吉や、鳳に自覚持たせんのに小芝居するんやったら、自分一人で勝手に話進めんとこっちに相談せぇ!つーか俺に相手役やらせろっちゅーんじゃ!」
「忍足、話の論点が思いっきりずれてるんだけど」
「……何の、話……?」


何だかいきなり話が変な方へいってる。
小芝居って……若ちゃんとあたしの『お付き合い』のこと?
あたしが長太郎と距離を置けるようにって考えて、若ちゃんは付き合うかって言ったんじゃなかったの?長太郎に自覚持たせるって、どういうこと……?
混乱したまま奈津美先輩を見上げたら、先輩はちょっと笑ってポケットから取り出したハンカチであたしの涙を拭いてくれた。


ちゃん、顔ぐちゃぐちゃ」
「奈津美先輩、どういうこと……?長太郎になんか、したの?」
「俺らは何もしとらんて。日吉がちゃちい小細工しただけや」
「―――ちゃちくてすいませんね」


その声は後ろの方から聞こえてきた。
あたしたちのいる給水タンクの陰から少し離れたとこに若ちゃんが立ってて。
こっちに早足で歩いてきたと思ったら、侑ちゃんを押し退けてあたしのことをタンクとフェンスの間の隙間から引っ張り出した。


「ひーよーしー!お前な、俺を何やと思てんねん、押すなコラ!」
「どうもすいませんでした」
「……それが謝っとる態度かい」


若ちゃんは一言謝って、あとはブツブツ言ってる侑ちゃんは無視してあたしの方に向き直った。
手を伸ばしてそっとあたしの頬に触れる。
あの日と同じ、少し冷たい手のひら。


「また泣いてやがったのか」
「……若ちゃん、どういうこと?小芝居とか小細工とか……」
「鳳の馬鹿さ加減に流石に呆れてな。いらん世話を焼いただけだ」
「いらん世話って」
「あとはあいつに聞け。俺はもう関係ないからな」


突き放す言い方で、でも表情は今までと同じで優しいまま。
冷たい指が頬から離れてあたしの肩をそっと押した。
押し出された先に、背の高い人影。
アッシュグレーの髪が風に静かに揺れた。











誰よりも優しく。
あたしの名前を呼ぶ、その声。


「……長太郎」


あたしの声に、長太郎は微かに笑った。





















「じゃあな、あとは勝手にやれ」
「若ちゃん?」


長太郎の肩を軽く突いて、若ちゃんはさっさと屋上から姿を消してしまった。
侑ちゃんと奈津美先輩が意味ありげにあたしの頭を撫でたり軽く叩いたりしてから、その後に続く。
侑ちゃんは長太郎の横を通り抜ける瞬間、軽くその額を引っ叩いていった。


「次に泣かせた時はただじゃ済まさんからな」
「……肝に銘じます」
「じゃあちゃん、また放課後にね」
「え……侑ちゃん、先輩……」


呼び掛けたあたしの声に軽く手を振って、二人は階段を降りていった。
二人の制服の背中が階下に消えて、足音が完全に聞こえなくなってから。
三人を見送っていた長太郎がこっちを振り返った。



「…………」


こんなふうに二人きりで話すのは、久しぶりな気がする。
何か言わなくちゃいけないと思うのに何も言葉が出て来なくて、あたしは深く俯いた。
黙って立ち尽くしているあたしの傍へ、コンクリートの床を鳴らしてゆっくりと長太郎が近付いてきて。
伸ばされた手のひらが、さっきの若ちゃんと同じようにそっと頬に触れた。
若ちゃんの体温の低い手のひらとは違う、若ちゃんよりも大きくて温かい手のひら。
この感触を知ってる。小さな頃からずっと傍にあった、大好きな手のひら。



「……何」
「俺、月城先輩とは別れたよ」
「そのことなら、あすか先輩に聞いた」
「そっか。他に何か言ってた?」
「……長太郎と別れても仲良くしてねって」
「そう。―――俺さ、ふられたんだ」


思わず顔を上げたら、長太郎はあたしの顔を見て苦笑した。
でもそれは哀しそうでも辛そうでもなくて、長太郎と別れたと話した時のあすか先輩に似た、何か吹っ切ったような笑顔だった。


「自分のことを見てくれない男と付き合い続けても意味がないから別れようって言われて。好きな子がいないなんて嘘つくなってさ、一発引っ叩かれちゃったよ」
「…………好きな、子?」
「うん。ぼんやりしてその子のことばっかり見てて、一目瞭然だって」
「好きな子が、出来たんだ……」
「うん。出来たって言うより気付いたって言うべきかな」


呆然と繰り返すあたしの言葉に、長太郎は笑って頷いて。
とても幸せそうに言葉を続けた。


「きっとずっと好きだったんだと思う。大切な存在だとは思ってたけど、どういう意味で大切なのか、ちゃんと自分の気持ちを考えたことがなかったんだ。傍にいるのが当たり前だったから深く考えたことがなくて、失いかけてやっと気付いた。―――こんなに好きだったんだって」
「……そう、なんだ」
「うん」


いつかみたいに、長太郎の声がどんどん遠くなっていく感じがした。
何を言ってるのかわからない。わかりたくない。聞きたくない。
でもその言葉はくっきりと輪郭を持って耳に飛び込んでくる。
重たい腕を無理やり持ち上げて、耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるあたしの前で、長太郎はふと表情を改めた。


笑顔の消えた生真面目な顔の中からこげ茶色の瞳が真っ直ぐにあたしを見つめて、ゆっくりと唇が動いて。






「―――やっと気付いた。のことが好きだって」











……どのくらい、あたしは黙っていたんだろう。

長太郎の唇から零れ落ちた言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。
笑うことも泣くことも、指一本動かすことさえ出来ないで。
全身が芯から凍りついてしまったみたいにその場に突っ立っていた。


「―――


優しい声がもう一度、あたしの名前を呼んだ。
腰を屈めて、息がかかるほどすぐ間近から、真っ直ぐにあたしの目を覗き込んで。






のことが、好きだ」






―――視界が揺らいで。
瞬きした途端に自分でも驚くくらい次から次に涙が溢れて、長太郎の顔が見えなくなって。
次の瞬間には抱きしめられてた。
息も出来ないくらい、きつく、強く。


「……ちょ、たろ……」
「ずっと辛い思いさせて、ごめんな」
「…………」
「今までずっとの気持ち蔑ろにしてきたんだから、もう愛想尽かされても嫌われても仕方ないって思ってる。だけど、ひとつだけお願いがあるんだ」
「……お、願い?」


抱きしめていた腕を少し緩めて、長太郎はあたしの顔を真正面から見つめた。
前髪が触れるくらい近くでじっと見つめ合って。
長太郎の言葉を待った。






「愛想尽かしても嫌いになってもいいから、俺がのこと好きでいることは許して欲しい」
「……え……」
のこと好きでいるだけでいいんだ。気持ちを返して欲しいなんて言わないから……」


それだけは許して欲しいって。
そう長太郎は呟いて、判決を待つようにかたく目を瞑った。


……なんて勝手なんだろう。
こっちの気持ち、振り回すだけ振り回して、最後にそんなお願いなんかするの?
こんなのって。


「……らしくないよ、長太郎」
「そう、かな」
「わがままだし、自分勝手だよ」
「……ごめん」
「ちゃんとあたしの気持ちも聞かないで、嫌いになってもいいとか好きでいさせろとかさ」
「ごめん」
「あたしは……あたしだって……」


涙で歪む視界の中、長太郎の戸惑い気味の顔を精一杯睨みつけて。
しゃくりあげながら、小さな声で。
今まで何度口にしたかわからないその言葉を囁いた。






「……大好きっ……」






気がついたら、もう一度抱きしめられてた。
視線だけ動かすと、すぐ横にアッシュグレーの髪が揺れていた。
まだ何だかぎこちない腕を持ち上げてそっと触れた背中は大きくて温かくて。
耳元で聴こえた声は、少しだけ震えていた。




「ありがとう」
「……うん」
「気付くのが遅くて、ごめん」
「……ヴァイオリン弾いてくれたら、チャラにしてあげる!」


そう言ったら、長太郎は小さく声を立てて笑った。


「いくらでも弾くよ。―――リクエストは?」
「キラキラ星変奏曲」
「また?」
「だって好きなんだもん」


いつものやり取りに、あたしたちは目を合わせて笑って。
約束のしるしみたいに、そっと触れるだけのキスをした。





















それは決して消えない。
君の奏でる優しいヴァイオリンの音色みたいに、きらきらと光り続ける。


君への想い、この胸の小さな星。





















= END =