繋いだ手の温もり、名前を呼ぶ声、夕焼けに赤く染まる笑顔。 君の全てが愛しくて、懐かしい。 昼間、PXで購入したのど飴をポケットから取り出して、口に放り込む。 薬臭い味が嫌だったのでフルーツ系を選んだ。舌の上で小さな欠片を転がして甘酸っぱい風味を楽しみながら、ヒジリはのんびりと廊下を歩いていた。 大分日は傾き、窓から入り込んだ涼しい風が頬を撫でていく。海沿いの地域特有の、潮の香りを含んだ少しべたつくその風は、ヒジリにとっては馴染み深いものだった。 風に乗って耳へ届く潮騒の音は優しい音楽のようで、一日の疲れを洗い流してくれる。この時間帯なら他の人間に出会う確率はほぼ0だろうと考え、ヒジリはただ何となく前に進めていただけの足を外へと向け、浜への道をゆっくりと辿り始めた。 LAGへと戻ってきて数ヶ月。 ふとした折に懐かしい記憶はヒジリの中に甦ってくる。温かい笑顔、弾ける笑い声、頭を撫でる手、からかう仕草、呆れたような溜息、厳しくも優しい眼差し。ヒジリの名前を呼んでくれるたくさんの、声。 共に過ごせた時間はそれほど長くはなかったのに、想い出は涸れることのない泉のように次から次へと溢れて、胸に切ない痛みをもたらす。 愛しくて、恋しくて、大切な、でももう取り戻すことの叶わないもの。子供のように泣いて喚いて駄々をこねてもう一度手に入れられるものなら、恥も外聞も構わずそうしてやるのに。 失われた命も時間も、決してこの手の中には戻ってこない。―――ただ一人の例外を除いては。 『―――ヒジリくん』 「……ヒジリくん?」 「――――――」 不意に記憶の中の声と同じ声に名前を呼ばれて、ヒジリの心臓はどくりと大きく音を立てた。 振り返った視線の先で、小柄な人影が軽く横に首を傾げる。記憶の中の彼女よりも幾分短い髪がさらりと揺れた。 同じ声なのに、今聴く彼女の声は以前よりも幼く聞こえる。それは今のアキラが再生後の眠りから目覚めて間もない故に17歳という自分の年齢に何ら疑問を抱いていないからなのか、それとも4年という月日を経てヒジリが成長した所為なのか。 「ヒジリくん?どうしたの、ぼーっとして」 「……っ。あー悪ィ、ちょい考え事してた」 「何かあった?」 心配そうに下から覗き込んでくる眼差しに、自然と口元に笑みが浮かんだ。 手を伸ばして褐色の髪を撫でると、子供扱いされたようで気に食わなかったのか、アキラの唇がむぅ、と軽く尖った。そんな表情も、記憶の中の彼女とは微妙に重ならない。 かつてはヒジリの方がずっと年下だったし、まだ成長途上だったヒジリはこんなふうに彼女を見下ろしたことなどなかった。 いつか追い抜いて、見下ろしてみせるなんて思っていた。でもそれはこんな形で叶えたかった訳ではなかった。そんな思いが頭を過ぎって、僅かな空しさと痛みが胸に去来する。 くしゃくしゃと髪を掻き回すヒジリの手に抗議の声を上げようと口を開きかけたアキラは、ヒジリの顔を見て表情を微妙に曇らせた。 「ヒジリくん、ホントに何かあったの?大丈夫?」 「はい?いや、別に何もねーって」 「でも、じゃあなんでそんな、泣きそうな顔してるの」 「え」 一瞬言われた言葉を理解出来ず、素で聞き返した。泣きそうな顔なんてしてない、いつものように笑っていたはずなのに。 アキラの髪に潜り込ませていた手のひらを引こうとすると、小さな手がそれを捕えて引っ張った。 きゅ、と握ってくる力の強さに戸惑ったように視線を上げると、真摯な色を宿した双眸と真正面から見つめ合う形になった。 「何があったか知らないけど、私じゃ力になれない?」 「…………」 「話したくないことなら、無理に話さなくてもいいけど」 でもね、と呟いて、アキラが両手でヒジリの手を包み込むように握り直した。 懐かしい温もり。何も持たない抜け殻のようなちっぽけな子供だったヒジリを慈しんで、空っぽだった『無月ヒジリ』をたくさんの温かいもので満たしてくれた、たくさんの手のひらの中のひとつ。 「私も、ISの皆もヒジリくんの傍にいるから。だから、一人ぽっちで苦しんだり泣いたりしないでね」 ――――――かつて失われて、二度と取り戻せないはずだった、大切なもの。 唯一取り戻せた小さな手をぎゅっと握り返し、そっと引き寄せて押し戴くように額に押し当てた。 ああもうウゼェなあ、なんて掠れた声で悪態をついて、けれど言葉とは裏腹に胸の奥に温かい感情が満ちて溢れる。 真面目で頑固でおせっかいで、自分に出来ることがあるならと無理ばかりしていて、ちょっと鬱陶しいと思うこともあったけれど、そんなところも含めて好きだった人。 共に過ごした記憶が彼女の中から消えてしまっている事実を突きつけられるたび、心は切り裂かれるような痛みを覚える。 もう決して彼女と共有することのない過去の記憶は、これからもきっとたくさん掘り起こされて、そのたびに同じような痛みが自分を襲って、小さな傷を胸の奥に刻むだろう。 それはヒジリが過去を忘れることが出来ない限り、決して避けることの出来ないものだ。 それでも、取り戻せたこの手が傍にあるならば、耐えられる。 そして今度こそ守り抜いてみせる。彼らの分まで。新たな仲間と。 「ヒジリ、くん?」 「サンキュな」 一度手を離し、今度は自分からアキラの手を取る。 「帰ろうぜ」 「……うん」 くるりとその場で踵を返すと、真っ赤に染まった太陽がゆっくりと沈んでゆくのが見えた。 優しくも鮮やかな朱色に染まる道を、小さな子供のように手を繋いで、二人はゆっくりと辿っていった。 [130201] |