呟くように告げた声に、目の前の表情が歪んだ。
哀しげな眼差しを受けて、後悔が漣のように押し寄せる。それを振り切るように、は唇を噛み締めて深く俯いた。



「……



彼の声が名前を呼ぶ。いつもなら何度でも呼んで欲しいと思うのに、今はそれを聞くのが辛かった。続けて紡がれる言葉から逃げるように、ぎゅっと目を瞑り、両手で耳を塞ぐ。
微かに空気が動いて、顔を上げたの頭に大きな手のひらが触れた。指が長くてごつごつしていて、少しひんやりしている、男の子の手。
触れられることをずっと望んでいたはずのそれを、は咄嗟に払い除けた。


「やっ……!」
―――ッ」



小さく息を飲む音に、はっと我に返る。
払われた手との顔を交互に見る彼の目は、さっきよりもっと哀しそうで。
堪えきれずに後ろを向くと、は全力でその場から走り去った。















      背中合わせ















後ろ手に扉を閉めて、はあっと大きく息をついたが視線を上げると、ソファに悠然と腰掛けていた翼と目が合った。お気に入りのチェック柄のヴィーナス像を磨く手を止めて、じろりと闖入者を睨む。
ややして、溜息とともに零れた言葉は、その内容とは裏腹にどこか優しい響きを伴っていた。



「何だその酷い顔は。そんな顔を男に見せたら、百点の恋も冷めるぞ」
「……冷めるのは百年の恋でしょ。大体、恋して欲しい男は他の人に夢中だもん、関係ないよ」
「一と何かあったのか」
「…………」



黙って俯いたの視界が不意に翳る。顔を上げると、いつの間にかソファから腰を上げた翼がすぐ傍まで来ていて、腕を掴まれた。そのまま強引にソファまで引っ張っていかれる。
半ば無理やり座らされたの前に、永田がオレンジジュースのグラスを置き、代わりに翼のヴィーナス像を持ち去った。
翼は自分の分のグラスを手に、何も言わず、静かにを見下ろしている。その目はとても優しくて、張り詰めていた気持ちをゆっくりと融かしてくれた。ずっと我慢していた涙が零れて、膝の上でぎゅっと握り締めた手の甲を熱く濡らした。
ついさっきまでの光景を思い出す。哀しそうな一の顔と、振り払ってしまった手。



「……一に、酷いこと言っちゃった」
「酷いこと?」
「優しくしないでって。好きな人がいるくせに、他の女にまで優しくするような男は嫌いって」
「相変わらず見事なアマノジャクだな」
「だって……!」



翼の言葉に言い返そうとして、でも返す言葉が見つからずに、は翼から顔を背けてソファの上で横向きに座り、小さな子供が拗ねるように膝を抱え込んだ。抱えた膝に顔を埋めて、靴を脱げ、という溜息混じりの翼の言葉を背中で聞く。
翼の言うとおり、自分は天邪鬼だと思う。好きなのに、嫌いだなんて心にもないことを平気で口にして。
でも、思わずそんなふうに言ってしまうほど、一が向けてくれる優しさが辛かったのだ。一のくれる優しさは、友人に対するものの域を出ない。今、翼が向けてくれている優しさと同じで、友人としては大事にしてくれるけれど、それ以上のものを与えてくれることは、決してない。
一の心の中の、一等特別な場所に住んでいるのは、ただ一人。
その場所にを住まわせてくれることはない。
想いはどんどん募っていくのに、決して叶わないと思い知らされるから。
だから辛い。優しくされればされるほど、それに比例して辛くなっていく。
なのに諦められない。好きで、好きで好きで好きで、傍にいたくて、でも辛くて。
矛盾している。



「……もう、どうしていいかわかんないよ……」
――――――



ぽすんと小さな音を立てて、ソファが少し沈んだ。
次いで背中に微かな重みが圧し掛かる。数センチ上から翼の声が降ってきて、背中に寄り掛かられたのだとわかった。



「せめて憎めたらよかったのかもな」
「……翼?」
「俺も、お前も。ライバルを憎めたら、少しは楽だったのかもしれない」
「…………」



ぽつりと零れた台詞に、は僅かに目を瞠った。
背中越しに静かに降ってくる翼の声が鼓膜を震わせて、ゆっくりと胸の奥に染みこんでゆく。



「一はいいヤツだ。そんなことはこの俺が一番良く知っている」
「……うん」
「担任も、まあ欠点も多いが、素晴らしい女性だ。お前もそれをわかってる」
「……うん」



知ってる、と呟く。南 悠里の明るい笑顔が脳裏を過ぎった。
教師なんて大抵碌なものじゃないと思っていたのに、そんな自分たちの偏見を払拭したひと。
笑顔が可愛い人だと思った。先生、と呼ぶとなあに?と小首を傾げる、そんな仕草もいちいち可愛くて、明るくて元気で、何につけても一生懸命で、憎めなくて。
そう、憎めなくて。



一の悠里を見る目が変わり始めたことに気づいても、悠里のことを嫌いになれなかった。
悠里が一のことを特別に見ていることに気づいても、納得してしまう自分がいた。
一が彼女に惹かれる気持ちも、悠里が一に惹かれる気持ちも、わかってしまうから。
わかるから、憎めない。
羨ましいと思っても、苦しくても辛くても、嫌いになれない。
どんなに辛くても。










背中に感じる翼の体温に、息苦しさが少しずつ消えていく。
同じ思いを共有出来る相手がいることが、今は救いだった。



「……翼」
「What?」
「私、一に謝ってくる」
「そうか」
「翼」
「なんだ」
「ありがと」
「……ああ」



広い背中に自分自身の背中を預けて、そっと呟く。
触れ合った背中越しに聞こえてきた微かな笑い声は、やはりとても優しい響きだった。










[080902]
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