そのたった一言に、小さく無力なガキのように声をあげて泣き出しそうになる自分がいる。 他愛ない一言がどうしてこんなにも心に響くのか。答えはわかっている。嫌になるほどわかっている。 (俺は、貴方を) 僕を絶望へたたきこむ声 「きゃっ」 「……っ」 L字廊下を曲がった瞬間、聞き覚えのある声が響くのと同時に、一の胸の辺りに軽い衝撃がきた。 咄嗟に腕を伸ばして、その場に崩れ落ちそうになった身体を抱き止める。軽くて細くて柔い女の身体。明るい色の髪が揺れて、背中に回した右手の甲をくすぐった。 こそばゆい感触に軽く眉を顰めた一の腕の中で、その人は何とか体勢を立て直すと、顔を上げて恥ずかしそうに笑った。ぶつけてしまった所為か、鼻の頭が少し赤い。 「一君。ぶつかっちゃってごめんね」 「別にどってことねえよ。つーかそんなに急いで、なんかあったのか?」 「あ、そうだった!清春君を見なかった?」 「清春?」 の口から出た名前を聞いて、一の胸の奥にちりりと微かな痛みが走った。 微かな動揺を上手く隠して、視線を反らしてうーんと唸る。 「HRの後は見てねえけど?」 「そう……どこ行っちゃったのかしら、もう!」 「また逃げられたのか」 「そうなのよ、ホント困っちゃう。やっと捕まえたと思えば悪戯してまた逃げるし」 「清春だからな。ま、頑張れよセンセー」 「うう……」 薄いピンクに染めた唇をヘの字に曲げた表情は、教師にしてはあまりに幼すぎて。 それを見つめる自分の目が自然と柔らかく綻んでいくのを感じながら、一は引き寄せられるように伸ばした手で、明るい色の髪を掻き撫ぜた。柔らかくさらさらと指の間をすべる感触に、また少し胸が痛んだ。 そんな一の胸の内など知りもせずに、は子供のように頬を膨らませて唇を尖らせた。 「あのね、一君。また私のこと、小動物扱いしてるでしょう」 「そんなことねえって。センセーがあんまり可愛いからさ」 「だからそれが……って、あっ!」 一の背後に視線を投げたの表情が一変する。 反射的に背後を振り返ろうとした一の腕に、一瞬温かいものが触れて。 それがの手のひらだと認識した時には、の身体は一の横をすり抜けて走り出していた。 「清春くんっ!見つけたわよ、待ちなさい!」 「ケッ、鈍足のブチャ如きに俺様が捕まるかっつゥのォ!」 「鈍足じゃないわよ!これでも運動神経は悪くない方なんだからっ」 「言ったなァ?じゃあ捕まえてみせやがれッ」 淡い色のスーツの背中が、数メートル先の廊下で高らかに笑う清春に向かって走っていく。 またしても胸に走った微かな痛みに一がくっと眉を顰めた時、唐突にが足を止めて振り返った。 「――― 一君!」 「……あ?」 「ごめんね、ありがとう!また、明日!」 「――――――」 一瞬の笑顔をそこに残して。 くるりと身を翻してこらー!と叫びながら、の姿は階段の向こうへと消えた。 立ち止まったままの一の横顔を、窓から差し込む夕日がそっと照らし出す。 『―――また、明日』 そう言ったは、明日もまた、一ではなく清春の為に走り回るのだろう。 真っ直ぐなあの瞳が追いかける背中が、自分のものになることはない。 聞く側にはとても特別に響いた一言は、彼女にとってはありふれた一言でしかないのだ。 そうわかっているのに、その一言に激しく揺さぶられる自分の心の弱さを苛立たしく思う。 小さく短く零した一の溜息は、静かな廊下の冷たい床に零れて消えた。 [ 070607 ] |