「センセ、さよならー」 「さよなら、また明日」 「先生、さよなら」 「先生、おっ先ー」 「さよなら、気をつけて帰るのよ」 「またなセンセー」 「はい、さよなら、またね」 一日の務めを終えて次々に教室を飛び出していく生徒たちに笑顔で挨拶を返し、時に手を振る。 窓の外にぼんやりと視線を投げかける振りをして、窓ガラスに映るその姿を見つめていたら、いつの間にか教室に残っているのは一とだけになっていた。 クラスメイトたちに向けられていた笑顔が、一ひとりに向けられる。 「お待たせ、一君。今日もちゃんと残ってくれたわね、偉い!」 「逃げたって追っかけてくるじゃねえか、アンタ」 「そりゃそうよ、それが私の仕事だもの」 得意そうに胸を張る姿は、教師として敬うには少々可愛らし過ぎて、感心よりも笑いを誘う。 一が我慢出来ずに吹き出すと、は拗ねた子供のようにむっと唇を尖らせた。本人は怒ってみせているつもりなのだろうその表情が、ますます一の笑いのツボをつく。 なかなか笑いを収められないでいると、ぱさりと軽い音を立てて、プリントの束が頭上に降ってきた。 「いつまで笑ってるの」 「センセーが面白すぎるのがいけないんだろ」 「何でよ!別に面白いことなんか何もしてないじゃないの」 「自覚がないとこが余計に面白いんだよな」 ククッと笑った一の頭をもう一度手にした紙の束で叩いて黙らせてから、向かい合わせた席に腰掛けると、はきりりと表情を引き締めた。 『教師』らしい顔になったを見て、一もとりあえず居住まいを正す。机の上に放り出したままになっていたシャープペンを握り、目の前に置かれたプリントに視線を落として。 静かになった教室に、の声と一の声と、シャープペンが紙の上を走る軽い音だけが響き始めた。 そして二時間後。 「―――じゃあ、今日はここまでね」 終わりを告げるの声に、ペンを手放して一は大きく息を吐き出した。 椅子の背にだらしなくもたれかかって、細かい文字でびっしりと埋まったプリントに満足げに目を通す、少し俯きがちの横顔を眺める。回答をチェックするの顔は、まだ『教師』のままだ。 最近はその顔も嫌いではなくなってきたけれど、どちらかと言えばやはり普段のの顔の方が、一は好きだった。見ていて楽しい、飽きない、と言う意味合いで。 椅子の背もたれから身体を起こして、机に頬杖をついた時、プリントから目を離してこちらに向き直ったと視線がぶつかった。 一を見る目がこれまでにない程柔らかく和んで、淡い桃色に塗られた唇がにっこりと笑う。それを見た瞬間、どきりと心臓が大きく跳ねて、いきなりのことに一は頬杖をついたまま硬直した。 ―――イマノハナンダ? 「すごいわ、一君!正解率がぐっと上がってるわよ」 「…………」 「一君?」 「……へっ?あ、あーえっと、よ、良かったな?」 「他人事みたいに!自分のことでしょ?せっかく褒めたのに、嬉しくないの?」 予想した反応と違っていたのがつまらなかったのか、ぷうっと頬を膨らませてが問い掛ける。いつもなら思わず吹き出してしまうような、の『可愛い』顔。 けれど一の心臓はいつもと違って、ひたすらその鼓動を早めるばかりで。 ―――コレハナンダ? 「はーじーめーくんっ?」 「え?……うわっ!」 「何よ、失礼ね!人の顔見て飛び退くことはないじゃない!」 いきなり至近距離から顔を覗き込まれて、呆然としていた一は一気に我に返った。後退りながら周りを見回せば、使っていた机の向きは直され、教材は綺麗にまとめられての胸に抱えられており、あと終わっていないのは一の帰り支度だけと言う状況。 あまりにおかしなその様子に、も流石に首を傾げ、手のひらを一の額へと伸ばした。 「どうしたの、一君。補習のし過ぎで熱でも出ちゃった?」 「う、あ、いや。別に何でもねえっ……からっ」 「でも」 「マジで大丈夫!全く問題なし!」 伸ばされた手のひらから逃げるように仰け反って、ぶんぶんと首を左右に振る。 しばらくいぶかしげに一の顔を見上げていたも、やがて諦めたように小さく息をついて、伸ばしていた手を引っ込めた。 微妙な空気を誤魔化すように、机の上のプリントとペンケースに手を伸ばす。一がそれを掴むより先に、の口から零れ出た言葉が、その動きを止めた。 「じゃあ、私は職員室に戻るわね。気をつけて帰るのよ?」 「――――――」 長い髪が翻り、差し込む夕暮れ薄紅色に染まる小さな背中が、一の視界に映る。 次の瞬間、ペンケースを掴む為に伸ばしたはずの手は、スーツに包まれた細い二の腕を掴んでいた。驚きと困惑の表情で、が一を振り返る。 「一君?どうしたの?」 「……や、なんつーか……」 「?」 「あー……何だろ、な」 「もう、何なの?」 「何か俺、先生に言わなきゃなんねーことがある、ような」 見上げてくる視線を受けてぼそぼそと呟く。自分が起こした行動なのに、説明がつかない。この状況で言うべき言葉と言ったら、帰りの挨拶くらいしか思いつかない。だが。 (……何て言やぁいいんだ?) 言葉は一向に明確な形を得ず、困り果てた挙句、一は無言でゆっくりと指に籠めた力を抜いて、の腕を解放した。 大きな手の中から引き抜いた自分の腕と一の顔を交互に見比べて、不思議そうに首を傾げたは、ぼんやりしている一の肩をぽんぽんと叩くと、『教師』の顔で微笑んで。 「じゃあ、今日はこれでさよならね、一君」 「……ああ」 「早く帰ってゆっくり寝るのよ。また明日ね」 労わるように掛けられた言葉に頷いた一に、もう一度笑いかけて、今度こそは教室を出て行った。 の最後の言葉を反芻して、一はやっと言うべき言葉を思い出した。 そして、『また明日』と言う、単純なその挨拶の言葉が何故言えなかったのか、少しの間考え込んで。 やがて導き出された答えに、一は更に深く考え込むこととなった。 ――――――別れと再会を約束する、短いその言葉を。 言えなかったのではなく、言いたくなかったからだという、答えに。 [ 070609 ] |